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『カラマーゾフの兄弟』読書メモ②(第一部第一編-第二編)

ドストエフスキーの大長編『カラマーゾフの兄弟』を読み始めています。


1.第一部第一編「ある家族の物語」

第一部第一編「ある家族の物語」は、カラマーゾフ家の人物(父フョードル、長男ドミートリ、次男イワン、三男アリョーシャ)についての来歴が語られていました。

父フョードルの「ネグレクト」故にそれぞれ離散して育っていた息子たちが、再び父の住む町に帰郷し一同に集まることで、物語が動き始めます。

ドストエフスキーの小説は、バフチンによって「ポリフォニー小説」と解されました。

作者が登場人物に自分の〈声〉を代弁させる「モノローグ型」の小説とは対照的に、様々な立場の登場人物が作者から自立的に発話する多層的な言説空間が「ポリフォニー小説」の特徴のようで、確かに『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちの発話や思想の複数性は際立っていると思います。

タロットカードっぽく言うと、
・父フョードルは「道化」
・長男ドミートリは「愚者」
・次男イワンは「狡猾」
・三男アリョーシャは「純粋」
でしょうか。

後は、アリョーシャが入れ込んでいるゾシマ長老は「賢者」でしょうか。

では長老とはいったい何なのか?それは人の魂と意志をとらえ、自分の魂と意志に取り込んでしまう者のことである。人は、いったん長老を選んだなら、自分の意志を断ち、それを長老にささげ、その教えに絶対的にしたがい、私心をいっさい捨て去らなければならない。

69項

223項で「長老たちがあまりにも尊敬されすぎて、修道院長の地位まで危うくしている、なかでも長老が懺悔の機密を悪用しているなどといった悪意に満ちたデマが流され…」と語られている通り、長老は「既存の教会制度のヒエラルキーの外部」に存在する、あくまでも霊的能力のみに裏打ちされた人物で、その意味で教会の幹部(修道院長など)と微妙な緊張関係があるということでしょうか。

2.第一章第二編「場違いな会合」

第一章第二編「場違いな会合」では、ドストエフスキー家の面々(+ミウーソフなど)がゾシマ長老の庵室に集まり、父フョードルが盛大に道化を働き「大醜態(スキャンダル)」になるのですが、印象に残った点をとりあえず列挙すると、、、

①父フョードルの道化について
→真面目にふるまうことができない(「ベタ」であることができない)
⇒神に対する態度についても、真面目に信仰するわけでも、真面目に無神論であるわけでもない

②「おキツネさん」

③作中における「宗教」は、現代における「人文学」と相似的な気がした。
⇒「献身する態度と、それへの疑念、しかし本物への憧憬」という点で。その相似形に注目しながら読むと面白いかもしれないと思った。

④ゾシマ長老にとって会合の目的は?
→預言を自分でどのように位置づけているのか?ゾシマ長老の内面が気になる。

⑤社会主義とキリスト教
ミウーソフの小話の中で語られている話は、小説全体の中でどのような位置づけなのか(「ポリフォニー小説」故に位置づけるのが難しい。)。
⇒ドストエフスキーにとって、キリスト教とは、社会主義とは?

神を信じるキリスト教徒でありながら同時に社会主義者である人間…われわれがだれよりも警戒するのは、まさにこういう連中でして、おそろしい輩です。社会主義的なキリスト教徒っていうのは、社会主義的な無神論者よりおそろしいんです。

175項、2月革命から間もない時期に、秘密警察の長のフランス人がミウーソフに語った言葉


⑥無神論者にとっての「悪事」とは(181項)



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