見出し画像

日本史・鉄砲について!伝来から戦さでの使い方を見ていこう!

#日本史 #鉄砲伝来  #種子島  #織田信長  #長篠設楽原の戦い

戦国時代の日本、戦さの形が、この鉄砲伝代によって全く変わってしまう。アジア太平洋戦争でも、武器開発の遅れが日本敗戦に大きく寄与した事は知られている。新兵器が戦さを変えるのは、いまや当たり前のことだ。

槍や弓、刀での戦さが主だった日本。そこに鉄砲という武器が新たに加わる。きっかけは、種子島への鉄砲の伝来。16世紀の当時、大航海時代のヨーロッパは、次々と船を作り、アジアへ押し寄せた。

1543年、一艘の明船が、種子島に漂着する。そこにポルトガル商人がのっており、鉄砲を持っていたと言う。種子島を治めていた時堯(tokitaka)16歳は、実演された鉄砲の凄まじさに驚愕。二丁の鉄砲を購入されたとされる。ここで、買っただけならば、この話は、そこで終わっていたはずだ。

種子島という土地に秘密がある。ここは良質な砂鉄が取れる島で、優秀な鍛治職人がいたということ。時尭は、八板金兵衛に同じ物が作れないか!と申し入れる。相当な苦労の末、八板は鉄砲を作りあげた。つまり、国産化されたということだ。この八板、実は美濃出身の鍛治職人で、良質の砂鉄が取れるこの地に移住したもの。ある意味、偶然が日本に鉄砲を広めることとなる。

この後、日本中で鉄砲作りが盛んとなった。多くの戦国大名が、我先に欲しがったのだ。様々な文献によると、数十年で数・質ともにヨーロッパ全土を凌駕したという。すでに技術大国日本の顔が見てとれる。

鉄砲というと、戦国武将の中でも最も有名なのが信長である。鉄砲で大事なのは、じつは消耗品の火薬の方だ。原料は、硝石・硫黄・炭粉。この火薬も、当然鉄砲と一緒に日本に入ってきた。しかし、硝石は日本では取れないという事実があった。信長は、貿易港を抑える形で手に入れるていたことができ、極めて有利に働くこととなる。

それが生かされたのは、1575年の長篠設楽原の戦い。武田勝頼が攻めてきて、設楽原で織田徳川軍と対峙した。通説では、三重の馬防柵と、鉄砲三段打ちで、織田徳川軍が勝利したこととなっている。

まず、ここで戦さになった理由は…?
武田軍の長篠城攻めにあった。もともと武田の支城だったが、徳川方に取られ、それを取り返す目的だったと言える。城を守るのは、500余兵。対して、武田軍は15,000である。簡単に落とすそうなものだが、うはいかなかった。三方を川で囲まれた天然の要害だったからだ。

織田徳川軍は、少し離れた設楽原に布陣した。そして、馬防柵を三重にめぐらしたのだ。敵方に、時間を与えてしまったことが、仇となった。もう少し早めに切り上げていれば、流れはだいぶ変わったことだろう。

信長公記には、織田軍3万、徳川軍8千だったと言う。軍議の席で、徳川方の酒井忠次が、4000の兵をひきいて、長篠城攻めをしている武田軍に夜襲をかけることを、信長に提案する。武田が、3000の兵を残していたからだ。しかし信長、この案を一蹴する。憤慨した酒井であったが、すぐに信長からの使者が来て、この案を信長認めたことを告げた。

酒井は、すぐに夜襲にかかり、敵3000を蹴散らした。勝頼は、敵方に、背後を取られる形となった。もう、引くに引けなくなったのだ。設楽原では、武田軍は騎馬で突っ込み、一つ目の馬防柵を突破する。しかし、二つ目三つ目は堅固だった。

白兵戦となって、武田10,000、織田徳川軍6000の死者を出したとされている。勝頼は、残った数千の兵とともに退却。織田徳川軍の勝利となった。

勝頼の敗因は何だったのだろう。
鉄砲三段撃ちと、言われてきた。しかし、どうだろうか?研究者の様々な実験によるとなかなか難しいという。それよりも、今まで負けていないという不敗神話に、無理してまで騎馬で突っ込む!こちらの方が問題だった。やはり過信があったといえよう。つまりは心の隙があったということだ。相手が守っているところに、攻めるのは、兵力3倍いるという常識を持ち合わせていなかったことも致命的だった!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?