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教育機会確保法を考える

 2016年12月14日公布。2017年2月施行。
 『義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会確保等に関する法律』付帯決議については2020年までに検討されるものとしている。

【教育機会確保法の施行から1年】

 2018年1月現在、通称「教育機会確保法」は施行から1年が経とうとしていました。当初、オルタナティブ法案という名前だったこの法律の原案は、公教育以外の多様なまなびも普通教育のひとつとして学校教育法と並列した法律の制定を目指したものですが、法案の内容は一転二転三転とし、理想よりも、まず法律を実現させることを目標に進められ、通称「不登校対策法」と呼ばれるものとなりました。公教育以外のまなびの場であるフリースクールやホームエデュケーション(在宅学習)でのまなびが保障されたと謳われ、その周知と理解と現場の活用が広められています。
 2018年2月の多様な学びフォーラムでは、この確保法にはオルタナティブ・フリースクール、ホームスクールは含まれていないことが明らかにされ、さらなる展開を進めるための策を講じる必要があるとされたのでした。ここで、不登校の受け皿としてのフリースクールと、公教育以外のまなび(オルタナティブ教育)としてのフリースクールやホームスクールの在り方が分断されることになり、不登校対策法としての姿が表出するに至っています。

 教育機会確保法が成立するまでの経緯を振り返ってみます。

「学校以外の学びの場の公教育参入の法制化運動は、21 世紀に入り、2001 年「フリースクール全国ネットワーク」設立のころから始まり、フリースクールの公教育参入の歴史的実験といってよい 2007 年の葛飾中学校が設立され、その後、2009 年第 1 回JEDC(日本フリースクール大会)で新法制定への政策提言が採択されて本格化し、2010 年の新法骨子案(第一案)の公表、その後、第三案まで検討され、2012 年 7 月の本会設立総会を経て、現在に至っています。」

ー「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律」案 (8 月 21 日立法チーム提案、9 月 2 日議連総会提出) 法律案に関する論点別の解説―10 の疑問に答える 2015 年 9 月 5 日 喜多 明人 (早稲田大学・多様な学び保障法を実現する会共同代表)より~

2011//03/07 【オルタナティブ教育法 骨子案
2012/02/04 【オルタナティブ法案 骨子 Ver.2
2012/10/08 【子どもの多様な学びの機会を保障する法律(多様な学び保障法)骨子案
2014/7/6  【子どもの多様な学びの機会を保障する法律(多様な学び保障法)骨子案 Ver.3.1】
2015/7/26 【多様な教育機会確保法(仮称)案(義務教育の段階における普通教育の多様な機会の確保に関する法律案(仮称))

 オルタナティブ法案の出発点は、不登校のこどもたちで作られた以下の権利宣言だといいます。

『不登校のこどもの権利宣言』
【不登校のこどもの権利宣言 追補文全文】(条文は2009年に採択、追補版は2011年7月23日発表:参照 不登校新聞)

それは、とてもおおきな時代のうねりを予感させるものでした。
その登場に、どれだけ期待が集まったことでしょうか。
 
 学校教育と並列して、普通教育のひとつとして位置づけされるはずの自由教育(オルタナティブ教育)の法整備が始まる。
 それは、学校からの不必要な介入を受けずに、普通教育として選択した教育を受けることができることを意味していました。
 
 ところが最終的に成立したのは学校教育法のなかの特例法という位置づけである『義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律』(2016年12月)です。
「多様な」の文言が消えました。
 夜間中学校・不登校対策・オルタナティブ教育の三者が「学校」という共通項があるため同委員会に統一されたという説明がありましたが、文科省側では、「不登校対策委員会と夜間中学等義務教育拡充議連の二者が合同して進められた」という認識でした。法案成立までの報告書を読み解いていきますと、「フリースクール」の言葉の共通認識が曖昧なまま、互いに都合の良い解釈で物事が運ばれてきたことがわかります。その共通認識が違ったことが明らかにされたのが、やっとこの2018年3月というわけです。


【懸念された「個別学習計画書」とは】

 不登校親の会は、「個別学習計画書」に即座に不安を覚え、反対を唱えました。(※「多様な教育機会確保法 第4章」)
 「学校に行きたいのに行けなくなった」という心におおきな痛手を負っているこどもたちに充分な休息を、と望み、電話や訪問での親の許諾の無い登校刺激をやめ、望まない配慮をやめてほしいと願いました。
 個別学習計画書のために起こる「学校復帰」をうかがう視線をさえぎることができない。「学校を忘れる」一時の猶予さえなくなることに、こどもを追い詰める可能性を懸念したのです。
 
 海外の事例を含め日本のホームエデュケーションについてよく知る人は、この法案がフリースクール運営には有利に作用するとしても、ホームエデュケーション家庭はホームエデュケーションを続けられなくなるだろうと予測していました。それは自由教育・オルタナティブ教育としてのホームエデュケーションの意味です。多様なまなびという言葉の陰でそれらがいっさい学校教育を学校以外の場でまなぶという意味づけをされてしまうことで、自由教育・オルタナティブ教育が、学校教育に取り込まれる恐れを感じるのです。個別学習計画書作成のために、自由なこどもの日々の生きる営みを、ホームスクールを共におこなう親として寄り添うのではなく「観察者・記録者」にしてしまうことの窮屈さを予見したのでした。
 どちらにせよ「そうすれば認めてあげますよ」の条件付き容認をうけいれることは到底できるものではありません。それは自由とは程遠いものです。「自由とは何か」を日々の暮らしで肌感覚として学び続けるという学習スタイルを実践しているホームスクール家庭にとって、整合性のないものになってしまいます。

 「個別学習計画」が記載されていた法案は通りませんでした。
※2019年現在、「個別学習計画試案」が提出されました。経済産業省「未来の教室」Edtech提言では個別学習策定をもとに中学校の通信制の検討と不登校のEdtechによる教育機会の確保をうたっています。note経済産業省「未来の教室」Edtech 第二次提言とは~「初等中等教育」と「不登校解消」編~をご覧ください.2019/07/25追記)

法案成立までに委員会が提出した報告書があります。
フリースクール等に関する検討会議
平成28年07月29日 不登校児童生徒への支援に関する最終報告
平成27年09月07日 不登校児童生徒への支援に関する中間報告
 
 これらの会議報告内容のレポートには、以下の二面性が印象に残ります。
・オルタナティブ教育の保障
・公教育が学校教育のみであることの現状維持
 思惑がまるで異なる二者が分担して書いたような不連続性が読み取れます。
 あるひとつの側面「学校に行かない」ということだけが共通項として存在するものの、それを取り巻く思惑は、それぞれが抱える背景から異なった方向へと向けられていたのです。
 教育機会確保法成立後の不登校対策の施策を見ていきますと、文科省側からは、学校に登校することや授業を受けることにはこだわらなくてもよく、どんな形であれ、学校教育を受けることができるという教育機会を損なわないようであればよく、それを「多様なまなび」のカタチと解釈しているように見えます。報告に記載のある「フリースクール」や「ホームエデュケーション」は、そういった不登校の受け皿としての学校教育をまなべる多様な場所という意味合いを持っています。
 一方、オルタナティブ・フリースクール側は、多様なまなびとは学校教育つまり国の定めた学習指導料量に沿った学習カリキュラムに必ずしも準拠しない独自のカリキュラムが展開されている民間スクールだと解釈しています。
 不登校の子を持つ親たちは、その間で、振り回されてはいないでしょうか。

【「やすんでもよい」とは新法には書かれていない】

 教育機会確保法をわかりやすく伝えるためのフリースクール全国ネットワークからの提言に、「(学校を)「やすんでもよい」と書かれています」とあるのを目にすることでしょう。確保法を活用するための提言です。ただし、これは「私たちはそのように解釈しています」と言っているだけです。法律とは立場を変え、人を変えれば、解釈はさまざまであることは大前提です。なぜなら、規律を守るために法律があるのではなく、ケースバイケースで最善を選ぶことができるようにするためであり、人と人、心と心の対話がそこには必ず存在する、つまり人々は皆、良心に従って生きるという前提のもとに決められているからです。そして、国民の個の利益を侵さない解釈と公共の秩序を乱さないための解釈は、必ずしも一致するとは言えないのです。
 確保法にある条文は、以下の通りです。

教育機会確保法 第十三条
 国及び地方公共団体は、不登校児童生徒が学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性に鑑み、個々の不登校児童生徒の休養の必要性を踏まえ、当該不登校児童生徒の状況に応じた学習活動が行われることとなるよう、当該不登校児童生徒及びその保護者(学校教育法第十六条に規定する保護者をいう。)に対する必要な情報の提供、助言その他の支援を行うために必要な措置を講ずるものとする。

「休養の必要性を踏まえ…」と続いています。
また多様な学習のありかたには「重要性に鑑み…」とあります。
 必要性を考慮し、無理に「学校に来なさい」とは言いませんということ、
 重要性はあるとして、無下に否定するようなことはしませんということ、です。教育機会確保法は学校教育法の特例法であり、理念法ですから、この法律の文言は学校教育を担う学校長や先生、自治体に向けられています。

 具体的な対応策として学校にどのような指導が渡っているのかは、以下が参考になります。

不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)2016(平成28)年9月14日】(確保法成立前に出された実質的な現場のガイドライン)
基本指針 (平成29年3月31日)】
不登校児童生徒による学校以外の場での学習等に対する支援の充実について(通知)2017(平成29)年3月28日】


【追記 2020年6月】
『不登校児童生徒への支援の在り方について (通知)』 令和元年10月25日に出された新通知(【1】)に伴い、2016年度通知内容は廃止となり、その他複数の通知内容に変更がありました。下記マガジン(【1】~【4】)でまとめています。
(別記1)義務教育段階の不登校児童生徒が学校外の公的機関や民間施設において相談・指導を受けている場合の指導要録上の出欠の取扱いについて
(別記2)不登校児童生徒が自宅においてICT等を活用した学習活動を行った場合の指導要録上の出欠の取扱いについてー【2】

『民間施設についてのガイドライン(試案)』
『教育支援センター整備指針(試案)』ー【3】
 
児童生徒理解・支援シートの作成と活用についてー【4】

                        -追記ここまで


 また、いじめられている子供の緊急避難としての欠席が弾力的に認められてもよく、そのような場合には、その後の学習に支障がないように配慮するよう、文部科学省は都道府県教育委員会等に求めています。(参考:フリースクール・不登校に対する取り組み

 学校に行かないことは問題行動ではないし、誰にでも起こりうることとして、児童生徒とその保護者の意思を尊重するように、改めて示されています。何度もいいますが、これまでそうであったものを「改めて」法律として示されたものであり、法律になって「初めて」そうなったものでもありません。あまりにも認識されていないため、法律という大きなもので注目を集めることに成功したのです。
 
 法案を懸念する人々は「やすんでもよい」の解釈を広めるフリースクール運営サイドに違和感と同時に不安を覚えました。「やすんでもよいと学校が言っている。やすんでも大丈夫!」と各家庭が解釈するのではないかという点です。
「やすんでもよい。でも、学校復帰する努力は本人次第ですよ」といっているに過ぎないところを、
「やすんでもよい。やすんでも学校復帰になんら問題はない」と拡大解釈するのでは、と。
 
 「やすむ」という決断は、学校に認められずとも、基本的な人の権利だと誰もが思うようでもないようです。休むことすら、誰かの許可と容認がないとできないと思っているという事実があることは、少なからず衝撃を受けます。
 「こどもを休ませたい」。こどもの身を案じて発する保護者の声ですが、進路という児童生徒の指導を特に任されていると考えている教師にとってそれは、後先を考えていない短絡的な思いつきのように聞こえます。保護者に対して、先生方はこう助言します。「やすむのは必要ですよね。でもね、おかあさん。休んだら、その分をとり返すのはもっと大変なんですよ。今、がんばらせることが、将来、こどものためになるんですよ」と。こどもにも保護者にも、そう動機づけされることが過去現在に渡り、当然のようにあったわけで、その経験のある方々が、その記憶を掘り起こされることで、学校が責任を放棄する免罪符になってはいけません。
 また、「やすんでもよい、と法律で保障されている」という解釈が浸透することで混乱も起きています。
・登校刺激をしない配慮
・学校でまなべるような環境作り
 これらが入り混じって、学校側の環境を整えるための声掛けが、登校刺激と受け止められてしまうような、非常に視野が狭くなっている一面が見られます。文書を用いることにより、対話が無くなっているように思えてなりません。

 「学校の教員こそが「学校に来なくてもいい」と言ってしまうことに恥を覚えないのか」と、そう考えるに至るのは当然です。哀しく感じるのです。無念に思うのです。「誰もが行きたくなる学校にしてくださいよ」と。そうでなければ、なぜ我が子だけが平凡にしあわせに学校生活を送るということができなかったのか。学校に行きたくても行けなくなってしまった我が子の苦しみに対して「学校に来なくてもいいよ」とまるでこどもの罪を許しているかのような裁判官のセリフを投げるのではなく、「行きたくなるような、行けるような、学校にできなくてごめん」と、せめて、こどもに謝ってくれないかと、そう感じるのです。新法になかにある「こどもが安心して過ごせる学校作り」はそんな気持ちを汲んでもらえたのでしょうか。もっとも学校教育のなかにどっぷりと浸かって育ってきた親世代の中には、「先生が許してくれた」ことに感謝するようですが、それも時代の変化だと感じずにはいられませんから、その檻の中にいる狭さを思うと何とも言えない気持ちです。


【教育基本法からの社会の変化~新自由主義~】

 私は政治には詳しくありません。ですが、2017年あたりからさまざまな法律案が出され、成立していることに目が止まります。少し聞き覚えのあることだけでも、「共謀罪」「家庭教育支援法案」「青少年健全育成基本法案」そして「憲法改正案」です。
いずれも国家の介入、経済活動の規制緩和と同時に個人の自由の規制という同じ匂いが漂ってきています。これらはすべて、教育基本法改正からつながっています(が、実際にはそれ以前から存在していたものには違いありません)。

 教育基本法の改正は2006年。「改悪」と評されました。
その一つが第十条(家庭教育)の項目です。当ホームページでも紹介していますが、この条文はホームスクール家庭にとっては有益な文で、教育の第一義的責任を家庭に戻す意味がありました。
 ここから『入門の法律 図解で解る憲法』(伊藤塾塾長 伊藤真(監修)・伊藤塾講師 高野泰衡(著)2008年 日本実業出版社 図書分類323 憲法(320 法律))を引用します。

【50】国家はどの程度、教育内容を決定できるのか?
《教育を受ける権利の保障》
 教育は、個人の人格を形成して、社会でよりよく生きていくために不可欠なものです。また、社会の一員としての資質を培うためにも重要です。
 もっとも、教育は本来、親がその理念や信条に基づいて子になすものであり、きわめて私的なものです。しかし、それも経済的基盤があってはじめて実現できます。裕福な家庭の子であれば私塾に通わせてもらったり、家庭教師をつけるなどして十分な教育を受けることができますが、貧しい家庭の子はそういうわけにはいきません。
 そこで、経済的に恵まれていない子でも教育が受けられるように、国家に対して教育環境を整備することを要求する権利として教育を受ける権利が保障され(26条1項)、義務教育の無償が定められました(同条2項)。これは、社会権の教育面でのあらわれです。

《教育内容決定権の所在》
 では、国家は教育内容の決定に関与していくことができるのでしょうか?教育内容決定権が国家、親、教師のいずれに帰属するのかが問題となります。 憲法26条が、子どもたちに教育を受ける権利を保障して国家への教育条件の整備を要求できるとしたのは、その前提として、子どもたちには自由に学び、習い、人間的に発達・成長していく学習権があるからにほかなりません。この学習を充足するために、教育を受ける権利が保障されているのです。とすれば、教育内容決定権も、この学習権を中核として検討していくべきです。
 そうしてみると子どもが自由に学習していくためには、子どもの教育に直接関与する教師が、まず自由でなくてはなりません。不自由な教師の教育では、子どもたちが自由に学ぶことはできません。したがって、教師の教育の自由を保障し、現場の教師に裁量を認めるべきです。
 もっとも、児童・生徒には教育内容を批判する能力が備わっていません。また、学校・教師を選択する余地も十分ではありません。さらに、全国的に一定の教育水準を確保すべき要請も無視できません。
 よって、教師の教育もまったくの自由ではなく、国家も必要かつ相当と認められる範囲においては、教育内容を決定する権能を有することを認めるべきです。ただ、誤った知識や特定の価値観・歴史観を強制するなど、子どもの自由かつ独立の人格としての成長を妨げるような介入は許されません。

 公教育の性質と、教育の自由が憲法において明らかにされています。
 第十条は、国が家庭の教育に介入する付箋ではないか、という懸念が抱かれたのでした。これについては、下記のリンクをぜひご覧になってほしいと思います。

平成18年教育基本法改正
教育基本法と憲法~公明党・山下栄一議員の見解 [だから,今日より明日(教育)]弁護士村上英樹のブログ
:山下議員の「せめてもの歯止めを!」が、この第十条なのです。

なぜ、第10条ができたのか。

この条文は、家庭にまで法律の網をかぶせようとした、と反対派には理解されていました。しかし、この『仕掛け』を使えば、逆に、家庭教育の自主性を護ろうとした、と読むことができるのです。ー古山ブログより抜粋



 確保法も、またその他のいずれの法案もそうだと思いますが、解釈によって「一見、良いように思える」ものが、実際に運用する者の意図によっては真逆に実行されることがあるのです。

 教育基本法改正は、第一次安倍内閣によって実現しました。このことを踏まえ、すでに確保法は議員立法チームが成立させたという意味を越えて、新自由主義を走る現内閣の意向にそぐった方向性の流れのなかに組み込まれたものになりました。法律で明文される内容は、それより以前に条例として各地のどこかで実施されています。少数の実施例がすなわち実績となり根拠となりうるのです。教育機会確保法はどうでしょうか。3年以内に見直しされますが、それまでに「実施」と言えるほどの周知と理解と活用がなされているのでしょうか。わたしも多くの声を聴きたいとは思いますが…。


【確保法の活用方法を考える】

 とにもかくにも法案は成立しました。
 大切なのは、この解釈のありかたを、学校側から決定づけられる前に、家庭が、しっかりとこどもの最善方策となる方法で活用できるように解釈することが最優先と考えられます。そのために、この法律の周知と理解は一刻も早くと望まれました。つまり学校側の解釈と、家庭にとって望ましい解釈は必ずしも一致しないのだと自覚することです。一方の解釈だけに偏っていては全体像を把握できず、「そんなはずはない」とうろたえてしまうでしょう。都合の良いところだけを抜き取るのではなく、全体を把握して、活用できるものは活用し、学校側の提案を読み取り、家庭からも提案して、合意形成をしていくのです。
 いたって事はシンプルでもあります。
 家庭の役割、学校の役割、その線引きをしっかり互いに共通認識し、協同していくことです。「関わらない」ということも協同のひとつの在り方です。
 もっとも大切なことは、こどもを置いてけぼりにしないことです。それは、なんでもこどもに意見をうかがうというものではありません。こどもが置かれた状況を冷静に把握し、おとなができる手助けを、知恵をしぼって考えていきましょうということになります。最大限にこどもの意思が尊重されることはいうまでもありません。
 
 法律をどのように活用する腹づもりでどのように解釈するのかを学校に問うまでもなく、まず家庭のほうから先制することが重要なのです。家庭のほうから、どのように活用するのかを提案し、「協力して、こどもを守っていきましょう」と家庭が主導権を持った態勢を宣言をすることが最も重要になってくるのです。
 学校と対等に話し合う自信を持てるだけの知識、情報収集、方法。それらが求められます。あるいはそれらが、わかりやすく活用しやすい資料の提示が求められます。そういったことは、やはり大きな団体の得意とすることではあるかもしれません。
 
 多くの家庭が、興味を持ち、法律が成立するやいなや、すぐさまtwitterで拡散したらいいのに、なんて思ってましたが実際にはそうはなりませんでした。それどころか法案を推し進めようと活動していた大人たちの周辺にいる当事者であるはずのこどもたちも知らされていなかったというのです。
 誰もが「それ相応の人々がすること」と思って遠慮したのかもしれません。「世間に認められればできることだ」「認めさせるのは偉い上の人たちだ」「わたしたちにはなんの力もない」と考えたのかもしれません。ましてや、不登校にひけめを感じているのならなおさら「どうしたらいいですか…?」と学校にお伺いを立てる人は少なくありません。
 
 どちらに転ぶかわからない賭けでしかない法律です。
法律の成立から3年後の見直しまで、あと2年のなりゆきは楽観視していいとはいえません。
 いえ、それどころか「家庭教育法案」や「青少年健全育成基本法案」等々の流れからして、果たして、できることはあるのか、変えられるのかとあまりにわからないことが多すぎます。こどもたちには、どのように説明したらよいのか、どのように一緒に考えていけばよいのかと常にそれを念頭に置いて《あらゆる政策が各家庭にどのような影響を及ぼしていくのか》を各家庭が情報を得なければいけないのです。
 
 教育機会確保法は、その混乱から、多くの親と子に犠牲を強いるものであることは明らかでした。それほどに大きく、重要な、社会をかえるほどのことだからこその挑戦なのだと、信じるしかなかったかもしれません。

【これからの公教育】

 日本の学校教育は、本当に世界的に見ても非常に優秀です。それなのに自信が無く、どこがどうしてそうなっているのか非常にもったいないことをしていると思います。
 自信を取り戻し、本来の良さを発揮できるような、そんななにかを払拭するようなインパクトが起こればいいなと願っています。

 誰にとっても
 いや、すべてのこどもにとって
 安心して、生きていくだけの助けになる。
公教育はそういうものでなければならないはずです。
 
 家庭と学校と地域が、自律と自治を守って協力することが、ひとつの希望かもしれません。
 
 
 地域を巻き込んで「学校観」を表面化し、可視化し、本来のまなびの在り方に昇華しようとする多くのひとの活動には頭が下がる思いです。私には、とても真似できそうにありません。
 応援しています。祈っています。恥ずかしながら無力宣言でしかないけれど。
見守っています。
 

【フリースクールは公教育に組み込まれるのか】

もう一度、『入門の法律 図解で解る憲法』から引用します。

【31】法の下の平等の意味
《「形式的平等」か「実質的平等」か》
 「平等」については、絶対的平等か相対的平等かという問題とは別に、形式的平等か実質的平等かという問題もあります。
 まず自由主義も下では、個人がその有する権利を行使する機会について差別的な扱いを受けることは認められません。このような機会の均等を形式的平等といい、憲法14条がこれを保障していることにはあらそい(※)がありません。(※裁判での争点の意)
 しかし、権利行使の結果、各人に格差が生じた場合、その格差を是正して結果の均等を要求する実質的平等まで14条が保障しているか、という点については争いがあり、そこまで認めているわけでは無いというのが通説的見解です。格差の是正を国家に求めるということは、公権力の介入を否定する「自由」の観念とは本来的には相容れないからです。
 もっとも、憲法は福祉国家理念の下、社会権を保障し(25条以下)、経済的不平等の是正を要求しています。そこで、14条も25条との関係で、その範囲での格差の是正は許容しているものと考えられています。

 これを踏まえ、フリースクールがどのように位置づけされることができれば、自由と保障を獲得できるのかは、これからの展開を見守りたいと思います。

 一家庭の親であるにすぎない私は、法案の成立や意見を述べるなどの機会に関わる立場にはいませんし、反対も賛成もありません。ただひたすら、オルタナティブ法案が浮上したころから追いかけてきたのは、私たちのホームスクール暮らしが、自分が知らなかったことで、知らないうちに脅かされる事態に追い詰められないようにと見定めていきたいからです。いつでも大人の都合で振り回されるのは、こどもたちです。
 私は、あらゆる側面から読むことができる情報を探し、集め、読み解き、ただ「そう見える」だけの立場にしかいません。
 こどもに関わる方々には、それぞれの立場からもさまざまな想いがあるでしょうが、ただひとつ。
 こどもたちが健やかに過ごせますように
その願いだけは、どなたも同じ気持ちだと思っています。


2018/01/11投稿 最終更新:2018/09/10
ホームスクーリング・センターkokage 解説コラム
まなびあい>教育制度の法整備
https://homeschool905.wixsite.com/kokage/public

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