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熊本地震から8年

熊本地震から8年が経つ。最初の揺れは、塾での授業中だった。生徒のスマホが一斉に警報音を鳴らしたため、机の下に頭を入れるように叫んだ。
 
今年の正月まさに元日に、能登半島に特に大きな被害を与える大地震が起きた。半島という地形が、人の動きを塞いだことは苦しかった。阪神淡路大震災でも、鉄道と高速道路のダメージが激しかったし、現地へ車で乗り入れるということも当面難しかった。熊本は、幹線道路は比較的走っていたので、現地への支援はいくらかスムーズだったかもしれない。
 
大きな断層の亀裂が、田んぼの中を貫いていた。阿蘇へ通じる山間部は、道路が壊されたので、そちらの方面の人々は苦しかっただろう。人は、動きを制限されると、生活が成り行かない場合が多いのだ。尤も、人が自由に各地を渡り歩けるようになったのは、西欧では中世からだとも言われ、そのことが疫病を拡大させる原因にもなったことは、把握しておかねばならないことなのだが。
 
地震が起こること自体は、留められない。その被害を避けることはできないだろう。だが、被害を少しでも小さくすることや、復興への動きについては、人間も努力することができる。人為的な都市機能の改良は、いくらでも考え、実施すべきである。また、その有事のときのための動きのシミュレーションもものをいう。台湾での大きな地震に対する、政府と民間との協力態勢は、驚異的であった。が、それが当たり前になると、いくらか安心であるだろう。
 
聖書にも「あの地震」(アモス1:1)という、実際の地震を指し示す言葉が紛れている。神の審きの日の地震という預言は数多いが、このアモス書は、明らかにある地震のことを言っている。ということは、「あの地震」だけで、人々には分かったのだ。私たちが「東日本大震災」とか「関東大震災とか言えば何のことか分かるのと似ていると言えるだろう。
 
福岡でも、2005年に福岡西方沖地震と呼ばれる強い揺れがあった。特に玄界島は大きな被害を受けたが、都市部は大混乱に陥らずに済んだ。私の住むマンションの片隅のタイルが数枚剥がれたことで、地震保険に入っていた我が家に思わぬ収入があったことは、以前お伝えした。福岡で地震保険など普通興味ないだろうが、阪神淡路大震災を京都で味わった私にとっては、地震保険は必須だったのだ。
 
せめて、人間のミスで被害を拡大することは避けたいと願う。戦争で焼け野原になった有様は、人間の仕業である。どうしてそんなことをするのか理解に苦しむが、人間の攻撃力は、もう百年前とは決定的に違うのだ。戦争からの復興を、日本も果たしてきたのだが、いまのウクライナやガザの情況がリアルタイムで伝わってくるのは、見るのも辛い。
 
熊本でもまた、8年経っても、辛い思いに包まれている人々がいるはずだ。私たちは、報道の映像や写真だけではなく、心の目で、人の辛さを見るようにしたいと思う。そのためにも、当時の記録写真などを、せめて年に一度でもまた開くことを続けたい。今年は能登の写真集も購入した。もちろん、熊本地震の新聞記録も家にあるので、また思い返すことにしている。

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