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考えることを料理にたとえる

瞑想は好きだけど、苦手だ。瞑想には色々な種類があると思うけれど、とりあえず体を落ち着かせて何かに意識を向け続けることだとする。瞑想をしていると、気がついたら意識が他のことを向いていて、考え事を始めている。僕が瞑想を知った本には「瞑想が下手な人ほど、気がそれたことに気づくチャンスがあるから効果的である」ということが書かれていて、勇気づけられた。あまりに制御できないから、考えることは自分の意思でやっていないと思えてくる。

考えることを、料理で例えてみることにする。(僕も含めて)多くの人は、考えることは自分で材料を切って、フライパンで炒めて…ということに近いと考えるのではないだろうか。しかし実際のところは、材料を機械に入れて、スイッチを押したらできている感じに近いのかもしれない。それらを盛り付けたものが、今書いている文章になっている。

文章も、自分で書いているのかが分からない。今手を動かしているのはまさしく自分なのだけれど、その文章はどこからやってきたのだろう? 「アイデアは全く新しいものではなく、既存のアイデアの新しい組み合わせである」という考えがあると思う。文章も同じような感じがする。今書いていることは、いつかどこかで読んだものと、いつかどこかで思ったことを引っ張ってきたり、組み合わせて作っているにすぎない。

文章を書く、考えるというのは、自分の意思で行うものではなく、無意識が勝手に行ってくれるものという気がしてくる。もちろん、そのプロセスに全く関与できないわけではなく、質は意思によって大きく変わる。何の料理を作るのかを決めて、材料を入れてスイッチを押すことはできる。つまり、何について考えるのかという方向性を決めて、文章を読んだり景色を見たり、何かをやってインプットすることはできる。あとは、思うがままに任せる。考えを止める難しさを知れば、考えることがどうということのないことに思えてくる。

かといって、文章を書くことが簡単という訳ではない。どう描いて、組み合わせて、流れを作るのかという部分は、間違いなく創造的な工程だ。今も「今日は散歩をして、川縁に座って、雲が流れるのを眺めていました」と書く気持ちを抑えて、この文章を書いている。その文章が悪いわけではないし、人に見せず書いている文章はむしろそんな内容が多いけれど、材料と組み合わせ方によって色々な文章が書ける。そこが面白いところだと思う。

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