オープナー
時間以上に長くて面倒な一限目がようやく終了した。現代文の高畑がにらみつけていた居眠り生徒はチャイムの音と同時に活気を取り戻し、号令が終わるとすぐさま廊下に出ていった。
一分とたたず騒がしくなる廊下の様子を想像しながら、次の時間の準備をする。教科書とノートを出すだけで済むことだったが、面倒だなと思って後回しにする。
代わりにカバンの中から銀色のオープナーを取り出した。先週道端で拾ったオープナーだった。学校に持ってきたのは今日が最初。金属光沢が教室の蛍光灯を反射して私に笑いかけたように見えた。
休み時間にわざわざ私に注意を払うクラスメイトなどいるわけはないが、いつも以上に神経質になってオープナーを手で隠しながらそっとカバンの外へと出す。
スカートを整えて、膝の上にそっと置いてみる。
有機的な曲線と、スクリューが描いている螺旋が実に機能的に形作られていた。スクリューの鋭利な先端がコルクに沈んでいく様子を想像する。スクリューが十分沈み込んだ後、フックをひっかけてゆっくりと引き上げる。
私はその時の音や感触、オープナーの表情を想像して口角が上がるのを感じていた。
「何してるの?」
素早く机の中にオープナーを投げ込む。机の中で衝突音が鳴ったが、平静を装って声のした方を振り返る。
私の真横、前かがみになって私の膝の上を覗き込んでいたようだった。
「何してたの?」
私の後ろの席の生徒、滝本梨音は再確認するようにそう言った。さしたる根拠があるわけでは無いが、学校でしげしげとオープナーを眺めているところを見られては今後の生活が危うくなるような予感がした。
「なんか机の中に隠したよね? 何見てたの?」
「いや、あの」
「えー、いいじゃん何隠してたのぉ?」
そう言うと彼女は予備動作無しで私の机の中に手を入れまさぐり始めた。仲がいいわけでもないただのクラスメイトにこれだけずけずけと机の中を詮索されなくてはいけないのか。という怒りとも屈辱感ともつかない感情が一瞬のうちに脊髄を走り、衝動的に彼女の肩を力任せに引っ張った。
「うぉ」
私の力強い抵抗を予想していなかったのか、上半身を保てず彼女は後ろに倒れ込んだ。背中にぶつかって彼女の机が音を立てて後方へとずれる。
——大きな音を立ててしまった
一瞬の逡巡の内に私は自分の行動とそれに付随する他人の視線を頭に浮かべて、目を見開いた。
いててて。
自分の後頭部をさすりながら彼女は起き上がった。
「いきなり何すんのさー」
彼女が座り込んだまま私を見上げる。
「ご、ごめ」
彼女の胸元を抑えていた彼女の右手には、私のオープナーが握られていた。彼女は顔をしかめて何かつぶやいたあと、自分の右手の中の握られている物に気づいてその手を広げ——
「いやあああああああああああああ」
自分でも驚くほど醜い叫び声を上げながら、私は彼女の髪を掴み、彼女の右手をひねり上げた。
彼女の手からオープナーが落ち、こつんと音を立てて床に着地した。
それを発見すると、急いで拾い上げる。私はオープナーを落とさないように、しっかりと握って自分の体に寄せた。
視線が私に集まっている。空気が過冷却されているかのように、誰一人身動きを取らなかった。廊下からの全く変わらぬどよめきがむしろ私の心を惑わせた。
打合せでもしていたかのように、教室にいた生徒が動き出したのは同時だった。みんなが滝本梨音に寄ってたかって、心配そうな声を掛けている。
私に注意を向けていても近づいてくる生徒はいなかった。
私は教室を抜け出した。途中で次の時間の教師や学級長だか何人かとぶつかったが、なるべく気にしないようにして急いで歩いた。
私は電気のついていない女子トイレへと入った。本能的に一番奥の個室へと入り、鍵をかけた。
息をひそめて、自分の置かれている状況についてはやる気持ちを抑えながら考えていた。私は問題を起こした。もうこの学校で今まで通りの生活を送ることは出来ない。母親にも迷惑がかかる。逃げるなんて選択肢を選んだのは悪手だった。だけど今更。
右手のオープナーをなでながら、必死に気持ちを落ち着けようと
「誰?」
思わずオープナーが手から落ちる。トイレ特有のつるつるとした床にオープナーは滑ってどこかへ行きそうになる。
慌てて拾い上げると、再び声がした。
「なに? 何の音? 誰かいるの?」
聞きなじみのある声に安心する。友人の伏見奈々子だった。返事をするべきか一瞬迷って、名前を呼んだ。
「奈々子」
「……トギちゃん?」
御伽原という私の名字をもじったあだ名だった。今の状況を説明しようと試みる。
「奈々子。あの、」
「どうしたの」
「いまっ、追われてて」
説明になっていないことは重々承知だったが、とりあえず感情だけ分かってもらえば問題ない。
「えっ、なんで? 誰に追われてんの?」
「話すと——————」
扉が開く音と同時に、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。男性。物理の鉤宮の声だった。
逃げ込んだところまで見られていたのか。
もしかしたら素直に出ていくべきかもしれない。静かに鍵を外す。
突然、隣の個室から鉤宮への返事が聞こえた。
「何ですか」
「御伽原か?」
「違います。伏見です。」
「御伽原……いや、誰か入って来なかったか?」
「誰も入ってきていませんよ」
「そうか……」
一瞬の沈黙
「何故電気を消してるんですか」
「……同級生に悪戯で消されました」
「わかった」
電気がついた。
「お前が入ってるところ以外の個室見させてもらうから。伏見はどの個室にいる?」
「えっ、なんですかそれ」
「とりあえず見させてもらう」
「何でですか」
「いや……お前を疑ってるわけじゃないが、隠れている可能性もある」
「いやいや、誰も入ってきてないって言ってるじゃないですか」
「念のためだ」
「なんで鉤宮先生に女子トイレをうろつかれないといけないんですか。女性教師ならまだしも。私は男の人がトイレの中にいると思いながらトイレはしたくないです」
「…………そうか。すまない」
このまま鉤宮は素直に戻るだろう。いや、戻ってくれ。
「御伽原を見つけたら、誰かに教えてくれ」
「あの」
「ん?」
「御伽原ちゃんは何をしたんですか?」
「あぁ……まあ、ちょっとトラブルを起こしてな」
「というと?」
「学校に持ち込んではいけないものを持ってきたのを注意され、逆上して注意した同級生に暴力をふるったらしい」
違う。と言いたくなった。
「何を持ち込んだんですか?」
「よくわからない。銀色の……万能ナイフみたいなものらしい」
「え」
「どうかしたか?」
「いえ」
扉が閉まる音が聞こえ、鉤宮は出ていったことが分かった。
私は固唾をのんで、次の行動を考えていた。
何をしても今の状況が良くなる未来が見えない。飛び出して先生に見つかる——当然、良い展開ではないが、私が暴力をふるったのは事実なので仕方のないことだ。
それに、ここにとどまることが良くないことは分かっていた。
だが体は動かなかった。
なぜなら
「御伽原ちゃん?」
隣の個室の扉が開く音が聞こえる。奈々子が個室から出てきた。
鍵を閉めるという行為も思いつくことが出来ず、私の個室の前に立った奈々子の手で扉は開かれた。
「トギちゃん?」
私を見つめるその顔には、引きつった笑顔が張り付いていた。
「それは ”私の” オープナーだよ?」
これを落としたのが彼女だということは分かっていた。
拾ったときはちゃんと届けるつもりだった。
だけど返す気になれなかった。
言い訳はできなかった。
私のオープナーに
したかった。
「返して」
彼女の顔から笑顔が消えて、私は泣いていた。
同時に笑っていた。
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