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入門

「哲学入門」というタイトルの本は、実に多い。シンプルにそれだけでも沢山あるが、もしそれにいくらかの飾り言葉が付くものまで含めると、数え切れないほどである。
 
何かを真面目に考えたい、という気持ちが、人々に「哲学入門」を手に取るように仕向けるのかもしれない。中には、哲学だったら、自分の考えをどんなふうに言い述べても構わないのだろう、と勘違いしている人もいる。科学であれば、いくら自分の信念を述べても、誤りは誤りだと退けられる。凡そ「学」と名がつくものはそうなるだろう。だが「哲学」は要するに解答が一様ではないのだから、自分が思いついたこともひとつの「哲学」として掲げることが許される、そう考えるのであろう。だから、「わたしの経営哲学」とか「将棋哲学」とか、何についても「哲学」という言葉を付けて言い放つことができるのである。
 
だが、そうした無法地帯のための言葉として、「哲学」を宣伝したいとは思わない。というより、そうした「哲学」を述べる者自身が、別の「哲学」により必ず批判され、否定されることになるのもまた、「哲学」が本質的にもつ性質だと言えるだろう。
 
戯れ言めいたものを含まない形での哲学について触れるが、この「入門」という言葉についても、私はもう少し重く考えてはどうか、と常々思っている。「門に入る」のである。それは、それなりの覚悟と心構えをもっていなければならない行為ではないか。物見遊山で、外側から様子を眺めてみたり、ちょっと一日体験をして観光気分を楽しんだりすることとは、違うはずである。
 
「入門」した後に退出することがあってはならない、とは言わないが、ひとつの弟子入りをする決断がそこに求められて然るべきなのである。とはいえ、事実入門して、それなりの修行を積んだ人からすれば、振り返ればあの「入門」というのは、基礎であった、というふうに思うことが可能である場合が多い。私は哲学に於いては、決してそんなことはなく、「哲学入門」というのは深い洞察を伴うものだ、と理解しているが、多くの学びにおいては、「入門」は初歩の出来事と見なされうるだろうと思う。
 
小学2年生にとり、かけ算九九の暗誦は、大きな壁であり、課題である。全力を傾けて挑まなければならない。おふろで唱え、暇さえあれば、言えるかどうかぶつぶつ繰り返す。しかし、6年生になると、通例そのようなことはしない。かけ算九九ならいくらでも言えるから、自分は算数がちゃんとできるのだ、と安心する思いを抱く効果があるのかもしれないが、普通ばかばかしくてそんなことはしないだろう。
 
入門、それはあとから見れば「わかる、わかる」の世界である。礼拝で説教が語られるときも、「知ってる、その話」と思えたら、信徒は安心することがある。難しい課題に挑むというのは精神的に疲れるが、よく知っていることが話されていたら、安心できる。「それ、自分は知っているよ」「ほんと、その通りだよね」と、一種の優越感に浸ることもあるだろう。
 
難しい話をすると、会衆が首を捻る。だから、ある程度教会生活をしてきたら、どこかで聞いた話、キリスト教で「あるある」の話の筋道、結論、そうしたものをただ並べて話していたら、理解が容易だから皆活き活きと聞いてくれる。説教をする者は、楽ができるであろう。聖書は幸い、そういうネタにおいては、無尽蔵である。聞くほうが、聖書にそういうこと、書いてあるよね、と安心して聞けるものはいくらでもあるし、偶々知らない話が出てくれば、聖書のことをまた詳しく分かったぞ、と喜んで帰ってくれることだろう。
 
まず会衆の側としては、そのようなぬるま湯の中に自分が浸っていないか、省みる必要があるだろう。しかしこのぬるま湯というのは魅惑的なもので、難しい話ではなく、易しい話を、余裕をもって聞くというのが、なかなかの快感なのである。時に、学者の説教者が難しい話をすると、よく分からないままに説教の時間を過ごした後、「なんだか難しかったが、偉い先生の話が聞けてありがたかった」と満足しておけばよい。仏教のお経をしばらくその場に流していたのと、あまり変わらない事態である。
 
語る方も、教会学校の経験があり、そこから先はただ知識だけしか増えていなかったとすると、そのレベルから脱けきれないことがある。表向きは、キリスト教用語を用いるにしても、話の内容が、教会学校で短くまとめる中に現れる、典型的な筋道と結論しか話せないのである。「牧師」という地位にいる人の中には、そういう者も実際いる。
 
毎回、取り上げて聖書の文を一つずつ取り上げて読んでいき、それにわずかばかりの説明を付け加える。時折、政治の悪口を言って、社会問題も分かっていると見せておき、最後には、このように私たちも◯◯しましょう、と結んでおけば、いかにも説教のような形になると思いこんでいるのである。こうして、皆が分かりきった話を満足して語り、聞くことで、礼拝説教の形ができるというわけである。
 
だから、まともに耳を傾けないでも、礼拝説教の時間を座って耐えることができる。またあの話だ。この話はこういう結論になるだろうな。そう思いつつ、安心して毎週その場を過ごすが、途中からはもう聞かないでも済むような構造になっており、事実誰も説教の内容について考えたり、礼拝後話題に上らせたりすることもない。
 
こうした事態に当てはまっているのではないか、と、もし心を刺された人がいたとしたら、実はまだ幸いである。自覚すれば、そこから抜け出す可能性も現れるからである。「入門」というものが、基本的なことでお茶を濁すようなものではなく、実は真剣に挑むべきものだ、という認識をもつことを、お勧めしたい。
 
高校入試は、その高校に入るためのものだ、という理解は適切ではない。要は、その高校での授業についていけるかどうか、その能力を試すためのものである。入門するならば、その後の新たな世界に耐えられるかどうか、それが問われることになることを、忘れないでいたい。門の辺りをうろうろするためのものではない。入門ができたら、その後の道を歩む資格が与えられるのであろうから、そこから始まる新たな世界に、成長させて戴く者でありたいと願う。

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