第四回

39歳父の竹修行奮闘記 第四回「小刀一本で竹箸を作れ」

毎日使わない日はない、箸。今回は切り出し小刀を使って箸を作る。

ところで、何気なくマークとして漢字を認識していると見落としがちだが、「箸」は竹冠を頂く。竹がどれだけ身近なものかを考える上で、漢字は重要な示唆を与えてくれる。大漢和辞典所収の50,305字のうち、竹(たけ・たけかんむり)の漢字は1,025字(!)、なんと部首別ランキングの8位につけている。しかも人(ひと・にんべん・ひとやね)と言(いう・ごんべん)の1,008字を上回っている(ちなみに1位は草かんむりの2,173字、植物の名前が多いせいだわな)。

言われてみれば、「笑」も「答」も「笛」も「算」も「箱」も、全て竹じゃないか。私が竹こそが「答」えだと思ってはるばる別府に来て、にやにやと「笑」いながら訓練に勤しむのも、案外故無きことではないのかもしれない。たとえ身近すぎて見落としがちであっても、日々目にする漢字を媒体として、我々は過去と、つまり数え切れない死者とつながっているのかもしれない。

たかが小刀、されど小刀

竹細工で使う小刀は、鉛筆を削るときに使ったりする一般的なものと基本は一緒だ。

身近だからと侮ってはいけない。身近なものほど圧倒的な技量の違いが出る。私はリコーダーが好きで(おお今度は「笛」だ)暇さえあればぴょろぴょろと吹いているが、かつてミカラ・ペトリという世界的なリコーダー奏者が来日した際に演奏を聞きにいったことがある。トランペットやフルートと違い誰でも吹けば音が出るリコーダーだからこそ、世界的な奏者の演奏は素人目にもわかりやすく圧巻だった。彼女は「悪魔のトリル」というヴァイオリン向けに作曲された曲をなんとリコーダーで演奏したり、笛を吹きながら声を出してひとりで二重奏をしたり、演奏が終わっても放心状態でしばらく動けなかったのを思い出す。

いざ削らん。先生が模範を示してくれる。こうやって持って、こんな感じの姿勢で、こんな具合に力を入れて、こんな風に削るんですよ。ははーん、なんだ簡単そうじゃないか。いざ削ってみる。全然うまく削れない。悲しいほどに力ばかりが入り、削れて行くのは心ばかり。いやいやいやいや、これはね、私の小刀が、先生、私の小刀が、嗚呼すがすがしいほどに削れていきますね、ごめんなさい。

竹細工で最も大事なひご作りでは、実は小刀は使わない。ではなぜ小刀から入るかというと、まずは前回にも紹介した「研ぎ」という仕事の重要性を体感するため。また小刀は自分の方には刃を向けず比較的安全なので(次回紹介する竹割りは自分の方に刃を向けるのだ)刃物の使用に慣れるため。そして、竹かご作りの編み組みの最後に「フチ」という部分の加工がある(らしい)が、そこで小刀の技能が死活的に重要となること、など色々ある。

そんなこんなで悪戦苦闘を繰り返し、身体中を筋肉痛にしながらできあがった竹箸。

子供にプレゼントしようと短めのものを作ったが使い勝手やいかに。まさに字義通り「荒削り」もいいところだが、自分の手で拵えたものには無条件に愛着が湧く。そんな愛着に満ちた道具に囲まれて日々の生活を営むことに憧れる。愛着が甘えにつながって成長や進歩を妨げるのは違うとは思いつつ、愛着が日々物を作る原動力になっていくのだと思う。それが誰のものであれ、愛着に囲まれて暮らしたい。

そもそもないはずの「自信」を失うこと

全くやったことのない作業は、そもそもゼロからのスタートである以上、失うような「自信」などハナからないはずなのに、年齢をかさねると特にかもしれないが、構造的に存在しないはずの「自信」を失うという状況がしばしば出来する。それはきっと、「自信」は技能や経験ごとに細分化されているものなんかではなくて、自分の存在や人生と大雑把に結びついていて、そういう意味では、「尊厳」とか「誇り」に近いものなのかもしれない。

だがこの、元々ないはずの「自信」を失うという、ある意味タフな経験をこそ、私はおそらく渇望していた。昨年6月にFeile Tokyoというアイリッシュ音楽のコンペに出場したのも、純粋に「自信」を失うためだった(そしてその目的は見事に達成された)。それは自己否定でも自傷行為でもなく、根拠無く肥え太っていく(ように私には思える)「自信」を自ら砕くことによってしか、何かを始めたり、何かを続けたりという原動力が得られない、私の性分であり、一種の処世術なのだと思う。

だからといって「自信」の喪失を嬉々として甘受できるかというと、そんなことは全くなくて、正直、毎回逃げたい。できれば楽に生きたい。でも悔しい。悔しくなれれば望みがある。といった感じで3歩進んで2.8歩くらい戻るを繰り返しながら、日々小石を積んでいる。

さあ次回からはいよいよ「ひご取り」が始まる。「ひご取り三年」とか「ひご取り千日」と言われるほど大変な仕事らしい。また「自信」は無残に粉々に砕かれ、逃げたいと悶絶しながらも、悔しさをよすがにへらへらにやにや這い上がるのだろう。それを求めて別府まで来たのだから仕方が無い。

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