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【短編】恩と金(2910文字)

2XXX年、大国ジパングの南にエトン共和国と呼ばれる国があった。二国は全く逆の経済システムで成り立っていた。ジパングの通貨「エン(円)」とエトンの通貨「オン(恩)」は、1エン = -1オンというレートで取引された。ジパングが黄金の国と呼ばれ経済的に豊かだったのに対し、エトンは経済的には豊かではなかった。しかし、自然や人の温もりに恵まれていた。

オンにはエンと同じように、硬貨と紙幣があった。ジパングでは、サービスを受け取る側がエンを支払う。逆にエトン共和国では、サービスを行う側がサービスを受ける側にオンを渡す。例えばエトンのスーパーでは、納豆1パックを100オン受け取って購入できた。

サービスの提供者がオンを渡すかどうかは自由だった。例えば、知り合いの間ではオンのやり取りはほとんど行われなかった。オンのやり取りのない取引とは、善意の行いのことだ。しかし、サービスを提供する側が渡したオンを受け手が拒否することや、オンを捨てることは法律で禁止されていた。なぜなら、それらは仁義にもとる行為だからだ。

タナカはエトン共和国で生まれ育った。タナカは一人っ子で、両親からの愛を一身に受けて育った。母の口癖は「恩返しできるような人間になりなさい」だった。父の口癖は「世の中には悪い人もいるから気をつけろ」だった。彼は多くの人から教育とオンを受け取った。高等教育機関であるダイガクを卒業し、恩返しをするためにカイシャに就職した。

カイシャとは、ある目的を達成するために作られた人の集まりのことだ。カイシャには似たビジョンを持つ人たちが集まった。なぜカイシャがあるのかといえば、一人ではできないことも協力すればできるようになるからだ。カイシャは人の役に立つために作られ、社会に大きく貢献していた。

タナカは優秀だったので、人気のエトン株式会社に就職することができた。エトン株式会社は、DIY精神豊富なこの国を代表する会社で、クリエイターのためのプラットフォーム「eton」の開発・運営を行っていた。etonでは、クリエイターたちが自分の作品を公開したり、ユーザー同士で交流することができた。etonに参加するクリエイターは、利用恩として毎月500オンを受け取った。etonの閲覧者も、クリエイターから自由にオンを受け取ることができた。

タナカは入社時点で、200万オンを持っていた。エトン株式会社の新入社員は、労働の対価として、毎月20万オンまでカイシャに渡すことができた。エトンでは1ヶ月5万オンを受け取れば豊かな暮らしができたから、タナカは1年と少しで全てのオンを返すことができると見込んだ。

エトン共和国では、労働は「他者に貢献してオンを渡すこと」と定義されている。この国の労働時間は短く、週の平均労働時間は20時間で、隣国のジパングの約半分だった。エトンでは余暇の時間が重要視され、大切な人と過ごしたり、好きなことをするために十分な時間があった。しかし、必ずしも良いことばかりではなかった。

例えば、サービスの質は決して高くなかった。17時以降は店は営業してはいけないというルールがあったため、いつでも自由に買い物をすることはできなかった。また、ほとんどの店は土日は開いていなかった。緊急時に対応してくれる病院はあったが、数は多くなかった。ジパングに比べると医療は発展していなかったが、時間や心に余裕がある人が多かったので病気になる人は少なかった。

タナカが入社して1ヶ月が経った。会社に慣れてきたので、ジパングにワーケーションに行ってみることにした。仕事はパソコンがあればできたから、どこでするかは自由だった。タナカはジパングの最低限の情報を調べた。ジパングでは物を売る人ではなく、物を買った人がエンという通貨を渡すことを知った。エトンとは逆だったから、変なルールだなと思った。

ジパングとエトンの国境にはゲートと呼ばれる検閲所がある。そこでオンとエンの交換もできる。滞在期間は2週間の予定だったから、-10万オンと10万エンを交換した。つまり、10万オンと10万エンを受け取った。オンを返済するまでの期間が少し伸びてしまったなと思った。

ゲートを通り過ぎ、ジパングの都市部に向かった。大きな道路には、クルマと呼ばれる高速車両が走っていた。情報としては知っていたが、実際に見てみると迫力が違った。何故か分からないが、道を歩く人のスピードも驚くほど早かった。タナカは別の国にやってきたことを実感したのだった。

タナカは街をぶらぶらしたり、地元の人と話をしながら一週間ほどを過ごした。エトンからジパングを訪れる人は少なく、エトンから来たと話すと珍しがられて話をしてもらえた。ジパングの人はいつも忙しそうにしていて、そしてよく働く。その理由がだんだんと分かってきた。端的に言えば、エンのためだった。ジパングの人はエンをたくさん持っているが、もっと多くのエンを蓄えないと不安らしい。エンを手に入れるために働き、そしてエンを使って人を働かせる。この国では、より多くのエンを貰ったり使ったりすることが良いことだという価値観があるようだった。

タナカは変な考え方だなと思った。なぜなら、エトンではより多くのオンを渡したり受け取ることが良いことだという価値観はなかったからだ。オンはあくまでも数字でしかなく、本当に大事なことは数字では測れない。そして、オンのやり取りが行われない重要な活動はたくさんある。エンのやり取りが重要視されると、それを伴わない活動が軽視されるのではないかと思った。例えば、家事や子育て、創作や研究などだ。

ジパングの労働者はサービス精神が豊富だった。ジパングでは客のことをお客"様"と呼んで丁重にもてなす。時は自分自身の身を削ってまで。ジパングには「ギブアンドテイク」という言葉があった。タナカはこの言葉がエンの本質を表していると思った。無理をしながら働いてギブをして、疲れて憂鬱になり、そのマイナスを埋めるためにお金を使ってテイクする。エトンには似たような言葉に「ギブンアンドギブ」という言葉があった。これはもらった恩を誰かに返すというオンの本質を表していた。

ジパングに住む人も同じ人間だから、エンを稼ぐことに追われて忙しくするのではなく、本当は大切な人と一緒に安心して暮らしたいのではないかと思った。エンとオン、たった一文字の違い、渡す方向の違いで、ここまで大きな文化の違いが生まれることが衝撃的だった。ジパングで過ごす日々は刺激的だったが、時間の流れが早く、気持ちが急かされて落ち着かなかった。自然豊かなエトンに帰り、家族に会いたいと思った。

2週間のワーケーションが終わり、タナカは帰国した。違う国に行ってみると、当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことに気づく。タナカはジパングの技術力や便利さを尊敬する一方で、エトンでの平穏な日々のありがたさを再認識した。

タナカが帰国した次の日、ゲートを通ってジパングの急進派が攻め込んできた。軍事力を持たないエトンが滅びるのに時間はかからなかった。世界はエンに支配された。

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