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六歌仙のなぞ(8)

◆第二のキーパーソン猿丸太夫◆

 喜撰法師が真済であり、それが猿丸太夫を鍵として解けたとなると、次に気になるのが大友黒主だ。なぜ、彼が「猿丸太夫の次」なのか。
 大友氏は比叡山の麓の坂本周辺が本拠地だった。そこは和迩氏や小野氏の土地とも近い。当然、深い交流があったのである。

 また、そこには猿女さるめ氏も存在した。近江の猿女氏は比叡山を神体とし、猿神(大山咋おおやまくい神)を祀る一族である。
 猿女君氏は天鈿女命の末裔で、猿田彦神を信仰し、大嘗祭の前日に鎮魂の神楽を歌い舞う一族である。大和の猿女氏は稗田に住んだので稗田氏ともいい、稗田阿礼もその出身である。稗田阿礼が暗唱した『古事記』は、歴史書というよりも神話伝承なのである。『古事記』は猿女氏のような伝承者によって、口伝されてきたのだろう。
 近江の猿女氏は、その地縁から小野氏と関係が深く、実際平安時代に入ると、宮中に出仕させる猿女を小野氏からも出すようになる。
 『類従三代格』弘仁四年[813]十月二十八日の「太政官符」によると、小野氏と和迩氏の両氏から猿女が出され、それに伴う養田も両氏がもらっていたが、それは本来猿女氏の職掌であるから、今後は両氏から猿女を出すことを禁ずるという布令が出ている。
 猿女氏は猿を神(猿田彦神=大山咋神)の使いとしていた。大山咋神は日吉神社の地主神である。近江の日吉神社は延暦寺の守護神でもある。猿は『日本書紀』の中でも神のお告げを伝える動物として出てくる。
 猿神を守護神とする猿女氏と、猿丸太夫は関連があると思われる。猿丸太夫の「太夫」とは、一般には五位以上の官人を指すけれど、この場合は芸能者や遊女につける太夫の事であろう。舞女としての「猿女」に対し、歌を歌う男としての「猿丸」なのである。中世になると、猿曳き、猿楽(能)にこの系譜が継がれていく。
 柿本人麻呂が猿丸太夫と同一視されるのは、柿本氏が小野氏と同祖であること、小野氏が猿女氏と関係が深いこと、柿本人麻呂が神仙化して、猿丸太夫と同様に、渡世しながら生きる人々にとって信仰の対象になったからだ。

【猿女氏と大友氏】
 猿女氏が比叡山を信仰していることがわかれば、大友黒主が猿丸太夫の後裔というのも自然と解ける。大友村主氏の氏寺は園城寺(三井寺)である。貞観四年[862]滋賀郡郡司大友黒主は、天台僧円珍を園城寺の別当にすることを国司に願い出て、太政官はこれを認めている。同八年、大友村主夜須良麿は園城寺を天台別院とし、これも許されている。円珍は園城寺中興の祖となり、これ以降同寺は天台宗となるのである。
 また、それ以前に、延暦寺を開いた最澄は滋賀の漢人系渡来人三津首氏の出身だ。南滋賀一帯は他にも穴太村主、滋賀漢人などの渡来系の人々が住んでいて、彼らは互いに深く関係を持っていた。大友氏の氏寺園城寺も、円珍と結びつく以前から、比叡山系の信仰圏の一部だったのである。
 黒主は園城寺の地主神、新羅明神を祀る神職だった。神を祀る人を「太夫」という。この場合の太夫は、芸能者の太夫と意味を同じくする。芸能者もまた、本来神に仕えるものだからである。遊女を太夫というのも、これと同様である。遊女の前身は巫女だからである。
 猿女氏は天鈿女命の末裔というが、天鈿女命は天岩戸に隠れた天照大神を誘い出すために、岩戸の前で裸同然で踊った。また、邇邇芸命の天孫降臨の時には、行く手を阻む猿田彦命に対して、胸を見せて降伏させた。これは天鈿女命の遊女的巫女の性格をよく表す物語と思う。神と遊ぶ女だから「遊女」というのである。現代の売春とは意味が違う。
 神を祭る人黒主は「太夫」であり、猿女氏の「猿丸太夫」と同じ立場だった。とすれば、黒主を猿丸太夫の後継者と書く『古今集』の一文もうなずける。「大友黒主は古の猿丸太夫の次なり」とは、歌の様式が猿丸太夫に似ているのではなく(猿丸太夫が特定の個人の名前ではないのだから、当たり前だが)黒主の立場が猿丸太夫と同じだということを表しているのだ。

【小野氏と猿女氏】
 小野氏が猿女氏と近い所にいて、宮廷に猿女を出していたことは前述した。
 ところで神話によれば、天孫降臨のあと、天鈿女命は猿田彦命と結婚して伊勢に住んだという。猿田彦命は伊勢の阿射加神社(三重県松阪市)や、二見浦(二見興玉神社。三重県伊勢市二見町)に地主神として鎮座している。これが、のちに伊勢神宮鎮座の契機となる。伊勢大神の使いが猿であることは『日本書紀』皇極天皇四年の条にも見える。猿田彦命は伊勢海人の神になったのである。
 和迩氏(小野氏、柿本氏も属する)も海人族である。この和迩海人と伊勢海人の関係はどうか。彼らは同じ海(片方は湖だが、和迩氏は海でも活躍した)に生きる船の民なのである。(ワニは船を意味するらしい)関係は大いにあり得る。『古事記』によれば、阿射加神社のある壱志郡の豪族壱師君は和迩氏なのだ。伊勢においても、和迩氏と猿女氏は同居していたのである。

【田原藤太】
 田原藤太は本名を藤原秀郷といい、近江国田原郷の人で、天慶承平年間におきた「平将門の乱」で朝廷側につき、将門を打ち破った功績で、従四位下下野守に任じられた。俵藤太ともいう、伝説的色合いの濃い人である。ここでは、近江国に関係のある伝説を紹介する。

 


 田原の藤太がある時、琵琶湖にかかる瀬田の唐橋を渡ろうとすると、橋の真ん中に大きな蛇が長々と横たわって、通せんぼしていた。しかし、藤太はいささかも動じず、大蛇を踏みつけて振り向きもせずに渡り切ってしまった。
 そのあと藤太の前に不思議な小男が現れて、「私は瀬田の唐橋の下に二千年余り棲んでいるが、三上山の蜈蚣が攻めてきて大変困っている。見ればあなたは、大蛇にもおじけることのない立派な人。どうか私に力を貸してほしい。」と、頼んだ。小男の正体は、先ほどの大蛇(竜神)だった。
 藤太は承知して、小男について瀬田の唐橋の下の竜宮へ向かった。藤太を主賓に酒宴を開いていると、しばらくして空がにわかにかき曇り、雨風が激しくなってくる。そして、黒雲の中に蛇とも蜈蚣とも見える怪物が見え隠れしていた。藤太は矢につばを吐きかけて、ひょうと放った。矢は怪物の眉間を見事を貫いた。
 竜神は大いに喜んで、藤太に山のような宝物を授けた。切っても切ってもつきない絹の織物。また、いくらすくってもつきない米俵。俵の藤太とは、この米俵からきている。そして、鐘は三井寺に奉納された。
 その鐘は十四世紀に一時延暦寺に持ち去られたが、霊験により再び三井寺に戻ったという。


 以上の物語は『御伽草子』『太平記』などに出てくる。一見してわかるのは、この話が先に紹介した『日光山縁起』と非常に似ていることである。また、藤原秀郷が下野に関係があること、竜神(大蛇)からもらった鐘を、三井寺に奉納したことも注目したい。

 さて、藤原秀郷の領地とされた田原の里だが、現在の京都府宇治田原町として地名に残る。宇治田原町は滋賀県大津市と隣接しており、田原庄は大津市の南部と宇治市の一部も含んでいるらしい。
 宇治田原町に近い大津市曽束には猿丸太夫の墓があり、すぐ近くの宇治田原町禅定寺には猿丸神社もある。ここにも、日光の小野猿丸伝説と藤太伝説を結びつける鍵が存在するのだ。
 秀郷は宇治田原で生まれ、下野守として下向したという。
 このことは、近江の宇治田原の人が下野に移り住んだということを示している。秀郷流藤原氏は、下野を中心に上野、下総の北部に広がっている。彼らは在地の豪族として荘園などの管理をしていたが、やがて平安時代になると武士団を形成するようになる。そして「平将門の乱」を契機に、都に知れ渡るようになるのである。かつて、宇治から下野に移り住んだ藤原秀郷(の一族)が、将門の首を引っ提げて再び都に凱旋したのだ。それが、藤太伝説の真実である。
 俵の藤太の俵とは、お話では米俵となっているけれど、実は炭俵が正しいらしい。各地に残る「炭焼き藤太」「芋掘り藤太(藤五郎)」の伝説と、俵の藤太は同じルーツから出ているという。因みに「炭焼き藤太」の話とは、貧しい炭焼き(または芋作)の藤太という男が。都の女(姫)を嫁にもらう。妻は黄金が何にもまして価値がある物だという。これを聴いた藤太は、「そんな物なら、裏山にいくらでもある」といって、山から砂金を採ってくる。(藤太は黄金の価値を知らなかった。)おかげで二人は金持ちになって、幸せに暮らしたという話である。
 炭も芋も金属に関係がある。炭は金属精錬や鍛冶の時の燃料だし、芋は鋳物にかけているからだ。藤太が鐘を三井寺に奉納したのは、藤太が金属と関係が深いからであり、三井寺(園城寺)が渡来系の一族の寺であり、場所柄鍛冶信仰と結びついていたからである。
 小野氏は鍛冶と関係があり、小野猿丸は下野にいた。そして、宇治田原には猿丸太夫の墓や神社があり、しかも小野氏の領地にも近い。藤太伝説を下野に伝えたのは猿丸太夫と呼ばれる遊芸の伝承者だったのである。
 秀郷流は藤原氏というが、実際は小野氏に近い一族だろう。(藤太とは藤原太郎の略ではなく、「藤太巫」の事ともいう。)そして、宇治田原は大友氏の領地とも重なっている。
 なお、猿丸神社のある禅定寺のすぐそばを流れる宇治川の対岸は、現在喜撰山といい、喜撰法師の庵があったと伝えられている所である。喜撰山は京都市内からだと奥まった場所にあるが、大津から宇治川の川筋をたどれば意外に近い地理関係にあるのだ。
 

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