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広辞苑の彼女

脚の骨折で入院して5日目。
車椅子にも慣れたが、退屈には慣れなかった。
学校をサボれるのは嬉しいが、このまま冬休みに突入するのは少しだけ悔しかった。
学校の階段から落ちたのだ。
少し気になっていたヒナタが、階段の上でバランスを崩したのを見て手を引いた。急に手を引かれてヒナタは驚いたのだろう。僕の手を振り払おうとして階段から落ちそうになったのを構わず引っ張り上げて、一緒にいた誰かがヒナタを抱き止め、僕はそのまま階段を落ちた。
「あんな落ち方で脚だけで済んでよかったね」
病院の先生からも、見舞いに来た友だちからも言われた。
ヒナタは来ていない。
ヒナタの中では僕が急に手を引いたところが事の起点になっているようだった。
仕方がない。そう思った。
その場に自分たちだけでなく数人の同級生もいて、一部始終を見ていてくれたから僕が一方的に悪者になることもなく、だからといってヒナタが悪いわけでもない、と証言してもらうことができた。
先生も同級生も、親戚も、もちろん家族も見舞いに来た。
たった手術を終えた翌日から続々と押しかけてきた。
昨日から面会制限が出た。
なんでも院内感染の恐れがあるとかで、外部からの人は入院病棟に来れなくなった。
暇になった。
同じフロアに図書室があると聞いた。
車椅子は思ったよりも操作が楽だと思った。
僕が入院しているのは西病棟。整形外科。東病棟側は外科と消化器科。そのちょうど間に図書室があった。
図書室の本は漫画も多かった。
入院患者が退院する際に寄付していった本がほとんどだと掲示された手書きのポスターにあった。
最近ハマった漫画があった。僕はまだ5巻までしか買っていないが、ここには12巻、最新刊のひとつ前まで揃っていた。
「ラッキー」
貸出ノートに病室の番号と名前と借りる本のタイトルを書けば数日借りられる。正しくは退院前に返却すれば大丈夫だ。
僕はとりあえず6巻と7巻を借りることにした。
ここで読んでもいいけど車椅子の座面よりベッドの方がいい。
貸出ノートに記入をしていると、誰かが図書室に入ってきた。
若い女の人だった。
長い髪をひとつに結っている。
パジャマは病院で貸し出すものではなかった。
パジャマの上にカーディガンを羽織っている。
そして手には熱い本を持っていた。
広辞苑だった。
僕の家にもある分厚い辞典。
その人は窓際の長テーブルに窓を向くようにして座ると、広辞苑を開いた。
カーディガンのポケットから何か取り出した。蛍光ペンだった。
僕は少しの間、その人を見ていた。
ふいにその人が顔を上げた。
こちらを見たわけではないが、僕は慌ててノートを戻すと図書室を後にした。
コミック2冊はあっという間に読み終えた。2回同じ本を読んだ。
僕は翌日続きを借りるために図書室に向かった。
午前中は回診があるので、昼食後に図書室に行く。
昨日もほぼ一緒の時間だった。
本を返して、続きの2冊を借りる。
ノートに返却日を記し、新しく借りる本を書く。
昨日の僕の書いた後には誰も書いてはいなかった。
「もったいない。せっかくタダで読めるのに」
そんなことをブツブツ呟きながらノートに書き込んでいると、また図書室の扉が開いた。
僕は昨日の女の人だといいな。と少し期待をしながら顔を上げた。
思った通り昨日のあの人だった。
やはり分厚い広辞苑を両手て抱きしめるようにして持っていた。
パジャマは昨日のとは柄が違っていた。
そんなことに動揺したのか、僕は膝の上に置いていた本を落としてしまった。
「あ」
思わず声が出た。
その人がこちらを見た。
昨日と同じ場所の机の上に広辞苑を置くと、その人はこちらに向かって歩いてきた。
「え?」
と僕が動揺しているうちに、僕のそばに来ると、しゃがんで、僕の落とした本を拾った。
立ち上がる時にいい匂いがした。
病院の備え付けのシャンプーではない。それよりもっと甘い香りだった。
「はい」
そう言って僕に差し出す。
「ありがとうございます」
僕が受け取ると「面白いよね。この話」と言った。
おそらく僕より年上だろう。そう思った。
大学生?ひょっとしたら社会人かもしれない。
でもその人は小柄でほっそりとしていて、少しだけ僕の好きな女優さんに似ていた。
「はい。面白いです」
僕がそう答えると、その人は「ふふふ」と笑った。
「廊下で落とさないように気をつけてね」
そう言うと辞典を置いてある席に戻っていった。
僕はノートを閉じて「ありがとうございます」ともう一度言って図書室を出た。
図書室の扉を閉める時、その人がこちらを向いて小さく手を振ってくれた。
僕は本を落とさないように慎重に、だけど急いで病室に戻った。
4人部屋に今は3人。
僕は入口に近いところのベッドで、あとのふたりは窓際のベッド。
いつも仕切りのカーテンを閉めているのでどんな人かよくわからない。
自分のベッドに腰を下ろし、カーテンを閉めた途端に「はぁ〜」と息を吐いた。
図書室から病室に戻るまで息を止めていたかのようだった。
借りてきた8巻と9巻をサイドテーブルに置く。
再び「はぁ〜」と息を吐く。
「これが一目惚れ?」
思わず声に出す。
ベッドに入って8巻を手にするが、読む気になれない。
「明日もいるのかな?」
自分で言って恥ずかしくなる。
全てを誤魔化すかのように、僕は8巻を読み始めた。


140字で書いた話の少し前の話です。