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深海に沈んでいく人を前にして

中学・高校・大学を出てから、
こんなの運が悪すぎる、今からではどうもしようもないとしか思えないような、相談を受けることが増えてきた。

遺伝的なもの、家庭、経済、学習などの環境的なものなどの要因が複雑に絡み合っており、相談者に状況を改善するだけの術、考えの柔らかさ、体系だった知識といったものが育まれていないことも多い。

大学の学部時代までの悩み相談は軽いものが多かった。愚痴をほんわか聞いておいて、軽めの適応行動を促すことで概ね済んでいた。
しかし、適応行動で対応できない次元の悩みの場合、何十年といった単位の根本的な変化が必要になることもある。

底につくことをどう捉えるべきか。
どうしようもない状況の人は、底にしろ天井にしろいくところまでいかないと止まらないことが多い。
一般的に失敗した後にアドバイスが意味を持つように、性格・身体・思想体系が変わる余地があるのは、底つき体験の後体力が戻ってからになる。

こういった底につく体験は、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』の後『ファウスト』を、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』を、『惡の華』で春日君が大学生以降に小説を書いたように、創作につながる場合がある。創作まで行かなくても想像力のある優しい人になれる場合もある。

そのため、底つき体験(システムの暴走)は芸術や性愛といった美的なものにつながり、代え難い価値があるといえる部分もある。
しかし、死なない限り私達は社会生活を送らないといけない。社会生活に向いている精神構造は基本的に安定しているものだ。現在の人類の経済構造はまだ不安定な人を不安定なまま受け入れるようなものになったとは到底言えない。

さらに精神構造の変化の過程は政治であり質が問われる。
この政治は精神医学、哲学、文学、社会構造、コミュニケーションなどに対する智慧を社会的に分担しながら支え合うことによって質が保たれるものである。
底に向かい、多くの人の目につかない人は良くも悪くも悪徳につかまることも多く、下へ下ヘ海の底に沈んでいき、見えなくなり2度と浮かび上がれなくなることも多い。

そういえば、日本で中流階級的に過ごし続けてこれた人の一般的な思考中の概念として、
(一般的な意味として)心身二元論、自己と他者、目的、自己責任、努力、上昇志向、自由意志、罪
といったものがあるように思う。

(これらの概念はある程度まで考えたことにして、核心部分については考えずにやり過ごす技術や習慣そのものであることが多い。
相対主義的に好き勝手な概念を個人的な生活に組み込めばいいというのは個人の道徳としては正しいが、集団としての道徳、より抽象度の高い普遍性を得る過程で剥がされる程度の抽象度のものと考えている。
なお、これらの観念がそれ自体で悪いものであるとは思ってはいない。
ただその観念を持つことによって生じる問題があるということから目を背けることができないだけである。)

こういった概念に従って生きようとしても、
どうしようもない状況の人の身体とは反発し、苦しみ続けることが多い。
たとえば、アルコール依存症に関しては、断酒できる自己と自由意志というものの放棄と社会的繋がりの両立からはじまる治療プログラムをAAが提唱しているし、(國分功一郎、熊谷晋一郎 『<責任>の生成_中動態と当事者研究_』)毒親の子供には君は悪くないんだよと言い続けないといけない。

このことからわかるように、苦しんでいる人ほど自らの身体に合う言葉を探ること、身体に合う環境を他者との関係の中で作るための言葉を探ることが必要になる。

その過程には、安心して話せる聞き手が複数人(一人だと依存がおこりやすい)いること、学問として学んでいくこと、物語やたくさんの生き物といった異なる身体や世界に触れることが含まれる。

底に向かっていく人を見ている時は強い無力感に襲われる。
底についた後なら届く言葉や行動があるだろうか。今はただ見守ることが必要な過程なのだろうか。
じっと耐える。

しかし、本当にどうしようもない状況の中には、不可逆的に人との縁を切り、言葉が届かなくなることも多い。
カルト宗教みたいなものに絡み取られた場合、助け以前の声を届ける手段も助けを求める手段もなくなり、そのうち助けを求めようと思うこともなくなる。
そして人知れず底に沈み、泥が上に積み重なる。

未来は変えられない。変わっていく。
無力感にかける言葉は一つしかない。

So it goes.(そういうものだ)

芥子ガスの臭いに耐えながら、この言葉から始めないといけないことがあまりにも多い。(カート・ヴォネガット『スローターハウス5』)

P.S.
全体的に宮地尚子さんの書籍を頭に浮かべながら書いてました。
精神医学関連の資格を持っているわけでもないので、もし訂正とかあればコメントを残してください。
また、『スローターハウス5』にならって宿命論的な書き方をしましたが、場合によっては宿命論的に考える時もあってもいいくらいに都合よく捉えています。
また、底についたとしても、ある種の自己修復的なプロセスをとるだろうとして、楽観的にいることも大事です。

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