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日本史 豊臣秀吉の出自(生業としての仕事)は何だったのだろう?


もし、あなたが農業に携わっているとして、近くにいる野武士が襲ってきたとしよう。あなたはその野武士と戦いますか? この話は、映画『七人の侍』の設定だ。映画の中でも、百姓は、侍とは戦わなかった。そして、守ってくれる武士を求め、街道まで出ていく。

テレビ番組で、たびたび秀吉のことが触れられ、そのたびに、百姓農民の出というふうに描かれている。やはり、これは一言いっておかなくてはいけない!そう感じて筆をとった。

1566年墨俣一夜城という、ちょっと考えられない作戦を秀吉は行っている。秀吉29歳の時のことだ。信長が、美濃攻めに苦心していたとのこと。相手側の領内に一晩で城をこしらえて攻略の起点にするというもの。江戸後期に書かれた絵本太閤記に記されたもので、こちらはあまりあてにならない。とはいえ、全くゼロからの創作とは考えづらい。

こう考えるべきではないだろうか。山で木々を切り、一度簡易的なバラック作りの物を建てる。そして分解し、全てを川へ流す。下流でそれら全てを回収し、一気に組み立てる。まぁ正確に言えば砦である。墨俣一夜砦と言ったほうがいいだろう。

小田原の北条攻めでも、秀吉はバラック作戦を行っている。石垣山一夜城がそれ。映画のセットのような作りになっていた。前から見ると、立派な建物だが、後から見ると何もない。しかし、秀吉は一旦そうして驚かせておいて、ゆっくり本格的な城をつくっていた。

戦さで、敵方の城を攻略するのに、秀吉は『水攻め』という奇策をつかった。毛利氏配下の清水宗治の守る備中高松城を攻略した戦さ(1582年)が、それだ。城の周囲が低湿地にあることをみた秀吉。周囲を堤防工事でかこみ、近くの河を堰き止めて、水をながし込む。難攻不落とされた平城だったが、これでは堪らない。おどろきの兵糧攻めだった。

たんなる農民の出身では、こんな発想はあり得ないだろう。もともとこういうことを生業にしていた事は推測できる。川並衆というのが、まさにこれに当たる。船を使い、川での運搬もするが、木の切り出し、土木工事の材料なども扱う仕事だ。これに携わっていたとすれば、納得できる。彼らにとっては、当たり前の仕事だからだ。

川並衆とされる蜂須賀正勝(小六)や前野長康は、後に秀吉の配下に入り、墨俣砦の件にも携わった。秀吉が戦さで強かったのは、配下に優れた軍師がいたからとされる。竹中半兵衛や黒田官兵衛だ。しかしそれと同時に、情報に長けていたこともあげられる。川並衆は、かなり広域のネットワークを持っており、そのルートから秀吉は情報を得ていたようである。  

一介の百姓のせがれが、天下を取る!日本では夢物語になっているが、それは作り話としか言いようがない。

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