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難病モードの私にかける言葉は、感情ベースより「淡々と」がいい

私の姉は、病で苦しんでいる人との会話が上手いと思う。あくまで私がそう思ったということで、他の人も同様に思うかはわからないが。

姉自身は、
「私は冷たい人間だと思う。相手の気持ちがわからない。だからこういう接し方しかできない」
と過小評価しているが、難病患者だった私としては、姉の「こういう接し方」がとてもありがたかったのである。

その一方で、一番傷つく言葉を発したのは母だった。

  *

何年もの間、私の体を襲い続けた異常現象が難病だとわかったとき、私も両親も、まず病名がわかったことに喜んだ。これで体に何が起こっているのか理解できたし、病との付き合い方がわかったから。

しかし母はその後――やはり「難病」という言葉で少なからずパニックになったようで、大いに嘆いた。

「なんであんだばっかり……」
「なんでこんなことに……」
「何がダメだったんだべ……」

私としては病名がわかったことで明るく嬉しい気持ちになっていたから、母の嘆きはのっしりと重く、不必要に闇を背負わされるような不快感を覚えた。

最後に母は、「こんな体に生んでしまってごめんね」という言葉を吐いた。

こんな、体――

これが、難病になってから受けた、一番傷ついた言葉である。

こんな体に生んでしまってごめんね――いかにも母が責任感じているような言い方で、ドラマでもよく聞く言葉である。だけど「こんな体」というレッテルを勝手に貼られた私にとっては、得も言われぬ不快感しかない。

たしかに私も、「なんで私ばっかり」「なんでこんな体になったの」と一人で嘆く日々を送っていた。だけどこれがまた勝手というか難しいもので、自分で思うのと人から言われるのとではまったく違うのである。

母に悪気がないことはわかっている。心の底から申し訳ないと思っていることも理解している。だけど母からポロリと出た「こんな体」という言葉は、

え、私って、欠陥品なの?

と笑顔を引きつらせ、背後から闇が染み込んでくるような感覚を私に与えた。

このときの負の感情は、せっかくなので大事に保管し、小説を書くときに使わせてもらった。

  *

母性が強すぎるあまり感情に支配され、ため息をつきながらなんでどうしてと嘆きまくっていた母。その母とまるで逆だったのが、姉だった。

あれは和楽器バンドの大新年会(お正月ライブ)で、武道館へ初めて行ったときのこと。行ってわかったのは、武道館って結構な坂の上にあるんだなってこと。

膠原病の一種の、顕微鏡的多発血管炎という難病を持つ私は、とにかく体力と体調に自信がない。今でこそ体調が安定して畑で草刈りなどをしているが、当時の私は非常に疲れやすく、倦怠感や皮膚異常、関節痛に襲われていた。

幸いその日の体調は良かったので、足を使いすぎないことに気をつかっていた。杖を使い、無駄歩きはせずに体力温存。たとえライブ中でも、疲れを感じたら迷わず座ると心に決めていた。おうちに帰るまでが遠足。武芸の残心の如く、ライブだけで燃え尽きてはいかんのである。

岩手から武道館へ来るまでに失った体力を回復させるため、ライブ前に長めの休憩時間をとる。しかし見たところ、近くに喫茶店の類は見当たらない。

「喫茶店とか休めるとこないか見てくるから。和珪ちゃんはここで座って待ってて」

姉が颯爽と人混みの中へ消えてゆき、やがて「あっちに飲食店があるから、軽く食べながら時間まで待とう」と戻ってきた。

気遣いをありがたく思いつつも、姉ばっかり歩かせて申し訳ないと詫びる。すると姉は、ケロッとした顔で答えた。

「だって。和珪ちゃんは足痛い人。お姉ちゃんは歩ける人。だからお姉ちゃんが歩くだけよ。ただそれだけのこと。それ以上でも以下でもないよ」

当時の私には、なんだかそれが、とてもありがたかった。そのことを伝えると、姉は私の感謝に違和感があったらしく、自己分析を語った。

「私は冷たい人間だと思う。相手の気持ちがわからない。だからこういう接し方しかできない。――相手の心に寄り添うみたいな、感情を使った優しい言葉をかけられない。事実のみを見るしかできない。だから私は、冷たい人間だと思う」

今度は私の方が違和感を覚えた。「冷たい人間」というくくり方は、違うと思う。だって私は、姉の言動に冷たさや嫌な感じを受けなかった。

姉は他の人とは違う成分で接しているだけなのだ。感情や慈愛といった成分は使っていない、というだけのこと。

感情を織り交ぜないということは、感情の偏りがない。どうにかして相手を慰めよう、同情しよう、共感しようという「盛り」がないし、逆に悪意もない。感情の偏りがなく、事実だけを見るということは、嘘もない。

だから私は姉の言動で不快にはならず、ただただ嬉しかった。

では母の言葉には、心との差異――嘘や盛りがあったのかというと、それはわからない。単純にネガティブ成分が強くて、私が不快に思っただけかもしれない。

自分と不一致の感情を押し付けられることは不快を招く。だからこそ姉の感情ベースではない行為は、齟齬を生むことがない。

当時の私に、感情ベースの言葉はいらなかったのだ。

  *

姉以外にもう一人、嬉しい言葉をかけてくれた人がいる。地域の集まりで顔を合わせる先輩女性だ。

「和珪ちゃん、最近は元気にしてたの?」
「元気ですけど、ちょっと前まで入院してました。忙しいのが続いたから、持病が再発してしまって……」
「再発? もしかして難病?」

この頃の私は、持病があることは公言していたが、難病とまでは言っていなかった。

「あ、はい。難病です。……なんでわかったんですか?」
「なんとなくね。うちのじい様もそうだったから。――そっかあ。大変だなあ」

この先輩女性も、普段からわりと感情の起伏なく淡々と話す人だった。だけど私は涙が出そうになるほど感激していた。「もしかして難病?」「そっかあ。大変だなあ」たったこれだけなのに。

わかってくれる人だ――それだけでまず感激する。そしてこの先輩女性にも余計な感情の「盛り」がないから、素直に嬉しくなってしまう。

感情ベースじゃなくていい。苦しんでいる人の気持ちを、無理やり自分の言葉で言いかえなくていい。なんなら何も言わずにそっと肩を抱くだけでもいい。

ちなみに母も嘆いていたのは最初だけで、その後は私の体調が悪くなると、淡々と対応してくれるようになった。

「あんだは自分の体のこと自分でわがってるべから。あとは休むなりなんなり、ちゃんとやらいん。やってほしいことあるなら言ってくれれば協力しますので」
「ありがとうございます(笑)」

やっぱり感情ベースじゃない方が話しやすい。



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