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広島で核兵器が使用されたという事実


 以前、紹介した東京から長崎まで日本横断往復の旅。詳しくは、こちらの記事をお読みください。

 この旅の目的の一つは、広島、長崎を訪れて日本で核兵器が使われたという事実を勉強すること。1945年8月6日(月)、広島に世界で初めて核兵器が使用されました。今回は、広島の平和祈念公園を訪れたときの話をします。
 2022年から続くウクライナ戦争により、核兵器の使用の可能性も否定できなくなっています。広島の平和記念公園、長崎の爆心地公園は一生に一度は訪れるべき場所だと思いました。

1945年8月6日(月)8:15

 広島市中区島病院付近の上空600mで原子爆弾リトルボーイという世界初の核兵器が投下されました。リトルボーイはウランを用いた原子爆弾。爆心地から1.4km以内の地上にいた方々はほとんど死亡、2kmの範囲内の建物は爆風によりほとんど全壊、3kmの範囲内では木造の建物が自然発火するほどのすざましい熱線、爆風が発生しました。さらに、原爆によって上昇気流が発生し、ススや泥などを含んだ黒い雨が爆心地から北西方向を中心に20kmの範囲で降りました。雨の中には、放射性物質が含まれており、浴びた方々は、長い間、急性放射能に苦しんだり、数年経って症状が現れた方もいらっしゃいました。治療など支援のために爆心地へやって来た方々も影響しました。
 熱、爆風、放射能により、年末までに約14万人が死亡しました。当時の広島市の人口は35万人、そのうち4割が命を落としました。

広島に原爆が落とされた理由

 広島に初めて核兵器を使用された理由は、大きく3つあります。
 一つは、原爆の破壊能力を調べるための場所として適していたからとされています。広島市は、北西東は山々に囲まれています。衝撃波の威力を調べる場所としては山々に囲まれた場所が向いているという判断をされました。さらに、広島市は空襲も受けておらず、街並みが保たれていたことも効果を図るために候補地に選ばれた理由です。
 2つ目は、広島は軍事都市であったこと。広島は江戸時代から中国地方の交通、経済の中心地として発展。1865年、広島城が陸軍の拠点の一つに選ばれ、国内の治安維持のために防御を重視していました。三の丸に兵士の居住地が置かれました。日清戦争以降、軍事強化を図り、広島市は陸軍の兵器、服、食料の製造拠点、南部の呉市は軍港として発展し、軍艦の製造拠点として発展しました。
 3つ目は、連合国軍の捕虜施設がなかったことです。

平和記念公園

 旧太田川と元安川に挟まれたデルタ地帯の北側を占めています。過去の過ちを繰り返さないこと、核兵器の廃絶、世界平和を訴え続けることを理念として1954年に開園しました。平和記念公園には、原爆ドーム、広島平和記念資料館、レストハウス、慰霊碑、原爆の子の像などによって構成されています。
 2023年5月に開催された広島サミットでは、アメリカ、EUなど首脳やウクライナのゼネンスキー大統領、2016年には、現職のアメリカ大統領地して初めてオバマ大統領が訪問しました。

平和祈念展示資料館

 広島原爆による被害をそのまま伝えています。黒焦げの弁当箱など遺品などの展示物は時が止まったままです。写真も残されており、核兵器による惨状を知ることができます。被爆された方々の言葉も残されています。原爆の絵、被爆直後の広島の様子、被爆された方々の証言などから核兵器の恐ろしさを学ぶべきだと感じました。

営業時間 8:30〜18:00(12月~2月は17:00、8月は19:00まで)
入館料  大学生以上200円、高校生100円
定休日  12月30日、31日
アクセス 広島電鉄2,6号線原爆ドーム前駅から徒歩10分

原爆ドーム

 爆心地から160mのところに1915年4月、建てられました。レンガ造りの建物の部分は3階建て、ドーム型の建物の部分は5階建てで構成されています。建設当時は、広島県物産陳列館(広島県産業奨励館)として広島県内の物産の展示、販売、美術博覧会を開いていました。アンテナショップのような役割を果たしていました。
 戦争末期には、内務省の土木事務所として使用されました。原子爆弾により、建物は大破し、中にいた人は全員即死。しかし、爆風が真上からきたため、風圧が均等にかかり、ドーム型の屋根の鉄骨や、建物のレンガの外壁は残りました。
 戦後、倒壊の恐れなどがあり、取り壊しも検討されましたが、世論により、保存されることになりました。募金を募りながら5回もの保存工事を経て78年経った今も残ります。原爆の惨状を後世に示し、二度と核兵器を使用されないように、負の遺産として1996年12月、世界文化遺産に登録されました 。

原爆の子の像

 三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像。佐々木禎子ササキサダコさんをモデルにしました。佐々木禎子さんは、2歳のときに爆心地から1.6km離れた自宅で被爆しました。爆風により屋外に飛ばされましたが、無傷で9年間、病気もなく過ごしました。しかし、避難中に黒い雨を浴びてしまったため、放射能を浴びることになりました。9年後、白血病にかかり、8ヶ月の病気との闘いの末に、亡くなりました。
 現在では、平和のシンボルとして折られている千羽鶴。きっかけは、名古屋からお見舞いで贈られた千羽鶴。「生きたい」という願いを込め、折り鶴を折り始めました。入院中に折った千羽鶴は1300羽以上と言われています。
 死後、同級生により、「原爆で亡くなった子どもたちのため、平和を築く像をつくろう」という運動が始まり、全国からの募金によって平和記念公園内に「原爆の子の像」が1958年、完成しました。世界中に佐々木偵子さんの話が広がり、現在も、世界各地から千羽鶴が1年で1000万羽集まります。

レストハウス

 爆心地から170m離れた場所にあります。当時は燃料会館として使われていました。原爆投下によって地下室を除いて全焼しました。しかし、鉄筋コンクリート造だったため、一部の損失だけで倒壊を免れました。生存者が見つかった爆心地から最も近い場所として知られています。
 当時、地下室にいた野村英三さんは、最も爆心地から近い生存者として知られています。たまたま地下室で資料を取りに行っていたときに、原爆が投下され、熱線、爆風を回避できたため、即死を免れました。しかし、避難中に急性放射線症にかかりました。それでも一命を取り留め、82歳まで生きました。野村さんは、核兵器の使用に危機を感じ、手記を通じて原爆の体験を語っています。

 広島市生まれの漫画家、中沢啓治さんが描いたはだしのゲンを読むと、原爆とはどのようなものだったかわかります。原爆による被爆体験をもとに描かれています。

 今回は、世界で初めて核兵器が使用された広島について、記事にしました。8月9日、長崎編を投稿します。長崎には、8月9日11時2分、旧浦上天主堂近くのテニスコートに落とされました。長崎の爆心地公園を訪れたときの話を書きます。

参考文献


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