隠蔽と恥/ネイルと化粧とフェミニズム

ネイルをする人は、大概は「はげてたり根元が伸びてると恥ずかしい」と感じるだろう。
また何も塗ってないときも、「爪がすっぴんで恥ずかしい」と思うだろう。
一般化した書き方をしたが、すべてわたしが経験した感情だ。

前者はまだわかる。問題は後者だ。生まれたときからずっと爪は裸だったのに、どうしてそれを恥ずかしいと感じるようになるのだろう?
わたしは、別に奇矯な形の爪を持っているわけではない。正直に言えば、自分よりきれいな爪や指の持ち主に出会うことは、あまりない。
自爪でも、特に見苦しいことはないのに、なぜそれを恥じるようになったのか。


わたしは割合に「恥ずかしい」という感情を抱きがちだ。それはより丁寧にいうと、自分の思いを「恥ずかしい」という言葉で説明しがちだということに他ならない。
ではわたしは、どのような気持ちを「恥ずかしい」気持ちと呼んでいるのだろう。薄々予測はつくが、列挙してみる。

・自分の醜さに耐えられない時の気持ち
・人前で失敗したときの気持ち
・良心に悖ることをしたときの気持ち
・やるべきことを十分にできていないときの気持ち

並べてみるとやはり「後ろ暗さ」、人には見せたくない行為が恥ずかしさにまとわりついていることを確認できる。まず、自分にかかわる何かがある。それをわたしが恥じ、人に見られたくない、と思う。そして、それを隠す。この一連の認識と行為にともなって、恥ずかしい、という感情が沸き上がるらしい。


自爪が恥ずかしくなるのは、きっとこの認識・行為・感情のながれが逆流しているのだ。
ネイルの場合、爪に塗料を塗る、という行為がまずある。これは本来飾りであって、隠蔽ではない。爪を隠そうとして隠したのではなく、その上に飾りを載せたから結果的に爪が隠れたのだ。しかしそれに慣れると、隠れていない状態の爪を見せる習慣がなくなり、隠れていない状態の爪を見られることに慣れなくなる。「自爪を見せたくない」と「綺麗にした爪を見せたい」は本来まったく違うことだったはずなのに、接近してきてしまう。かくして「隠れていた爪」が、「隠されていた爪」「隠すべき爪」にすり変わり、恥ずかしさが生まれてゆく。認識から行為が導かれるのではなく、行為から遡って認識が生まれる。そんな、顚倒した流れがあるのではないのだろうか。

こう考える時、わたしははじめて、化粧の強制の何が問題なのか理解できる気がする。生まれ持った顔、すっぴんを恥ずかしいと思ってしまう、そんな認識、そんな感情が、化粧を日常化することによって生まれてしまうからではないだろうか。


断っておくが、わたしは完全に親フェミニスト的人間だが、しかしフェミニストではない。ジェンダー論の基礎は学んで育ったが、セジウィックの主著を部分的に翻訳で読んだ以外、主体的な勉強はろくにしていないのだ。自分がフェミニズムのことをわかっていない、フェミニストは名乗れない、とわかる程度の知識はある。

また、わたしはトーンポリッシングには反発するが、現在のネット空間内をただよう「フェミニスト」たちの反知性主義と「共感」の重視には懐疑的である。とりわけ今ツイッターで可視化されているような、シス女性によるトランスジェンダー差別とそれに伴う「学者」排斥の動きに強い怒りを抱いている。そういう意味でも、現在「フェミニスト」ということになっている人々の、すべてとは連帯できない。

大まかにくくれば、わたしはそういう種類の人間なのだが、化粧というのはフェミニズムと自分のあいだの、きしむ接点の一つだった。それが、ネイルのことを考えていて、少し変わったのだ。わたしがこの文章で書くことなど、とっくにもう指摘されているだろうとしか思えないのだが、わたしは自分の愚をさらしてでもこの発見―わたしと化粧のあたらしい関係―を大切にしたいので、書いておく。


わたしはもともと自分の身体への不満を強く持っていた。(それはセクシャリティに根ざすものではない。体のせいで痛かったり苦しかったりすることが多かったためである)

自分の体を枷のように感じていたから、肉体改造願望が強い。タトゥーもピアスも、人百倍怖がりであり、自分の体のことをいつもいつも気にしていたからかえってできなかっただけだ。本当はフレジャ・ベハのような全身タトゥー女になりたかった。

だから、痛くないのに魔改造できる化粧は救いだった。もしヘテロシス男性に生まれて、メイクが文化的に許容されにくい境遇にいたとしたら、どんなにか辛い思いをしただろうかと思う。

ルッキズムや年齢差別に対する批判には同意するし、毎日化粧をするのが面倒で息苦しく理不尽に感じる思いも、たしかに自分自身の実感としてある。自分の中にひそむルッキズム、差別感情に反省すべき点が多々あることも自覚はしている。しかしそれにしても化粧の問題点を見つめきれなかったのは、上記のような理由によっていた。


しかし、ネイルが恥を生んでゆく過程を考えるにつけ、初めて化粧の恐ろしさにふれられた気がする。
もしネイルの場合と同じことがいえるとすると、人は、化粧により顔を飾り、素の顔を隠れた状態にする。これが習慣化するうちに、人は素肌、素の顔を「隠れたもの」ではなく「隠されたもの」、ひいては「隠すべきもの」「恥ずかしいもの」として認識してしまうようになるのではないだろうか。
なるほどこれは著しい自己疎外だ。忌むべきものだ。それが制度的・慣習的に強いられているのだから実にむごい。


さてそうだったとして問題は、上述の通り、わたしが化粧に救われていることである。トランス女性の中にも、きっと化粧に力をもらっている人がいるだろう。化粧は自己疎外にもエンパワメントにもなれる。これとどう付き合ってゆけばいいのか。

いま即答できる答えは1つしかない。けして化粧を習慣化しない。ルーティン化しない、これに尽きるのでないだろうか。化粧とは自分を隠すものではない、自分を飾るものだ、と忘れないようにすること。
今日のわたしは今日しかいない。化粧することで、わたしはわたしを「隠して」いるのではない。そのことをけして忘れないこと。


現時点では、ほんとうに、たったこれだけのことしか思いつかない。仮定の上に仮定を重ねた時点でおそまつな考察なのに、さらに結果がこれだ。化粧を習慣化させるような社会のあり方に対して、ただ内心のありようによって抗えという、こんな幼い態度があるだろうか?「シミを隠す」化粧品が売られているのが現実なのだから、こんな答えに、一般的な妥当性はない。むしろ有害ですらあるだろう。ただし少なくとも、今のわたしには有効だ。

わたしは、今無力だ。しかしこの文章と、その現状効果的なやり方の実践を起点として、考え続けることができる。今の時点での幼いゴールを、次はスタート地点として始められる。だから自分が成熟するときを待たないで、まずは公開してゆくのだ。そうすれば誰かの批正だって受けられるかもしれない。誤ったところ、改めるべき所があれば、そのつど直してゆけばよい。隠して恥じてはならない。そう考えて、今回も公開しておく。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?