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「想い出」の取扱方法

実家を建て直すことになり、ここのところ毎週末実家の自分の部屋を片付けております。そうすると懐かしいものが出てくるわ出てくるわ…

私の家はいわゆる転勤族だったため、私が高校生になるまでは3~4年に1回は引越をしていました。

そうすると折々でモノの整理が出来ていそうですが、父が転勤の辞令を受けたら1、2週間程度で新任地に行かなければならなかったので、ただあるものを段ボールに詰め込むだけ。中には次の場所で全く開封されない段ボールもありましたが、次の転勤の時はその中身を確かめることもなくまた次の場所へ…どんどん段ボールが増えていく。

そして今から33年前、私が高校に入学するタイミングで今の実家を中古で購入。ただ、私が住んだのは高校時代の3年間と大学を卒業後に帰郷し結婚するまでの6年間、計9年間だけ。その間、新たにモノは増えたものの過去のモノを処分するということはしませんでした。ずーっと住んでいる親達も大がかりな不要物の処分をしたことがなかったので、両親が結婚した当初からの荷物、49年分のガラクタが山積みになっていたことになります(爆)

高校卒業に金融機関に就職した親父がその会社を定年退職後も切れることなく仕事を続けていたのですが、昨年「常勤」という形での勤務を終えて家にいることが多くなったので、そろそろいつ訪れるか分からない自分達がいなくなった時の事を考えて俗にいう「終活」を始めたことが最終的に家の建て直しまで辿り着いてしまったという(笑)

私も結婚を機に別に家を借り実家を出たのですが、荷物を運んで引越をして転居したわけではなく、新しく用意した家電、家具以外は新婚旅行に行った時のスーツケースの中身だけでしばらく生活をしていて、必要だと思ったものをその度実家に取りに行っていました。なので実家の自分の部屋はそのまま…そのままというより、今の住まいに来てもうじき20年になりますので、そこで不要になったものを実家の自分の部屋に持ち込んで物置代わりに使っておりましたので実家を出た当時より部屋にモノが増えています(笑)

なので私の48年分のガラクタに乗り移った「想い出」もそこに残っているのでありました。

さすがに48年分のガラクタは膨大なものですが、ここまで生きてくると今後の人生において必要か否かということは瞬時に分かります。ただ、「必要=残しておく」という理屈は成り立つのですが「不必要=棄てる」に必ずしもならないのが片付けの難しいところ。

例えば小~中学時代の文集。ここ数十年読んだことはありませんし今後読むこともなかろうと(今回の片付けで手に取った時は久々に読みましたが)。

中学時代に熱中した鉄道写真。既に引退した車両も多数写っているので資料としては持っている意味もありそうですが、ネットで検索すれば山ほど出てくる写真ですし今は趣味のど真ん中に据える程の熱心な鉄道マニアではありません。今でもたまに鉄道写真を撮りますが中学生時代の写真は「アマチュア写真家の作品」として見た場合は稚拙で取っておく価値はゼロに近いかと。

校外学習や修学旅行、旅行やイベントで自分で買ってきたお土産や他の方からお土産で頂いたもの。特に社会人になってから私はやたらとタオルやTシャツをお土産で買ってくる傾向が一時期あって未使用のやつが山ほど出てきたのですが、現在タオルは日帰り温泉で売っている200円のやつが一番使い心地がいいことを知ってますし、Tシャツは自宅のタンスからあふれでていたので昨年常用しているもののみ残し処分したばかり。

本や雑誌。本が好きなので放っておくと溢れかえりますが、今の住まいでは定期的に読まなくなった本を買い取って貰いに行くので爆発的には増えません。ただ、実家を出るまでの28年間は1回も処分をしたことがないのですごい量になっていました。中学~社会人になって買った音楽、ギター雑誌もご丁寧にそのまま保管。古いものになると「発行昭和63年」なんてものも。

CDやレコード、レーザーディスク。元々音楽が好きだったので買い集めたものは多分300枚近く。その後一部は自宅に保管場所を移してありますが、20年間ずーっと実家の部屋の棚に置かれたままのCDも多数。レコード、レーザーディスクは既にプレーヤーが壊れてしまっているので無用の長物。音楽好きなのでオーディオ機器も多数山積みになっておりましたが、こちらはほとんどが壊れていたので悩むことなく市のリサイクルセンターへ持ち込み。

こうやって挙げ始めるとキリがないくらいですが、今回の片付けは意外と悩むことなく進みました。

ナゼか?

親父がポソッと

「俺もさぁ、皆棄てちゃうと自分の想い出っていうか生きてきた証がなくなっちゃうような気がして寂しかったんだけど、そんなもの残したってお前達が困るだろ?自分が満足するために後々の人たちを困らせたくないって思ったから今が棄て時だなって。」

高校時代の世界史の先生が

「よくね、『歴史は繰り返す』って人がいますけどあれって違うと思うんですよ。私はね『歴史は積み重なっている』だけだと思うんですよ。」

私はこの言葉にものすごく衝撃を受けて、「自分が体験した過去全てが今の私を形作っている」、「過去の経験のどれか一つが欠けていても今の自分はない」と思うようになったんです。

そんなこともあって、私は過去にあった失敗や嫌なことを今の自分の上手くいかないことに結びつけるのではなく、今の自分の良いことや楽しいことに結びつける…「あの時あの失敗がなかったら今のこの自分はないかもしれない」、「あの時、あの一言が言えなかった『お陰』で今のこの楽しい自分がいる」、「あの時、あの嫌な思いをしたから今の自分がこんな楽しい自分でいられる」と。

例えば、私は大学を4校受験しましたが実際に合格して入学したのは第4志望の大学でした。もし罷り間違って他の大学に合格していたらその大学には入っていませんでした。他の大学に通っていたら今の会社に勤めてないかもしれないし、そうすると妻と出会うこともなく、さらには子供達と出会うこともなかったわけです。今、この楽しい家族と過ごせているのは3つの大学に不合格になったお陰だと常に思っています。

逆に物事が上手くいかない時、ちょっと落ち込んでいる時は「今の自分」のせいにします。今困っている状況を打開できる、最善を尽くすことをできるのは「今の自分」だけだからです。「ならば今の自分には何ができるか?」「お前、今までこれだけ長いこと生きてきてるじゃないか…今の自分に何かできることがあるだろ?」…注力するのはこれだけ。

過去の想い出が、今ここにいる自分の血となり肉となり眼となり耳となり鼻となり舌となり触となり意となり思となり慮となり…と思うと、私自身の存在が「自分の想い出の集大成」言わば「自分記念館」…そう思えるようになったからこそ色んなものを棄てることができるようになった気がします。

よく「トラウマ」って言葉を聞きます。意味的には「心的外傷。心に深く残る衝撃や体験。」

ただ、実際にこの言葉を用いる時は、今の自分の中にプラス的要素とマイナス的要素があって、このマイナス的要素の原因が過去の体験にあるという場合が多いです。便宜上「プラス的」「マイナス的」という表現をしましたがこれは「プラス的=良いこと」「マイナス的=駄目なこと」という意味ではなく、「プラス的=自分自身で強みだと感じていること」「マイナス的=自分自身で弱みだと感じていること」。

例えば、小さい頃に親から暴言を吐かれその言葉に傷つき、それが今でも脳裏を離れない場合、それが「トラウマ」なんですが、それを機に思いやりの言葉を持って人と接しようと心掛けるようになった場合はあまり「トラウマ」という言葉は用いないですよね。その出来事のせいで「○○することが『できなくなった』」場合に「トラウマ」という言葉を用いることが多い気がします。

別にこの場で「トラウマ」の存在の有無について論じようというものではありませんが、「こういうことがあるとこうなる」というのは確率や割合の問題はあるにせよ100%「A=B」となるケースは極めて稀であるのではないかと思っています。

ただ、私は48年間生きてきてかつて一度も「自らの死」を選択肢とする岐路に立ったことはありません。それは「自らの死」を選択せねばならない局面に遭遇したことがないのか、今までの自分は「自らの死」という選択肢をどのような局面においても持ち合わせていないのか…確実なことは分かりませんが、多分後者であると思っております。

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