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新しい公共と資本循環主義社会の世界の話#23_02

【新しい公共】
自分は町で、町は自分。
不特定多数の人々の暮らしに関与する公共性の高いコト(場や機能)を、地域単位やプロジェクトなど横断的な個の集合体で実行する行為。またはその概念。

それぞれが保有する資金/スキル/時間/モノなどのリソースを「資本」と定義し、それらをそれぞれが提供し資本が地域循環する「資本循環主義社会」概念を基に実行される。
新しい公共の基礎思念ver.02_2023.03.30

※このテキストは長野県塩尻市で興る、中心市街地活性化・大門エリア空き家再生地域の担い手を育成する滞在型交流拠点[en.to]プロジェクト周辺の各人の関わり方の形や行動などの不可解な現象(たつみも参画)を言語化/可視化する為のモノです。
※資本主義の世界観では説明しようのない現象を解き明かすため、たつみ自身の思考をめぐらせながら現実点へと着地を図りました。
※テキスト数2万文字、、!!笑 30分ほどかかります。が、その価値があるかどうかはわかりませんすみません。

うまく説明できなけど、資本主義の限界を感じてる

お金ってなんなんだろ?

「金じゃないんだ!」という言葉をぼくは何度も耳にしてはずっとずっと「お金」ってなんだろ?ってことを考えています。
あなたはどう思います?お金って、、なんだと思います?

「新しい資本主義」を考えるにあたり、既存の資本主義のことをまずは思考していこうと思います。思考が散文的にとっ散らかってうまく説明できないので、みなさんの想像力と理解力にて協力してください。笑

<募集>
このテキストをいい感じに整理してくれる編集能力をお持ちの方は是非ご一報ください。笑

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金じゃない/金で愛が買えるのか?/金さえあれば/金持ち父さん貧乏父さん/お金に働かせる仕組み/これからは投資だ!

生きていれば息をするようにお金をテーマにした言葉を耳にします。
なんなら、youtubeの広告の9割が副業や投資関係です。ぼく、そんなにお金ほしそうに見えるかな?!

お金ってなんだろ?そんな問いを始めるきっかけとなったのが、自分で商売を始めるようになってからでした。

自分が提供するモノ/コトへの対価とは?
どうやってそれらに価格を決めるのか?


商売を始めるにあたり、お金の問いが生まれたんですね。
そう言えば、お金は使うモノで、もらうことの想定をしたことなんてない!!と。
それじゃあいい機会だと、ぼくはまず「お金をもらうルール」を決めたんですね。

◯お金をもらうルール
✔︎「ありがとう。」と言われてお金をもらう

というものです。どういうことかと言うとね、ぼくはお金をいただく人を「お客様」と思ったことがないんです。お金と向き合った時に、自分はどうお金を使うか?を思い返すと、「欲しいから買う、その為にお金を使う」ということを思い返したんです。そうすると、その人が売ってくれない限り得ることができない。そう考えると、提供する方もされる方も、関係性はフラットなんじゃないかな。と。

買っていただくわけでも、売ってあげてるわけでもなく、互いが互いを必要とする相思相愛のような関係性でお金のやり取りをしたい!提供する方もされる方もお互いに「ありがとう。」を交換できるような、そんな価値観でお金をもらおう!と。

そんなことを考えて始めた商売は、思いの外理想的な方向に進みました。ぼくはどうにか自分が生きていける生業を得ることができたんですね。

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その次に考えたことは、どうお金を使うか?ということです。
当時ぼくはゲストハウスを運営していました。長野県のど田舎の古民家で「なにもない。が、ここにある。」をキャッチコピーに、田舎の暮らしと旅を求める遠方の方達がたくさん訪れてくれました。当時支払い方法は現金一択。ゲストさんはみなぼくの目の前で財布を開いて支払います。

そのお金は、ゲストさんが日々汗水垂らして、能力と時間を対価に得たモノです。そう思うと、お金をもらうことと同等に、使うことへの意味や価値への問いが生まれたんですね。

そうすると性質上やはり「お金を使うルール」を考えずにはいられなくなってしまいます、、そのときに決めたルールがこちら

◯お金を使うルール
✔︎必要出費以外は使う意味を問いながらお金を使う
✔︎(いまのところ)貯金しない

ゲストさんから手渡しでもらったお金。形は同じでも重みが違う。そう考えると、必要出費以外のお金には、それが何の意味を持つのか?との問いと向き合わなければ使ってはならない!そう考えるようになりました。

誰に使い、それが未来なにに変わるか?そんなことを考えます。同時に入ったお金は貯めることなく全部吐き出します。仲間に仕事を発注したり、自分が関与する地域や人材の未来につぎ込みます。お金はいただくと同時に信頼できる人へと手渡していくのです。
最近は自分が暮らすど田舎の地域が所有する飲食店の再生につぎ込もうとしています。採算がとれるような気はしていません!笑

大丈夫か!?なんて周りからは心配されるんですがね、これが面白いもので使えば使うほどお金って返ってくるんですよ!信頼をお金を通じて可視化することもできる。ご縁が数珠繋ぎになった結果、自分にもお金は帰ってくるんです。どうせ稼いだら税金になるんだから、それなら何に使われるかわからないお金にするより、大切な人に使いたいでしょ?嘘だと思うなら1年くらい試してみ?使った程度には返ってくるから!笑

このように、商売を通してぼくはお金との向き合いを続けています。
その中で、お金のことでわかったこと!!がいくつかあるので共有していきますね。

お金は道具だと思うんですよ

お金と向き合うぼくの中で一つの仮説が生まれました。【お金とは道具である】ということ。

そう仮定すると、冒頭の「金じゃないんだ!」の言葉は、言葉として成立のしようがない気がします。だって「お金とはお金でしかない」んだから。お金はスマホのような万能な道具。

何にだって交換できてしまう道具。それがお金。
思うに、人類最大の発明が、お金だと思うんです。

すごいですよね、お金って。
交換機能も携帯機能も保存機能も送金機能も持ち合わせているんだから!
それはそれは便利な道具。だから、お金があればなんでもできる!!

あ、だから一部の人は「お金が全て。」って言ってるんだなるほどなるほど。
じゃあ逆にお金じゃできないことってなんなんだろ?

お金そのものはただの紙

何にだって交換できてしまう道具。って考えると、欲しいモノはお金で全部買えそうな気がします。

だからぼくもテキストを書きながら思考がぐるぐるしてたんだけど、お金にも欠点があるぞ!てなことに気がつきました。

お金って、お金そのモノに価値があるわけじゃなくて、「お金で交換されるモノ」にこそ価値があるんですよね。

ワンピースでサンジとゼフが無人島に流れ着き遭難したときの話。ゼフがかかえる大きな袋の中身が食料だと思っていたサンジはゼフから食料を奪おうとする。でも、袋の中身は財宝で食料の全てを既にゼフはサンジに与え切っていた。ゼフが数日間なにも食べていなかったことをサンジは知る。「金はあるのに、食えねぇ」と。あのシーン、泣けたなぁ、、!!

お金はあくまでそれに価値が担保された(共通認識を得た)紙なんです。
お金を与えられた人がその人の持つモノやサービスを提供する!という前提があってこそ、お金は効果を発揮する。つまりは、提供者がいなけばお金は意味をなさないし、お金を対価としても提供したくないと思う人には使えない。←ぼくも含めてお金じゃ動かないよって人増えてますよね!

無人島では担保されたはずの価値が価値ではなくなってしまいます。

昔お付き合いしていた彼女に「誕生日なに欲しい?」ってきいたとき「お金じゃ買えないモノ。」と言われたことがありました。「だって、お金で買えるモノは自分で買えるから。」と。彼女からすれば、お金で買えてしまうプレゼントには価値を見い出すことができないのだそうです。この言葉のインパクトは強かったな。だからぼくはガトーショコラを作りました。笑

ぼくたちは資本主義をフォーマットとした世界で生きている

ぼくたちは日々お金を何かに交換して暮らしています。それと同時に、自分の時間や能力や発想をお金に交換してお金を得ています。金は天下の回り物。お金が行ったり来たりするうちに、できるなら出ていくお金よりも入ってくるお金の方が多くなったらいいのにな。そんなことを誰しもが考えるわけですね。

ぼくたちの世界のフォーマットは「資本主義」なんです。提供するのもお金(支出)で、提供されるのもお金(収入)。お金は必要なモノを得るための交換ツール、道具です。なんだけど、これだけ物事のやりとりにお金が動くもんだから、いつしかお金は道具としての意味よりも、もっともっと肥大化した存在になっているような気がします。人が持つ欲望との相性が良いのかもしれません。

お金は万能です。基本的には何にだって交換できる。でもねやっぱり、それはあくまで道具であって、手段であって。目的や価値そのものではないと思うんです。

お金そのモノに思想はない。思想を持つのは人なんです。だから、道具であるお金に支配される必要なんてない。

生きる為に働くのか?働く為に生きるのか?
なんて悩む必要なんてないです。お金は生きる為、人々の暮らしを豊かにする為の道具なのですから。

みんなで作ってみんなで分ける。理想の社会主義がなんでうまくいかなかったのか?

社会主義(≒共産主義/違いについては長くなるので割愛)は、資本は国が保有し管理して、国民に平等に分配するというもの。
言ってしまえば国が大きなお財布を持って、みんなで生産して、みんなに等しく分配する。

資本も財産もみんなで稼いでみんなで共有する。とても平和的で愛に包まれた世界観。

資本主義の問題点である、資本を多く持つ富む人とそうでない人に格差が生まれる状況、それをとりまく社会情勢などを否定して考えられた仕組みなんだそうです。

でも、結果どうなったか?うまくいかなかったんですって。平等に配分されるとしたらどうなるか?たくさん働く人が損をしてしまうんです。

ぼくは昔リゾートバイトをしたことがあって、ある日同い年の気の合うバイト仲間といつもの業務を本気出せばどれだけ時間が短縮できるのか?という話になり出してみたんです、本気。そしたらいつもより2時間も早く終わったんですね。どうなったか。同じ業務量を2時間早く終えたので、ぼくたちはテニスに興じた。そして、手取りが2時間分減りました!笑

それからぼくたちは、いかにのんびり業務をこなして、いかにたくさんの時給をもらうか?を考えるようになりました。テニスに興じる日を除いて。

つまり、たくさん働いてもサボっていても配分が平等であれば、人はなるべくサボるようになってしまうんですね。

「水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる。」

社会主義はマルクスという奇人とエンゲルスという献身性の神のような2人によって提唱された考え方で、産業革命で生産制が向上し階級などにより広がる貧富の差に対して、資本主義の行末を案じた反体制の思想でした。いかに社会をアップデートするのか?を考えていたんだと思います。

でも社会は、人は、歴史を振り返る限り性善説の問い掛けには応じることができなかったようです。

「水は低きに流れ、人の心もまた低きを流れる」これは孟子の言葉をオマージュした攻殻機動隊というアニメの革命家クゼが使う言葉です。

水が低いところに流れるように、人の心もまた低く落ちていってしまう。人の本質への理解と葛藤を描くシーンです。

最近になって社会はマルクスの時代よりも成熟して、「なんか資本主義だけじゃ限界じゃない?」を問う人が一定数表出して、この社会主義の思想を再度問い始めた。そんな時代感なんだと思います。

ぼくはいま、ぼくが暮らす200世帯の宿場町が所有する家賃不要と言われている飲食店を再生して、売上の一部を地域の価値向上に充てる資金とする区費の積立を考えています。地域の有休農地を共有財産として再生し、作物を作り、それらを地域に分配する。などの、社会主義的な共創と分配の仕組みを想像しています。

でも、ここで忘れちゃいけないことは「いまだかつて社会主義は成功していない!」ということ。人は常に怠惰で、欲深い。ぼくも含めて。ならば性善説に頼る社会主義が持つ理想的な思想を、他のフォーマットで再生できないか??こんなことを考え始めたんですね。

資本主義的な評価制度と社会主義的な分配制度

資本主義社会は、マルクスが懸念するように資本を多く持つ富む人とそうでない人に格差が生まれ、成熟していく社会においてもその動きは顕著です。ただ、過去のように人権や環境を無視した思想は変化して、SDGsをはじめとした、持続や循環などの優しい価値観が生まれ、行動を起こす人、国が台頭してきているように感じます。マズローの5段階欲求のその上にある「自己超越の欲求」と呼ぶ現象でしょうか。

自己実現の欲求をある程度満たした人、もしくな自己実現の欲求そのものが自己超越の欲求と捉える人も現れている気がします。

これらの価値観の台頭やキャラクターの存在を知ると、なんて素敵な世界になってきているんだろう。ととても嬉しく思います。

ただ、やはり人の心は完璧ではない。誰しもがエンゲルスのように献身的には生きることは難しい。ぼくが思うのは、人は性善説でも性悪説でも説明のできない、もっと複雑で繊細である。ということです。いや、その双方を兼ね備えてる感覚かも。天使と悪魔が常に激論交わしてるような!笑

ぼくはいまシェアハウスの運営をしています。忖度なくめちゃくちゃいいやつばかりです。にも関わらず、気を抜くとキッチンや共有スペースは散らかります。管理人のカイトが片付けようね。と言っても、やはり気づけば散らかってしまうのです。

それでも中には、みんなが寝た後に1人でガス台を綺麗にするシェアメイトもいるし、花を飾ってくれるシェアメイトもいる。料理を作るシェアメイトもいれば野菜を作るシェアメイトもいる。

どこの視点からその人を評価するのか?評価軸がそれぞれあって、その視点から見ればいい人!であっても、他の視点から見れば悪い人。つまり、善悪の価値観そのもの、正義という価値観そのものが、各々で乖離があるのです。もしくは、得意不得意とも考えられる。

だから、キッチンは散らかることがデフォルトであるということを理解した上で各々のいい人ポイントを評価していこう!そんな話を管理人とはしています。

各々の自主性=性善説に頼ること
各々の至らぬこと=性悪説を許容すること

この双方を受け止めながら、人の本質を理解してぼくたちは人と向き合う。コミュニティビジネスと呼ばれる領域の生業の商品は「人」
だからこそ、人を善悪で見るのではなく、一人ひとりの価値観、個性を尊重する。多様性の世界に絶対正義は存在しない。

そう考えた時に、はやり人を平等に扱う。ということには難しさを感じます。正義も得意も違う一人ひとりを同じフォーマットで管理して分配するという仕組みには無理がある。社会主義の世界観は理想的な景色のようで、フォーマットが個に寄り添っていないとも考えられますね。

例えば、共済保険の仕組みなんてどうでしょう?みんなから少しづつ集めたお金を財源にして、必要な人に必要なときに払い出す。事故や入院の時に支払われる仕組みです。これは平等とは言えない。でも、平等な運用とルールを基本に、みんなで大きな財布(貯金)を作って、必要な人に必要なタイミングで使うという仕組み。なんだか、ちょうど良い気がしませんか?

例えば、資本主義的な観点での評価軸で、社会主義的な分配はできないだろうか?そんなことを考えます。

なんだか難しい!!けど、もしかすると。それが極小規模のコミュニティや限定された範囲の地域でならどうだろう?

例えば、両親とお子さん3名の3家族がコミュニティだったとして。労働収入は2人の父ちゃんと2人の母ちゃんが従事して、1人の父ちゃんと1人の母ちゃんが家事や地域仕事に従事する。一家に1台必要な車を3家族で2台所有、トイレは2つ、キッチンとお風呂は1つずつ、少し大きな家を一軒所有する。大きな財布にコミュニティ全体から得た収入を入金して、それぞれに分配する。お子さんを預けて父ちゃん母ちゃんがデートすることもコミュニティ内のシフト調整で実現できるぞ♪笑

例えば、地域の休耕地を共同所有して、協働して作った作物を地域に分配するとする。労働した人には地域内で使える通貨を発行して、地域でその通貨を使用してサービスを受けることができる。通貨は区費と通貨を利用できる店舗の収益の一部を財源とする。地域で一人地域の管理人を登用する!なんてことも考えられますね。数少ない貴重な地域の労働人口を地域外に毎日流出させるの勿体無いしね。

例えば、シェアハウスの家賃をゼロにする。代わりにシェアハウスを含めた業務全般をシェアメイト全員で運用する。シェアハウスの地域に飲食店やゲストハウスなどのコミュニティに関与するミニマムビジネスを生み出してそれらを運用する人材をシェアハウスから捻出する。損益分岐を超えた利益はそれぞれの業務負担量に応じて分配する。

そんなことを妄想してみました。結構夢のような話です。笑
このような思考の積み重ねが、「新しい公共」「資本循環主義」へと繋がる思考の発端です。

資本主義の限界を感じている

数年前、長野市の大きな美容室の社長からこんな相談を受けたことがあります。「若いスタッフをやる気にさせる方法がわからない。おれたちは出世したかったら働け!と言われてきてがむしゃらだった。」と。

面白いことに、年代によって「働く」ことへの価値観が大きく違うということを、このときに明確に感じるようになりました。ぼくはもうすぐ37歳。ゆとり世代の先駆けで青春の真ん中はドラゴンアッシュ。バブルの終わりに生を授かりサリン事件と阪神大震災。生まれてこのかた右肩下がりの日本経済、DVや体罰が問題になって教育の場や部活の上下関係の方向転換期、金八先生でトランスジェンダーが取り上げられる。そんな時代と時代の価値観の過渡期にいたような世代です。

そんなこともあり、出世することやお金を稼ぐことに血眼になる先輩世代と、物質的価値よりもその意味を問うZ世代、双方の価値観に触れています。

世間ではSDGs、ESG(環境/社会/企業統治)、パーパス(企業の存在意義)などの「自己超越の欲求」が言葉として切り取られ、まるでそれらが義務のように受け取るZ世代の存在が見られます。そして、それらをビジネス的観点でしか捉えない高年層の存在も見られます。

「この世界は多様である。」という当たり前が、今の時代にやっと当たり前だといく実感が、これまでとこれからの分岐点になっているのかも知れません。

正義も価値観も、お金自体の捉え方も、そもそも多様で、資本主義のお金でしか物事をやりできない仕組みそのものが、この変化の時代にそぐわないのかも知れません。長々と思考を散文してきた割にはやはり上手に表現できなくて申し訳ないですが、、笑

資本主義そのものを否定するというわけではなくて「資本主義だけでこの多様な世界を捉えることに限界を感じている。」というのがこの段落の結論、、だと思います。笑

資本主義から資本循環主義社会へ

それぞれの資本を提供しあってすすめるプロジェクト

「それじゃあおれ、クラファンやるよ!」ぼくたちが進めるen.toプロジェクトの説明会で、シェアメイトのにっしーがそう言ってくれました。

ぼくが、このプロジェクトのフォーマットに乗っかって2次創作的になんかやってくれる人、募集!!と言ったことに対してのリアクションでした。

そんなことで、現在絶賛クラファン実施中!!

【en.toプロジェクト?】

<意味>
en.to=◯◯to(with)の関係を表す
塩(塩尻)と/縁(人との関係)と/円(広く他団体を含めた繋がり)と/¥(経済との向き合い)と/宴(地域の活気)と/苑(物事が集まる場)と/炎(熱意の伝播)と/援(叱咤激励)と/演(表現)と、など
∟人や物事、状態との関係を持てる場や思想

en.to=entryエントリー/entranceエントランス
∟参加を表明できる場/塩尻と物事の入口となる場

<事業>
中心市街地活性化・大門エリア空き家再生
地域の担い手を育成する滞在型交流拠点[en.to]

長野県塩尻市中心市街地大門エリアの衰退の象徴と称される旧ギフトショップハリカを再生し、関係人口の接点の全ての機能を実装する場/未来の人材を育成する場を創出する。2棟から成る旧家を、飲食を伴うコミュニティスペース/ゲストハウス/ADDress拠点/シェアハウスとして運営予定。

ぼくたちはぼくたちが暮らす町、塩尻市の空洞化された中心市街地の商店街の元ギフトショップを再生しようとしています。コアメンバーのそれぞれは塩尻市の各地に分散していて、それぞれの暮らしのフィールドから中心地は少し離れたところです。ぼくたちはこのエリアのことを「はじまりの地」と呼称しています。塩尻市との接点は、このはじまりの地から始まり、のちにそれぞれが暮らす場と出逢い拠点を開拓していくのです。

塩尻市は行政の先進的な取り組みや、モノづくりをする多くの企業が展開していることなどの理由で関係人口の流入が絶えません。しかし、関係人口と呼ばれる人たちとの接点の深度化を図るようなコミュニティスペースが欠如していることや、暮らしに好立地な市街地は空き家や空き商店が多くなく、チャレンジをする若年層の進出が受け入れられるフィールドでもない。これらの理由から、多くの関係人口となっている人材が、塩尻での活動などにつながることが難しい状況にあります。

また、地元の学生や子供たちも、塩尻市としてアイデンティを育むことが難しく「松本市の隣の町」という印象を抱くことが多いのだそうです。

市街地域は空き家になると、すぐに住宅メーカーが購入し、取り壊して分譲化していきます。なので市街地域の人口は減少しない。だけど、地域文化との接点や地域住民との関係性に関与しない人口ばかりが増えていく。元の町が漂白されて新たなベットタウンで上塗りされそうな状況です。

ぼくはある日、巨大な元ギフトショップの在庫や荷物に溢れた店内を一人で呼吸器を背負い片付ける高橋さんと出逢います。高橋さんは自分の先を考えると、親族に迷惑はかけられないと、建物の取り壊し決めたと話します。そのことがきっかけとなり、en.toプロジェクトのコアメンバーとその後なる仲間を中心に、ここを片付けることを始めました。中心市街地の衰退の象徴とも比喩されるその建物。この場所が取り壊され更地になったとき、駐車場になったとき。その風景を想像すると、結構怖くなったんです。はじまりの地に、その町の歴史を知る場所が消えていくんだと。

はじまりの地に足を踏み入れる人たちが町と接点を持てる場所。
地域の子供たちがこの町を誇りだと思える要素の一つになれる場所。
そんな場所に、このギフトショップはなれるんじゃないか。
「衰退の象徴を再生の象徴に換えるインパクト」を考えていこう。そんな話を始めたのが、プロジェクトの代表となる横やんです。

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ぼくと横やんは未来への妄想力は最強です。でも、現実するための細かなロジックを何一つ持ち合わせていないんです。くっといけばカンなんです。って言っちゃう長嶋さんみたいな。笑

学生の如く気合いと情熱だけで騒いでいると、ロジ周りで横やんに振り回されるなおこさんが「見てられない!」と手伝ってくれるようになりました。その姿を見たなおこさんの旦那さんで最もぼくたちの中でお金の性質を知っているりきさんも「正気か?!」と手伝ってくれるようになりました。よく考えると、奇跡です。笑
片付けにはたくさんの参加者が集まり、出資者が集まり。

そして、コアメンバーではないはずのにっしーが「それじゃあおれ、クラファンやるよ!」と手を挙げてくれたのです!これらの、それぞれが持つリソース=資源を持ち合わせる行為の現象を、ぼくは「資本循環主義」と呼んでいるのです。

善意ある能動者と善意なき受動者という存在

この段の見出しテーマを説明する為にぼくの経歴を簡単に紹介します。

ぼくは長野県に2009年、21歳の時に関西から移住しました。元は小学4年生から卒業までの三年間、長野県小谷村-OTARI-という絵に描いたようなど田舎で親元を離れ寮生活をしながら地元の学校に通う山村留学という制度で暮らしていた。という稀有な小学生時代を過ごしました。そのことがきっかけで、小谷村がぼくのふるさとだ!!というナショナリズムが内心に勃興し、父親が定年を迎えて小谷に住みたいとの世迷言を口にしたことを起点として、長野暮らし、小谷暮らし、ど田舎の築150年の古民家暮らしが始まりました。シンプルに伝えるとぼくは自分のふるさとをぼくの為に守りたい。この場所がぼくには必要なんです。というのが、ぼくの行動全ての原動力なんです。現在進行形で。

2011年東北の震災から1ヶ月後の4月に古民家noie梢乃雪を立ち上げます。ぼくの愛する小谷をたくさんの人に知ってもらいたい!ぼくの好きに共感してもらいたい!!などの精神的孤独からの脱却の意味合いと、田舎地域との接点のない同年代に田舎への入口となる場を提供したい!との想いが重なった結果のアウトプットが、ど田舎での宿業経営だったのです。

時代のタイミングの良さと「なにもない。が、ここにある。」と言った田舎ブランディングの広報戦略をドブ板営業的に実践した結果、思いの外たくさんの人が訪れてくれるようになりました。このことがきっかけで空き家を再生してほしいとの声がけや、地域活性関連のプロジェクトへの参画打診、県内行政とのずぶずぶな関係性の構築につながり、田舎での商売、生業が成立していきました。

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地域をフィールドにして地域と関わる生業を進める中で、多くの想いを持った人たちとの接点が生まれました。その中でたくさんの、身を粉にして自己犠牲の精神で行動する人が、どの地域にも一定数存在することを知っていくんです。

ぼくが尊敬と愛を持つあるNPO法人のコアメンバーの女性がいるんですが、その人はすごく地域のことを想い活動している。それなのにすこぶるいい評判をきかないんです。なんでなんだろ?この問いがずっとぼくの中にあったんですね。

その意味が、最近になってやっとわかってきたんです。大学時代かな?バイト先でこんなことを言われたことがありました。「たつみ頼むからもっと適当にやってくれ。じゃないとおれらもお前みたいにやんなくちゃならなくなる。」と。

ここでまた一つ仮説を立てました。人は「自分がなれない存在」を目の前にした時、服従か尊敬か嫉妬か拒絶、このどれかで見るんじゃないかと。
そう考えるとこれまでにぼくの周りで存在した不可解な人間関係のあれこれを理解することができるんですよね。ぼくはバイト先で拒絶されたんだと思います。上でも書いたようにバイトの時給は同じです。だとすればいかに力を抜いてサボるかを考えたい。それなのにぼくがせっせとやってしまうと店長あたりに「ほら、お前たちもたつみみたいにテキパキ働け!」って言われちゃいますもんね。それは煙たい。

NPOの女性は地域に対してとても献身的です。やっていることは最もなんだけど、できれば近づきたくないんだ。だって巻き込まれたくないんだもの!もしくは、行動をしている人を前にして、そうなれない自分を卑下したくないんだ。そんな感覚を持つ人が一定数いたのかもしれません。

芸能人やインフルエンサーや起業家を見上げたりディスったりする感覚は、これと同じなのかもしれませんね。

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先日、社会福祉協議会(通称:社協/社会福祉法人/地域福祉の推進を目的として全国の都道府県、市町村に設置される民間団体だよ)の講座でお話しした時に、社協のボランティアセンターに登録している人たち(社協に依頼される事業などへボランティア派遣される)がこんな話をするんです。「地域にとって必要なことをしているはずなのに全然人が集まってくれない。」と。

このときにぼくは上に書いたNPOの女性のことを思い出したんです。その人も社協ボランティアのみなさんのことを仮に「善意ある能動者」と呼称しみてることにします。善意ある能動者は暮らしの中でなにかしらの課題やサービスを欲する人たちとの出逢いなどをきっかけとして(やりがいや責任感を感じて)、アクションを実行に移した過去があるのだと思います。「だったらオレがどうにかしよう!」と。

(こう考えるとこれらの一連は中動態であるような気がしますがこのテキストでは一旦能動と受動で考えてみたいと思います)

誰かの為に地域の為に未来の子供のために!!
彼らの思想は純粋な善意で満ち溢れている。だから行動するんです。がんばるんです。でも気づくんです。自分たちのあとに続く人がいないということに。

ぼくはこれまでにたくさんの「身を粉にして自己犠牲の精神で行動する人」と出会って来ました。ぼくが善意ある能動者と呼称している人たちです。
人は「自分がなれない存在」を目の前にした時、服従か尊敬か嫉妬か拒絶、このどれかで見るんじゃないか。

対照的な一般的な人の人のことを「善意なき受動者」と仮に呼称してみることにします。上に書いたように、善意なき受動者は善意ある能動者にはなれない。(もしくはなりたくない)できれば近づいてきて欲しくないんです。巻き込まれたくないんです。休日を返上してボランタリーの精神で汗をかくと自身の肉体を損耗してしまうんです。

アンパンマンとカバオくんを例に考えてみる

「あんぱんまぁん、おかなすいたよぉ〜」とアンパンマンの顔面を貪り食うカバ。でおなじみのカバオくん。笑
ここではわかりやすく、アンパンマン=善意ある能動者/カバオくん=善意なき受動者 としてこれらのキャラクターのことを考えてみることにします。

あ、誤解なきように先に伝えておくと善意なき受動者はほとんどの人のことを指しています。強引に能動と受動を二項対立で考えるとしたら、普通のみなさんが受動者になります。このあとに書きますが、どちらがいいと言うわけではありません。あくまでどちらも「人である。」という結論に達します。だから、みんな仲良くカバオくんでOKです!笑

アンパンマンは愛と勇気の名の下にたくさんの人々の空腹と平和を守るため日夜困った人を探して飛んでいます。アンパンマンを見つけるやいなやお腹を鳴らしてアンパンマンを呼び止めるカバオくん。ぼくの顔をお食べと差し出すアンパンマン。おいしいよとあたりまえのようの食べるカバオくん。  なんとなく、社会ってこんな構図なような気がしています。もちろんもっと複雑であることは承知の上、ひとまず聞いてください。笑 

◯アンパンマンという存在を地域をフィールドに考えてみる
行政や政治、補助金、ローカルプレイヤーと呼ばれる何かを興す人材、NPOの人、ボランティアや市民活動の人→与える側の存在→善意ある能動者

◯カバオくんという存在を地域をフィールドに考えてみる
 一般市民全員→善意なき受動者

この社会は与えるという行為と、与えられるという行為が混在しています。ぼくは思うんです。アンパンマンの優しさって本当に優しさなの?と。中国の古い話で釣り人とこじきという話があります。飢えるこじきに釣った魚を与える善意ある能動者の釣り人。ある日釣り人が亡くなり食べるものを得られなくなったこじきも亡くなってしまう。それなら釣り人は魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えるべきだったよね。という教訓のお話です。

地域が衰退していく有様をリアルタイムでぼくはかれこれ15年見ています。その要因は何か?「不足」です。人口が減少することでこれまで賄えていた地域インフラの整備が資金/人材が共に不足しできなくなる。人口の減少と共に地域行政の財源も減少していく。不足していくから分配の整理が必要となる。整理は各地域の資源や人口を基に積算される。人口が少ない地域や減少していく地域は財源の分配も人材の配置も循環バスの本数も徐々に減少していく。民間運営の公共機能に等しい郵便局や銀行が撤退していく。医療機関が撤退していく。暮らしづらくなるからまた人口が減少していく。「不足の連鎖」が、地域衰退の要因です。

行政が公共サービスを減少させる度に、民間機関がサービスを減少させる度に、地域の一般人である善意なき受動者は陳情などの声明を出すのです。その現象を止めれることなどできないことを知りながら。

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人口が増加していた高度成長期社会やお金が動いていたバブル社会において、これまでアンパンマンとカバオくんの割合は均衡が取れていたんだと思います。おなかすいたよぉ〜で顔を与える存在が、与えられる存在を満たせていたんだと思います。でも、そんな時代とっくに終わったんだよね。

思うんですよね。アンパンマンはもっとカバオくんの未来を本気で考えてあげればいいのにって。手伝うからちゃんと自立しなよって。カバオくんもジャムおじさんに弟子入りして自分でパンを焼けるようになればいいのにって。いつしかアンパンマンは誰かに分け与えることに疲れ切って、アンパンマンであることを放棄してしまう。

地域活性と呼ばれる業界にはアンパンマンしかいないんです。まさにオレが地域回してますよって言わんばかりのドヤ顔でメディアに露出する、常に新しい顔を投げ続けられるアンパンマンか、疲れ切って志が折れちゃった顔がびしょ濡れのアンパンマンか、カバオくんに求められまま分け与えて顔の無くなったアンパンマンか。

資本主義の世界は、貧富の差だけではなくて、情報や社会参画の格差も顕著です。
アンパンマンは言うんです。「こっちおいで。一緒に遊ぼう!」って自分たちの回す大縄跳びの輪にカバオくんを誘うんです。だけどその縄跳びがダブルダッチのような速度で回っていたり、バラのつるみたいに棘まみれだったり、一度入れば抜けられない運命の黒い糸だったり、、

だからカバオくんはいつしかアンパンマンを遠ざけるようになるんです。自分の中にあるはずの善意と能動性に目を背けて、関わっちゃいけない。だからアンパンマンはずっとずっと孤独です。

ここから、じゃあどうするか?って話をしていきます。
広大なテキストも、やっと結論に向かっていきそう、、です!!笑

人間の本質をぼくたちはちゃんと理解する必要があると思う

上で性善説に関係した話を書きましたが、そのことを改めて考えたいと思います。

カバオくんと表現している善意なき受動者は、性悪説が適した人格なのか?そんなことはない!のだとぼくは思います。上にも書いたように、人は性善説でも性悪説でも説明のできない、もっと複雑で繊細である。ぼくはそう思います。日本のCO2排出量の2%を削減するという自己超越の欲求の塊のようなうちのシェアメイトはコンテナハウスを牽引する為に燃費の悪いフォードに乗っています。笑

低きに流れる水のように、気を抜けば人は怠惰にサボり、権利を与えられればそこにあぐらをかくものです。「武器を持てば一度は使ってみたくなるのと同様に」これもクゼの言葉です。

性善でも性悪でもなく、人は人でしかないのだと思います。だからこそ、高みを目指すこともできれば、あるばままになすがままに身を委ねることを許容することもできる。人は等しく愛おしくて醜いのです。

だからこそ、「片付けよう。」だけではリビングは片付かないし、「みんなでがんばろう!」の地域活性は打ち上げ花火として尽きてしまうし、「アンパンマンおなかすいたよぉ〜」って言ったってもう食べ尽くしてしまっている。

勧善懲悪の正義も、神様の数も、美醜の捉え方も、全ての思想や価値観に正解なんてない。人は優しくもそれと同等量の残忍性も持ち合わせている。がんばることもあればさぼることもある。人は等しく愛おしくて醜いのです。みんな違ってみんないいそれ踏まえて!人の本質を理解して清濁併せ呑む。そうやって、ぼくたちは理想をロジカルに捉える必要があるのだと思うんです。

善意ある能動者はカバオくんのことをもっと知ろう。善意なき受動者はアンパンマンにも少しくらい与えよう。お互い様のゆずりあい。

カバオくんにだってできることあるよね。アンパンマンは孤独になるメガニズムを理解しようね。一人ひとりが持ち合わせた「資本」を、能動的じゃなくっていいんだ、受動的にしゃあなしでいいからぼくたちの社会に少しずつ提供するロジックを見出そう。誰かがやるだろうの性善説に頼よるんじゃなくて一人ひとりが参画できる社会をデザインしよう。

地域の「足りない」を地域に暮らすぼくたち自身一人ひとりの資本を持ち寄って、補填し、修繕し、創生し、衰退へと向かう時代の方向から舵を切ろう!大丈夫、少しくらい本気出せばできるから!!笑

善意なき受動者であるカバオくんたる心優しき一般市民であるぼくたち一人ひとりがほんの少しずつ行動を起こす未来。アンパンマンに全てを託すような無責任と無関心からの脱却。資本循環主義のフォーマットを、地域に、社会に。
そんな妄想の話をします。

資本ってなんだ?循環てどうするんだ??

ここで定義している「資本」はお金も含めた、人がそれぞれが保有する資金/スキル/時間/モノなどのリソース全てのことを指しています。例えば、知識や技術だって資本だし、暇な時間だって資本。車だって、家の空き部屋だって全部資本。それをみんなが少しずつ社会に提供することが、資本循環の考え方です。決して難しいことじゃない。

更に例えるなら、知識や技術を持っている人が先生になって講座を開く。知識や技術という資本の提供です。そば打ちだったり、ハーブィーだったり、裁縫だったり、パソコンの使い方だったり。地域の誰だって先生になることができる。
休日は暇してるからなにかやることあれば手伝うよ。って人がいれば、社協のボランティアセンターをとおして地域活動に参画することだって、時間という資本の提供。近所で空き家をボランティアが集まって片付けるなら、軽トラ貸すぜ。だってモノという資本の提供。

地域のばあちゃんたちがみんなで子育てサロンを実行したり、ボロボロになった公園の整備をするのだって。

ぼくたちは能動的に分け合うことって結構難しい。だって、目の前におばあちゃんが立っていること知れば席を譲れるけど、これに能動性を求めらるとしたら、そもそも席に座らない!という選択をするしかない。目の前に子どもがいたら自分のお菓子を分けてあげようって思うけど、能動的にお菓子を届けにはいかない。

人はそこに課題や必要性を感じない限り、行動はおこせない。つまり、基本的に「ゆずりあう」という行動は、善意なき受動から生じているとぼくは思うんです。ただ、そこにおばあちゃんが座ることを知っていれば席を空けておこうって思えるし、このあと友人がお子さんを連れてくることを知っていればお菓子を用意しておこうかな。って思うでしょ。そうやって、善意なき受動は、安易に善意ある能動に変化することができるんです!

「片付けよう。」だけではリビングは片付かないし
↑管理人のカイトくんが夜な夜な一人で片付けてるの切なくない?助けてあげてよって言ったらみんな片付けるようになる

「みんなでがんばろう!」の地域活性は打ち上げ花火として尽きてしまうし
↑がんばる目的が見えれば、継続性の必要性が明確化されれば持続可能なプロジェクトへ昇華する

「アンパンマンおんかすいたよぉ〜」って言ったってもう食べ尽くしてしまっている。
↑アンパンマンがつらいんだよ。ってことを知ればカバオくんだってアンパンマンに与えることを考え始める。

地域活性と呼ばれる業界にはアンパンマンしかいない現象も、そもそもアンパンマンにしかそういった場や情報が提供されていないだけなんです。シンプルに考えると「ただ知らない。」というだけなのかも。

みんなが参画する大縄跳びも、それぞれの最適解の速度で回すことを意識したり、ちゃんとその場があることを周知したり、そもそもの遊び方を知れば誰だって参画できるコトへと変化するんじゃないかと思うんですね。

つまりは、資本を循環させるための場の設計、フォーマットが必要になるんだな。てことをテキストを書きながら感じました!笑

新しい公共を実装する実験的なプロジェクト

en.toプロジェクトでおこっている現象そのものが資本循環主義なんだと思う

ぼくはこれまで地域やたくさんのプロジェクトと関わる中で、たくさんの人と言葉を交わし、たくさんの価値観思想、それらが時代の変化と共に刻々と変化していることを感じています。年々資本主義の価値観だけではその人の思想を理解するのが困難になっているように感じます。価値観や選択のプライオリティの順位の上位が資本(お金)ではない人が多くなっている。自己実現の欲求から自己超越の欲求へとシフトしている。

このen.toのプロジェクトがまさしくそうです。関わる全員が驚くほどにプライオリティの順位の中で資本が下の方にいるんです。良くも悪くも、いくら儲かる?なんかに全然到達しない、どうすればできる?ってところにいます。笑
良くも悪くも代表の横やんとぼくは金銭的リターンをほぼ考えていません、、
(なおこさんとりきさんには頭が上がらない)

それよりも、このプロジェクトが形になった未来!のその姿を想像してはひたすらにニヤニヤしているんだから!!!笑

それにしては動くお金の総量も大きければ、開発規模も大きい、後には引けないくらい地域をはじめとした人材を巻き込みまくっている!ぼくたちと同じく金銭的リターンを考えずに小さくない資金を投じてくれる人もたくさんいる。自分たちでこのプロジェクトを動かしながらずっと考えているんです。

「なにがおこっているんだ、、??」と。

ぼくたちも悪びれることもなく誠意を持って堂々と言うんです。「お金、出してくれませんか?」とか「お弁当しか出ないけど手伝ってくれ!」とか。それでも驚くほどに好意的に関わってくれる人たちがいるんです。にっしーもそう、彼になにかのリターンが発生するのか?ギャラはどうなんだ?そんな話もないままに、こうやってしちめんど臭いクラウドファンディングを始めてくれた。

他にもたくさんの人プロジェクトに関わってくれています。感謝感激いとおかし。

このen.toプロジェクトや塩尻周辺で巻き起こる人と人との共創の不可解な現象。一人ひとりがぼくたちに巻き込まれる中で、それぞれが持つ資本を少しずつ提供する。

それこそが「地域循環主義社会」の片鱗であり、「新しい公共」が形成される勃興フェーズなんじゃないかと。ぼくがしていることは新たな価値を提起するような高尚なコトなんかなじゃなくて、ここで起こっている現象を多角的な角度から見回して、整理して、名前をつけようとしているコトなんだと思います。

【新しい公共】
自分は町で、町は自分。
不特定多数の人々の暮らしに関与する公共性の高いコト(場や機能)を、地域単位やプロジェクトなど横断的な個の集合体で実行する行為。またはその概念。

それぞれが保有する資金/スキル/時間/モノなどのリソースを「資本」と定義し、それらをそれぞれが提供し資本が地域循環する「資本循環主義社会」概念を基に実行される。
新しい公共の基礎思念ver.02_2023.03.30

資本を循環させるための場の設計

en.toプロジェクトを形にするにはまだまだたくさんの資金や、思案や葛藤や労働が必要となってきます。と言うより、まだ何も始まってもいない。それらを資本循環主義を基にそれぞれが資本を提供し、ゆずりあいながら形にできたとしたら?の未来の話をします。

en.toの場としてのアウトプットはシェアハウスから始まり、ゲストハウスと飲食を伴うコミュニティスペース、ADDsess拠点などを機能の中心として運営を予定しています。
↑創る道中にもたくさんの人の資本を収集します

目的は、塩尻の全ての関係人口の接点となること、未来的なローカルプレイヤーを育成する拠点となり、結果かっこいい大人を量産すること。です。
↑そうすることで目を輝かせる子どもや学生たちが生まれていく

アウトプットする機能は、この目的に向かう為の手段として場を設計することに振り切ります。

そうした中で、飲食を伴うコミュニティスペースではみなさんの資本を存分に提供していただく場としての設計を考えていきます。

上で書いたような誰もが先生になれるような講座の運営、誰でも参加できるただのご飯会シェアごはんの定期開催、学生さんの探究学習実践の場などの地域内外の交流を促進するコトの実行。

また、地域内に顕在化していない課題を収集して課題と資本提供の関係を図ることを考え、建物外側によろず掲示板を設置し、課題とそれらの解決に取り組む人材のマッチングを実行したいです。

例えば、蔵の片付けしたいから手伝って!報酬は蔵から出てきた欲しいモノをどうぞ!をシートに記載して掲示、それを見た人がエントリーして、実行!というモノです。地域に足りない機能を地域や関係人口内の労働資本で解決するという取組です。報酬はお金であってもそれ以外の資本提供であっても構いません。

これらの関係性には「平等性」や「換価価値」の考え方はありません。与えると与えられるの関係にヒエラルキーもありません。ただ、資本提供をした人には相応の評価や対価(金銭を含む含まないに限らない報酬や感謝)との交換は必要になります。

善意なき受動者はまずは受動的に関わるということから始まります。そして、たくさんの人を知り、地域を知り。その中で自分自身の持つ資本が意外と多いことを知ります。一般市民一人ひとりの力は実はめちゃくちゃ大きい。それらを提供できる場のフォーマットを、まずはぼくたちと実験的に創っていきましょう!やるコトもりもり。

リターンはなんなのか?

この資本循環主義の思想を持って、新しい公共で生まれた場ができたとして。資本を提供したら一体どんなリターンが発生するのか?気になりますよね。実はね、
ぼくもまだわかっていないんです、、!!笑

人によっては「私もその世界を一緒に見たい。」と言うし、人によっては「めっちゃおもろい!なんかする!!」とも言う。地域の人は地域の未来こそが最大のリターンだとも言うし、投資として金銭的リターンが欲しいと言う人もいる。

10万円以上の資金投資をしてくれる人への説明会で代表のよこやんはこう言いました。「おそらくこれは投資ではなく、寄付みたいな話です。」と。金銭的リターンがないとして、それ以外のリターンはなんですか?と聞かれたぼくはこう答えました「これからの社会はお金を稼ぐも使うも、その意味が問われる時代になりそうです。若手人口が減少していく中で企業にはパーパスが求められる(雇用につながる)。地域の未来に投資する。それが財源となって創出される未来があったとしたら、有用なお金を使った実績こそがリターンと言えるかもしれませんね。」

一旦en.toプロジェクトにあなたの資本を提供したとして、そのリターンはもしかすると、新しい公共が資本循環主義で達成される実験結果かもしれないし、今まで以上に素敵な塩尻の町の未来かもしれない。お子さんが塩尻のことを好きにことかもしれないし、en.toで憧れの大人と出逢うことかもしれない。気軽に珈琲が呑める場所ができてよかった!なのかもしれないし、en.toが就職先になるかもしれない。DIYに参加したら彼女ができちゃうかも?!出逢いは壁塗りでした!って。未来的にen.toが仕事の取引先になるかもしれないし、ご贔屓にの関係になるかもしれない。おれが投資したからこの場所ができたんだって、お子さんに自慢できる未来になるかもしれない。

まぁ、いまのところは明確にお伝えできることは、ありません。ぼくと横やんがご乱心で世迷言の妄言を大きな声で語っているだけかもしれません。でもね、ぼくは知ってるんですよ。理解できない現在進行形はいつの日か新たなスタンダードとなっている。この言葉名称化されなかったとしても、ここで伝えているような価値観は次の時代のあたりまえになっている。

その未来を現実へと落とし込む実験を僕たちは始めます。実証はあなたの参画がなければ成り得ないのです。まずは塩尻市をフィールドに。形になった未来は、あなたの町でも日本のどこでだってこのフォーマットは再生可能です。

資本の提供へのリターンを明確に提示するのはやはり難しそうですね。ですので、各々の想像力と好奇心でジョインのほどお願いいたします♪精神的に語ります。損はしないから!!!笑

まずはあなたの資本を、おらたちに分けてくれ!!

あなたがぼくたちに現時点で提供できる資本は、お金、時間(DIYなどの労働)、デザインや設計に関わる知的協力、情報発信に関わるデザインや撮影ライティング、このプロジェクトの利益となる二次利用的な活用(情報発信や研究対象)です。他にも、こんなことできる!!と提案してくれれば一緒に何かできるかも!

一旦、いくらでもいいのであなたのお金を分けて欲しい!参加は以下のクラウドファンディングから。ちぇけらっよう

>> “新しい公共が創る”資本主義では説明できない社会。関わりたいメンバー大募集!

多分、未来はぼくたちの手の中にしか存在しない

地球が悲鳴をあげている。そんな言葉を最近耳にします。多分なんだけど、地域は、日本は、ひいては地球そのものに、猶予ある可処分時間はないっぽい?ってことなんですよね。このままじゃダメなんだ!って、ほんとなんだなて感じてる。ああだこうだ言ってる時間はそんなになさそう。

これからの時代の争点は、みんなが「ゆずりあえるかどうか?」「わけあえるかどうか?」ってことなんだと思うんです。これまでの人の歴史は、それぞれの国家や民族や親族などの、何かに分類された集合体でナショナリズムの思想を形成して、それを正義として他者から奪い、繁栄と衰退を繰り返してきたらしいんです。人はこれまで地球規模でゆずりあうことをした経験がないんです。

だけど時代のアップデートは至極強制的で、それができなければ未来はないぞ!って言われてしまっているんです。世界中の多様な正義とナショナリズムがどうやって折り合ってゆずりあうのか?もしくは、そうするくらいなら未来を諦めてしまうのか?

どうやら、未来はぼくたちの手の中にしか存在しないっぽいんです。

これは地域の中でもおんなじ話ができる。日本は成長のピークをとうに過ぎて衰退のフェーズをずんずん突き進んでいくのです。地域はどこもかしこも足りないの連鎖が加速して、いよいよ衰退から消滅へと向かっていきます。

でも大丈夫。地域に「足りない」を地域に暮らすぼくたち自身一人ひとりの資本を持ち寄って、補填し、修繕し、創生し、衰退社会を愉しみながら乗りこなす。そんな人と人のつながりでしか成せないクリエイティブが、衰退社会の中だからこそ見い出せるんじゃないでしょうか。

公共を共創していく時代が来るぞ。多様を許容し一人ひとりの資本を循環させて、ぼく様あなた様お互い様って、提供とゆずりあいの社会は面倒だけど暖かそうです。

壮大なテキストにお付き合いいただきありがとうございました。物語はリアルタイムに進行中。この思考もまた、リアルタイムに進行中。

あなたの資本が現象と未来を加速する。
さぁ、共創だ。

2023年4月9日
写真とテキスト:たつみかずき

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