伊坂幸太郎「サブマリン」から考える少年法

犯罪者は悪者なのか。
復讐は悪なのか。
少年法によって「守られる」と言われている少年少女たちは、本当に守られているのか。
人の命の重さは、本当に変わらないのか。
変わらないのなら、なぜ奪った人間の年齢や個人の事情によって罪の重さは変わるのか。

裁けなかった犯罪には、裁かれた犯罪と比べて遺された人たちに多くの懲罰感情を与えるのではないかと思うと、それによって更なる犯罪を生む可能性がある。
少年法によって裁かれない犯罪が、更なる懲罰感情と第2の犯罪を生み出してしまうのかと思うと、やりきれない。

少年たち自身には、「裁かない」ということから生まれる結果の先に何があるのだろう。

自身の経歴に、事実としては残っても世間に公表する必要がなくなる。
これは彼らの未来にとって非常に大きなことで、きちんと反省した先にまた歩き出すにあたって大きな後押しになる。でもこれはあくまで「反省」や「償い」の上に成り立っている。これを良いことに「許された」「なかったことになる」と勘違いをして、再犯も生みかねない。

また、裁かないことで、「社会的に裁かれないのなら」と、自分自身に枷をかけ、裁かれる以上の反省と重荷を背負わせることになるのなら、少年法もなかなか残酷だと思う。

少年法は、性善説を基に成り立っているように思う。でも、どんな結果になるのか数値では測れない。

罪を犯したら罰せられる。
それが、子どもだろうが大人だろうが、同情の余地があるのかないのか、事故なのか故意なのか、責任能力があるのかないのか、そんなもの全部取っ払って、全ての犯罪が同じように裁かれるようになったらシンプルでとても分かりやすい。
誰にでも、被害者にも加害者にもなる可能性がある。自分が被害者や被害者遺族になったとき。もしくは、加害者になったとき。
その両側面を見ると、「なんとも言えない」としか出てこない。

それに、もしそうなったら、人間が人間である意味、発達した言語と感情を持って生まれてきた意味がなくなってしまうのかも知れない。

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