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江戸城を守護する二つの寺①増上寺

 JR山手線の浜松町駅北口を出て大門通りを歩くと、増上寺の大門が見えてくる。今では寺から離れてぽつんと立っているように見える大門だが、江戸時代にはこの門をくぐると増上寺の支院や学寮がびっしりと建ち並んでいたのだ。よく見れば、今でも商業ビルの間に小さな寺がぽつぽつと存在するのがわかる。

増上寺大門
増上寺大門

 大門をくぐってさらに進むと、朱色の巨大な三解脱門が目の前に現れる。この門は元和八年[1622]建立。戦災を免れた数少ない建築物で、浮世絵にもよく描かれている。

増上寺三解脱門

 大本山増上寺は浄土宗の寺である。明徳四年[1393]酉誉聖聰ゆうよしょうそう上人が、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区麹町から平河町の辺り)に開山した。浄土宗の七大本山の一つで、だから山号も大本山。学寮があるのもそのため。

 天正八年[1590]江戸入りした徳川家康は、ここを徳川家の菩提寺に決めた。それは家康が当時住職だった源誉存応げんよぞんのう上人に帰依したためと伝わっている、

増上寺大殿
誰でもどうしても東京タワーを入れて撮影したくなるロケーション
東京タワーの後ろに見えるのは
最近日本一ののっぽビルになったというナンチャラヒルズ
増上寺安国殿
本尊の秘仏黒本尊(阿弥陀如来)は恵心僧都の作と伝わる
家康が深く敬い、戦に勝利したことから勝運、厄除けの仏として江戸の人々の信仰を集めた
年に何度か開帳される
筆者も昔お正月に見た

 その後、一時期日比谷に移転。現在の地に移転するのは、慶長三年[1593]のことだ。
 元和二年[1616]家康の葬儀がここで執り行われた。これは家康の遺言による。遺体は久能山に葬られた。(翌年日光に改葬)
 ここ、増上寺に葬られた将軍は二代秀忠をはじめとして、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人。家康と三代家光は日光に、そのほかの四代、五代、八代、十代、十一代、十三代は上野の寛永寺に、最後の十五代は大政奉還して、大正になってから亡くなったので寛永寺谷中霊園に葬られている。

増上寺御霊屋(徳川将軍家霊廟)
元 文昭院殿(六代家宣)宝塔前中門
将軍家の霊廟は戦前までそれぞれ独立してあったが、昭和二十年の空襲で焼失
この門は銅製だったので燃え残ったのか
現在はこの門の奥に宝塔がまとめられている
増上寺御霊屋
今回初めて中に入った(有料)
宝塔と灯篭が二基ずつ
消失前は木造の豪華な霊廟の中に祀られていた
増上寺御霊屋
二代秀忠公とお江の方
秀忠の宝塔は木製だったため焼失してしまった
今は正室お江の方の宝塔で夫婦仲良く祀られている
増上寺御霊屋
焼失前はこんな御殿のような霊廟だった
戦前は国宝に指定されていた
増上寺御霊屋
静寛院和宮の宝塔
十四代家茂公正室

 三代家光が尊崇する家康の眠る日光輪王寺に葬られたのは特別なこととして、本来菩提寺である増上寺に葬られるのが筋なのに、四代五代と続けて寛永寺に墓が作られた。増上寺側はこれに抗議して、六代七代は増上寺に。それから公平に(?)両寺に将軍の墓がつくられた。宗教というより政治的な配慮というのだろうか。

増上寺水盤舎
この水盤舎は清揚院殿(家光三男甲府宰相綱重)の霊廟にあったが
空襲による焼失を免れた
境内でも古い建築物だが、殆んど注目されていない


増上寺旧方丈門(黒門)
元は方丈(庫裡)の門
黒漆で塗られ、通称黒門
建築年代は不明だが、十七世紀の桃山様式で、この寺で一番古い木造建築物かもしれない

 今回初めて芝東照宮に寄ってみた。江戸時代はもちろん神仏混交、増上寺の一部だった。現在は芝公園の傍らにある。

芝東照宮

 祭神はもちろん徳川家康公である。参道の奥まった場所にある、思いのほか小さな社だが、私の他にも参拝者が何人かいた。

芝東照宮

 慶長六年[1601]還暦を迎えた家康は、みずからの木像(寿像)を作らせ駿府城に安置していた。元和二年[1616]家康は臨終に際し、その寿像を増上寺で祭祀するよう遺言した。翌年完成したのが芝の東照宮で、当時は家康の法名安国院殿から安国殿と呼ばれていた。(現在の安国殿とは別物)
 この社殿も空襲で焼失し、現在の社殿は昭和四十四年[1969]の再建。

 

 この日はかなり蒸し暑く、スマホが熱くなりすぎて、カメラアプリが何度も強制ダウンしてしまうほどだった。とても天気が良い様子は写真を見ていただければお分かりと思うが、東照宮を参拝し終わるとパラパラと雨が降って来た。それを機に駅に戻ることにした。
 暑い日に外歩きはやはりしんどい。早く涼しくならないかね。

 


 


 

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