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英語の小話を読ませてみたら

英語だけに限らないが、そのクラスは、なかなかの強者だった。偶々優秀な子の多い学年だったとも言えるが、中一での一年間、誰ひとりそこからクラスが下がることなく、優秀な成績をキープし続けた。授業には私はふだん入っていなかったが、今年になり何度もそこに顔を出すようになり、彼らのレベルの高さを強く感じるようになった。
 
物知りである。また、理解度も高い。だから、私が手早く説明をしても、すぐに吸収するし、その説明に「なるほど」と肯く。これは決して当たり前のことではない。
 
しばらく、英語の授業で入った。中一をまとめる授業となると、基本的に短文である。文法を身に着けるためには、短文をこなしていかねばならない。その点、知識と記憶の点で、そのクラスには何の問題もなかった。
 
時間に余裕のありそうな時を見計らって、私は長文を用意した。長文と言っても、ちょっとした小話である。子ども向けの一般の本からとってきたので、複雑な文法は少しもない。ただ、さすがにいくら優秀なクラスでも、単語としては届かないものがいくつか混じっている。しかし、分からない単語があっても、文章の流れや予測から、意味を予想して読み進めるというのは、長文の常識である。ついては日本語の文章でも、そうしなければならないことになる。
 
さて、彼らは、いくら短文について怖いものなしであっても、これには戸惑っていた。ふだんは、知らない単語のない容易な例文を相手に、動詞を変化させたり、熟語を入れたりする学習である。それについては、かなりの自信をもっている生徒たちである。それが、いきなり知らない単語の文章を読め、と言われた。明らかに戸惑っていた。
 
長文を読むには読むためのコツがあるはずだ。だが、彼らは普段の模試でも、あまりにも知った単語ばかりで綴られているために、知らない語を目の前にして物語を読んでいく、という経験がなかった。また、一つひとつの文を完全に理解して読み進んでいくような時間も与えられていない。
 
その小話は、普段着で結婚式に行ったら、座席が用意してもらえなかった、というところから始まった。そこでこの人は一度自宅に帰り、高価な服を着て出直した。すると、どうぞどうぞと席を用意された。そのため、その服を出されたスープに漬けて、さああんたがお食べ、という行動に出た、そういう話である。
 
もちろんお分かりであろう。あてつけである。服が歓迎されたのだから、このごちそうは服のものだ、という皮肉である。あるいは、風刺と読んでもよいだろう。
 
しかし、英語に限らず優秀な能力をもった中学生たちは、この皮肉を感じることができなかった。あまりに素直な良い子でここまで育てられてきたせいかもしれない。先般記したが、「きが」とは何か知らなかったというのも、このクラスである。
 
英語の、決められた単語だけで文法を理解する、それはもちろん大事なことである。しかし、それができたからと満足していることは危険である。多くの文学作品に触れ、言葉で自分の考えを述べるなど、思考の訓練をすること、それはもちろん日本語でするべきなのだが、紙の上の勉強だけでなく、たくさん経験するべきなのだ。先日記した、折り紙についての私の感想も、全く同様である。
 
いろいろ読み、経験して、いろいろ考える。思考のできない人に限って、自分の思いつきがこの世で一番正しいように決めてしまうものだ。多様な視点をもつことができない。そういう、似非エリート意識に取り憑かれた人間は、実際いるし、私が知る以上にたくさんいるのではないか、とも危惧している。ハンナ・アーレントだったら、そういう者が増えていくことが、全体主義を呼ぶ、と指摘するところだろう。
 
もしも多様な経験をもつことなしに、テストの点数に特化した学習ばかりで、エリートが生まれていくような社会であってはならない。口調の強い威張った権威が正しいという結果になるような社会は、御免被る。何よりも、こうした構造が危険である、という認識を、人々がもつようである必要がある。だが、えてしてそういうものには、気づかないものなのだ。
 
せめて子どもたちに、それに気づくように成長していってもらいたい。そういう願いを胸に、日々授業を営んでいる。

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