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『現代思想03 2024vol.52-4 特集・人生の意味の哲学』(青土社)

なんとも思想らしくないタイトルである。同時に、一般の人が手に取りやすいタイトルである。「人生」を問うことが、哲学であるかのように見なされやすい日本の風土では、こうした誘いは適切であるのかもしれない。
 
だが、実のところ、この問いは、哲学の中では案外疎い分野である。問われて然るべきであるのに、あまり問題にされない。日本人だからこれを問う、というのではなく、もっと原理的に、根柢的に、この問題は扱われてよいのではないだろうか。
 
事実、本書はそのような意図を含んでいると思われるし、それに見合った内容となっている。
 
が、近年「生きる意味」が考察されることは、実は多い。特に「生まれなかったほうがよかった」のではないか、という問いかけは、一部でかなり受け容れられている考え方となっている。本書の冒頭も、その旗頭の一人である森岡正博氏が登場する対談である。これは、本書全体の良い導入にもなっているように見える。
 
すると、様々な観点から、この問題が深く、また広いものであることが示されてゆく。人生をたとえ「無意味」であると称するにしても、そう称しているのはここに人生を営んでいる私であるし、それが心底無意味であるということは考えづらい。また、そもそもその「意味」とは何のことか、これも検討に値するであろう。言語哲学的にアプローチするのもよいだろうし、解釈という観点から考察するのもよいだろう。
 
先ほどの、反出生主義については、やはりシオランの名前を出さざるを得まい。だがそのシオラン自身、十分長生きしている辺り、観念としての思想なのかどうなのか、私たちは問う余地を有っているようにも思われる。
 
そのシオランを正面掲げた論文がある。大谷崇氏による者だが、正にその「意味」の意味を問うところから始まっていた。シオランの思想に触れるためには、一読しておくべきものだろうと感じた。
 
鶴田想人氏の、コミュニケーション的アプローチも心に残った。シーシュポスの神話を契機として、よく取り上げられることではあるが、ヒトラーの人生に意味があったのかどうか、という問題を掲げる。これもまた、語としての問題を運んでいく。そうして考えてゆくと、人生の意味とは、自分一人で決めることができず、かといって、第三者によって決められもしないということに気づかされてゆくようなのだ。これは、旧約聖書の詩編に時折現れる、「わが魂よ」という呼びかけに関係するだろうか。論者は詩編を持ち出しはしないが、私自身はそこを深めてみたい気になった。他者の生について、意味がないというように決めつけることはできない。それはここでいう「コミュニケーション的暴力」であるということになるだろう。
 
ところで先ほどシオランの名を出して、反出生主義と呼んだが、反出生主義といえば、やはり論陣はベネターであろう。これにも真正面から呼び起こす文章があるし、各方面からも触れられる。本書は全体としても、なかなか読み応えがあるものなのだ。
 
その中で視点ということでユニークだと私が思ったのが、小松原織香氏のいう「死者倫理」という話である。佐藤啓介氏の紹介に始まるというが、これが実に新しいものである。死者の記憶というものが、しばしば政治的に扱われる。国のために死んでいった英霊、などという。これを冒涜することは許されまい、だから兵士を祀る神社は必要であり、宗教などという部類に入れてはならない、などとするのだ。だからそれに釘を刺すためには、それが、遺された者の倫理であるとしなければならない。死者のためを思うという言い回しが、死者自身のためではなく、残る者のためのものであることを、まずはっきりとさせなければならないのだ。しかし、死者を悼まずにはおれない、その心は必要である。というより、明らかにそれは、ある。そこに人生の意味が生まれてくる場があるとも言える。当事者が不在の中で、死者倫理を暴力的なものとしないことが肝要なのである。
 
もはや意識反応のない患者を前にしてケアする立場については、西村ユミ氏の文章もここにある。その『語りかける身体』は私も拝読した。現象学的なアプローチだとは思うが、単純な思いつきで演繹に走るのではなく、現場の声を帰納的に集め、そこにあるものを見つめる。その本にあった問題を、もう少し穿った形で、本書では短く論じている。そこでは、「生きている意味」を問うなどというレベルではなく、そこにある関わりが、希望を生み出していくものであることへ、光を向ける。私は個人的に、それが望ましいのだろうと思う。思弁的に反省することには「意味」があるが、人が輝いて生きることができるよう、その道を備えるように、希望がもたらされるものであってほしいと願う。
 
最後にあった岡本かの子を描いたものは、仏教ではあったが、ユニークで大胆な生き方を伝えてくれた。岡本かの子が、一度キリスト教を求めていたということは、知らなかった。植村正久牧師が、岡本の問いに対して、「聖書を読みなさい」としか言えなかったことで、岡本はキリスト教を離れたのだという。人生の悩みに応えられなかった、このキリスト教のありがちな姿は、もっとキリスト者に共有されなければならないと強く感じた。

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