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毎月神社にお参りに行く話

えー、さて、継続は力なり、と申しますが。

それは主に、どんなに小さな努力でもコツコツと積み重ねていけば、塵も積もって結果につながるという表向きな結果や効果に対してのニュアンスが強いように捉えております。

勉強とかレッスンとか、それこそ、こうしてノートを書き続けることとか、そういう、目に見える結果や効果に対して及ぼされる何かしらの「力」とでも言いましょうか。

しかしながら、継続することで生じるポジティブな影響というのは、そうした、目に見える結果だけではないのではないか、と思うこともしばしばあるのではないでしょうか?

今日これから書くお話は、まさに、「継続」したことにより、前向きな感情や自己肯定感が自分の中に湧き出でてきたましたぜ旦那!という、なんのことはない、徒然のお話でございます。

まずはじめに、「継続は力なり」とは、自分勝手な解釈では先に述べたようなものでございますが、一般的にはどんな意味合いなんでしょ?

手っ取り早くGoogle先生に「継続は力なり」と問いかけてみれば、実用日本語表現辞典というページが一番上にヒットし、知りたいことをささ~っと教えてくれました。実に便利な時代になったもんでございます。

曰く、続けることの重要性、弛まず挫けずに続けていくことの大切さを端的に述べた表現。格言。いくつかの意味合いに解釈できる。とのこと。

いくつかの意味合い、というのはその下に3つほど例が挙げられていました。まずは、先に述べた「コツコツからの達成」、そして「実力不足でも挫けず積み上げれば大成できる」、最後が「成し遂げるまで諦めず続けること自体が優れた才能だ」というものでした。

この中から選ぶならば、三番目の「諦めずに続ける才能」を、自覚することによって、「やりゃあ意外とできるんよねえ、これが!」と、自分に自信を持つことができた、ということなんでしょうなぁ。

以前にもお話申し上げたように、2年前のこの時期、わたしは隔離病棟の一室でひたすら時間を不意に過ごしておりました。唐突に理不尽に奪われた約一か月という時間は、兎にも角にも、勿体なくて不甲斐なくて、なんとも後味の悪い体験としてこの記憶に深~く刻み込まれてございます。

その間に、無意識のうちにぽっかりと開いた心の穴は、なかなかどうして、埋めることができずにその年の締めくくりを迎えんとしておりました。
2020年師走の晦日くんだりのことでございます。

あらたしきとしのはじめの初春に、何かしらのチャレンジを自分に課してみてはどうか、と、そんな想いがむくむくと膨らんでいくのを、その時はまだ、どこか他人事のような感じでおったのです。

ところが、一旦思い出すと止まらず、次々にアイディアが浮かぶもんでございまして、どうせならば、あんな風に無駄にする月が生じないよう、毎月何かを成すという事にしてはどうか。生来のおたく気質を生かせるような試みにしてみてはどうか。などという具合に、構想は青天井。言うだけはタダ、考えるだけもタダってなもんで、そうして考えめぐらすことのなんと楽しいことか。

そんな折、ふと部屋の中で目についたものがございました。
まだ、疫病が跋扈する以前、お伊勢さんを訪れた時に物は試しと手を出した御朱印帳でございます。以降、殆ど日の目を見ることなく、本棚にしまいッきりだったそれを見て、いよいよ思い付いたのが、御月参りだったのでございます。

元より寺社仏閣巡りは好きな性分で、奈良京都箱根には行けば必ずご挨拶に伺うお寺さんや神社さんも多くあります。

なにより、平々凡々悠々自適適当万歳で生きておりますが、父方の血筋を少し遡れば、ご先祖は地元の氏神様のこの身だからでしょうか、神道はとても心近い存在で、祈りの対象というよりも、どこか、傍で見守ってくださる親のような存在と認識しております。

そんな心持もあってか、いつどのお社にご挨拶に伺っても、どこかほっとするといいますか、心安く自然とありのままの自分に戻してもらえる、といいますか、背筋が伸びる良~い心持に引き戻してもらえる、そんな気がいたします。

それならば、と、方針はほぼ決定。

あとは毎月の行先を如何にして探していこうかいな、というところで、一度、深呼吸をいたしました。こうして楽しい計画を練る際、どうも猪突猛進で頭でっかちな目標を立ててしまいがちなのが、わたしの悪癖なんでございます。

目標は高く。それは消して悪いことじゃあござんせん。しかしながら、今回の目標は1年を通して達成できること、また、実現可能な目標を立てることに最大の意味がある。あまりに高い理想を掲げ、志半ばで折れてしまっては、不意に過ごしたあのひと月と何ら変わらぬ心持に逆戻りしかねない。
そんなに頑張らなくても実現可能な目標であることが、その時の自分には、何よりも必要だったというわけです。

幸い、都内在住で遠出せずとも色々な場所へご挨拶に行くことができる。
では近場からテリトリーを広げていこうか。地元駅沿線を開拓していくのはどうか。当初は毎月「初めまして」の神様へのご挨拶をと考えておりましたが、Googleマップを東へ西へと彷徨っている内に、とある神社さんに行きつきまして、そちらへ毎月ご挨拶に伺おうと心に決め、今日に至ると相成ったわけなのでございます。

主な理由は次の通り。

何よりもまず交通の便が良いということ。電車一本で行き来できる気安さが最高でした。少々長い時間を要しますが、そのまとまった時間に、なかなかまとまった時間が取れず増えていくばかりの積読を消化するのにうってつけの時間と考えました。

そして御祭神が平安歌人であるということも、個人的性癖にぐっさり刺さったのでありました。

極めつけは月替わりの御朱印でございます。これにおたくごころを擽られ、ぜひとも12か月分をコンプリートしたいという心持がモチベーションに直結したといっても過言ではないかもしれません。

まあなんやかんや申しましたが、2021年は1月からひと月も欠かさずに12月まで、毎月ご挨拶に伺うことが叶い、一年を通して"継続した"という事実が、自分にとって何よりも嬉しく誇らしく思えたのでした。と、同時に、ああ、あんな風に不意な日々を過ごしてしまった自分にも、こうして何かを成し遂げることができるのだ、という自信と自己肯定を取り戻すきっかけになったことは明らかで、この心持が今後の自分にとって、大きな出来事になるのだと思っている次第です。

そしてまた新たな年を迎え、2022年。
今度は何を成し遂げようかと、思い巡らすは2021年師走の晦日。

調べてみると、月替わりの御朱印をご用意くださる寺社仏閣は多いもんで、新規開拓、新たな出会いを求めるも良し!と一度は考えもいたしましたが、あの場所に伺うことが心に平安を取り戻す術のひとつとなっていることに、気付かぬほどの腑抜けではござんせん。

すでに年始、本厄のご祈祷からはじまり、また一年、こちらにお世話になろうと心に決めたんでございます。

きれいごとを幾つか並べてはみましたが、とどのつまり、運が良ければ出迎えもてなしてくれる、個性豊かな御猫様達にすっかり骨抜きになったが故、というのは、ここだけの話にしといておくんなまし。

ひとの心はにゃーんとも簡単に虜にされちまうもんなんですにゃ~。

まァ、何事も疑ってかかって頭でっかち、つまんねえ想いで生きるよりは、コロッと誑し込まれてへらへら生きてるくらいの鈍感頭の方が、幸せなのかもしれません。

にゃんてところで、今日のお話は一巻の終わり。
ご清聴ありがとうございましたッ!

にゃんにゃん。

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