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『説教25 説教塾紀要』(教文館)

自分の手の届く世界ではなかった。説教のプロたちの営みは、遠い雲の上の世界だった。「説教塾紀要」の存在は知っていたが、自分が読むようなものではない、と思っていた。
 
だが、主宰の加藤常昭先生の最後の説教が掲載されていると聞き、迷わず購入の手続きをとった。2024年3月発行の最新版である。
 
2023年10月8日のその礼拝の末席を私は汚していた。加藤先生と時を共有してその説教を聴くのは、初めてだった。視力をほぼ失った中でのその語りは、一時間に及んだ。ご本人は、もっと語りたかったようであった。後で知るが、この説教の内容は、「ドキュメント」として公開された、18年前の映像の説教と重なるものであった。それは、第一コリントの愛の章をメインとするものであった。私が救われるに至る、最初の聖書箇所である。
 
加藤先生が幼少の頃から死を怖れていたこと、哲学を学んだこと、しかもカント、特に『純粋理性批判』だったこと。私と驚くほど重なる精神的過程である。ただ、加藤少年は、キリスト教に出会った後に哲学を志しているが、私はその順序が逆であった。
 
あの日の説教については、私なりのメモがある。配信された動画も手許に保存して観た。いまそれに、活字で再会できる。胸が熱くなる。
 
紀要は、説教塾の活動の年間活動報告のようなものである。加藤常昭先生の「緊急・説教論」にまず始まる。コロナ禍はまだ終わっていない、とまず告げる。当然のことなのに心が緩くなっているような世相に釘を刺す。その中でまた新たな局面を迎えた教会の危機を指摘する。「講解説教を主題説教として整えようと訴え続けている」と言い、「主題説教の方法をわきまえて講解説教をする」とも言い直す。しかしまた、青年たちが説教を聴かない、などと言っている場合ではない、と省みる。「青年たちに届く言葉を私どもが失っているのではないか。それはなぜか。そのように問うべきであろう」との言葉が痛い。「今のキリスト教界が一年中ただ習慣化したお勤めばかりに生きる宗教的な営みに満足しているのではないかと自己批判をすることが求められている」言葉を噛みしめたい。
 
今回の紀要はーでの特集は、「日本の福音派の説教者に学ぶ」ということで、榊原康夫先生と小畑進先生、蔦田二先生が取り上げられている。その人となりや説教に対する考えなどを含め、実際の説教の細かな検討がなされるが、特に榊原先生には70頁が割かれている。旧約聖書についての学び方について、私は榊原先生の本から多くを学んだのであったが、説教という点については知らなかったので、ありがたく思った。
 
もうひとつの特集は、「山上の説教の説教黙想」であった。説教そのものではないが、その準備にもなる、聖書との格闘の姿である。説教塾はこれを重視している。加藤先生がドイツから持ち帰ったようなものである。塾生の皆さんが分担して、少しずつ山上の説教の5:1から6:15までについての理解を教えてくれる。書き方にもそれぞれの個性があり、もちろん受け止め方も様々で面白い。もちろん、きちんと調べて語っているので、単に個人的感想が思いつきで述べられているのではない。大いに勉強になる。また、聖書の文字の向こうにある神の思いを、随所で垣間見る思いがした。また改めて取り組んで読みたいところである。
 
コーナーとしては、ほかに「説教分析」と「書評」がある。「説教分析」は、まさにその題の本も加藤先生が出しており、互いに切磋琢磨する説教批判があるからこそ、説教が磨かれてゆく、説教者が鍛えられてゆく、という過程を示すものとなっている。それは悪いところを指摘するだけではない。ここがよい、こういう説教を皆で語りたい、というように、説教の中に潜む輝きを、明確に示してくれる側面ももっている。今回取り上げられた平野克己先生と川崎公平先生は、私の知るところの、日本の説教の双璧である。
 
書評には、加藤先生の説教全集についてと、平野先生の『使徒信条』とが取り上げられていた。書評に続いては、読書会の報告も在り、塾の活動をたくさん伝えてくれている。
 
そして最後に、「戸倉だより」と称する、加藤先生の自宅のある戸倉からの手紙のような文章で閉じられる。
 
書かれたのは2023年12月半ばだという。世界の戦争を思うと共に、信仰の戦いにも思いを馳せる。10月に最後の説教を為し終えたことで、自分の人生は終わったという感慨を漏らす。その説教を振り返ると、人生の最後を思う境地を語る。「老いるということは失うことである」ことを思い知らされるが、「それでもなお、私に生きている意味があると言えるだろうか」と問いつつ、生きることについてかつて教えられた話を思い起こす。
 
そして召された敬愛する方々の名を挙げ、もちろん奥様のこと、そして奥様を通して与えられた聖書の言葉の力を指し示す。どこまでも聖書であり、聖書の言葉が命であることを、なんとか伝えたいという熱意が零れてくる。
 
最後に訳したボーレンの『祈る』がここしばらくの関心の一つであるらしい。祈りの言葉の深みを見つめ、「死と向かい合う人々の、魂の慰めの書物」であってほしいと願っている。
 
さらに自らの生涯を振り返り、人生の「ターニングポイント」を幾つか指摘する。また、いまオンラインという媒体で新たなことが始められていることを知らせる。犬も猫も好きだが、訪ねてきた人がどちらかを嫌いであったら訪問できないだろう、と今は飼っていないと言っている。この、見えない部分までも思う心に、驚かされた。
 
統一教会関係の事件に心を痛め、また自らの説教について省みる中で、オンラインの読書会についても触れている。読書会で用いられたものの中に、加藤先生の『説教論』とボーレンの『説教学』が挙がっていたが、奇しくも私は去年の終わり頃から、この2冊を再読していた。
 
4月26日、私は1冊の本を注文した。加藤常昭先生が最後の説教をした教会で、一年間にわたり説教をしたときの説教集である。その牧師に留学を勧めた責任をとって(?)、説教を務めたのだという。どうしても読みたかったが、こちらにも懐事情というものがある。価格の推移を見て、いまなら買える、と注文したのだ。すると、その日、加藤先生は天に召された。私は、天を仰いだ。
 
先ほどの「戸倉だより」は、こう結ばれている。「2024年には何が起こるか、「予測もつかないが、説教塾の穏やかで確かな成長を祈る。ここまで読んでくださってありがとうございます。」
 
胸が熱い。

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