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「どうする家康」第28回「本能寺の変」 家康が「信長」を食って成長するまで

はじめに

 第28回は「どうする家康」の表舞台を牽引し、家康を引きずり回し続けた織田信長の退場劇でした。前回の家康との対決で信長が見せた、天下人になることへの業の深さに打ちひしがれた姿、それでも前に進まざるを得ない信念と怯え、そして全てを家康に委ねようとする静謐さ。本作の信長の凄絶な想いが、演者の岡田准一くんと受け手の家康役、松本潤くんの二人によって、余すことなく引き出されましたね。

 それが、あればこそ、致命傷を負ってなお血刀を振るい続ける圧倒的な戦闘力(槍の一突きで三人串刺しとかどこの「戦国無双」ですかw)、家康をひたすら求めて練り歩く憐れさが、より引き立ちました。炎に消え、直接、死が描かれなかったことも、彼の峻烈な生きざまを印象付けたのではないでしょうか。裏を返せば、信長のドラマは前回の時点で既にほぼ終わっていて、肝心の本能寺の変は、彼に唯一残されていた家康への想いの顛末だけを描いた話だったと言えます。それだけに彼の退場は、侘しく、虚しく、哀しい余韻が残りました。


 そして、そんな信長の退場は、家康にとっては何度目かの少年期~青年期(既に壮年ですが)の終焉です。思えば、「どうする家康」は、家康にとっては喪失の物語でもありました。一度目は自分の育ての親、今川義元の戦死(第1回)。二度目は氏真という兄とも呼ぶべき存在との決別(第12回)。三度目は最愛の幼馴染の妻との死別(第25回)、そして、今回はもう一人の兄とも呼ぶべき存在の誅殺です。
 信長の死によって、幼少期からの家康という人間、その生き方、人となりの核を作ってくれた同格以上の人物たちが、全て歴史の表舞台から消えていきます(氏真は生きていますけど)。そして、いよいよ、彼一人だけで誰かの背中を追うことなく、この先を進んでいかなければならなくなるのです。

 

 そう考えていくと、実は第28回「本能寺の変」とは、表向きは家康と信長の悲劇的なブロマンスの顛末を描きながら、それ以上に信長暗殺を決意したはずの家康が、前回の信長の吐露をどう受け止めるのか、これまでの多くの出来事の何がそこに作用するのか、そして最終的に何を決断するのか、そこに大きな比重があると言えるのではないでしょうか。やはり「どうする家康」は、あくまで徳川家康の物語なのです。

 そこで今回は、信長暗殺計画を前に、信長の想いをどう受け止めていくのか、その決断を、ようやく訪れた二人の心の響き合いも考慮しながら考えてみましょう。



1.様々なことを示唆する第28回のアバンタイトル

 第28回アバンタイトルでは、冒頭のアニメーションから印象的でしたね。今回は、月の中で互いに襲い掛かるように向き合う兎と赤い狼という図になっていますが、これは第3回の黒い狼から逃げようとする兎の図との対比になっています。

 狼たる信長に怯え、動揺するばかりだった白兎の家康が、第27回で遂に面と向かって自身の理想と本音を信長に吐き出しました。対する信長もまた天下一統を目指す上で行った多くの非道とその報いから来る重圧、更には極度の孤独から来る弱さを見せながらもその信念を吐露しました。実際は、二人は自分の言いたいことを言っただけで、想いはどこまでもすれ違っているのですが、少なくとも、家康が信長に立ち向かう決心をしたことで、表向きは主従であっても二人は対等に近い関係にはなりました。


 今回のアニメーションは、一見、そうした前回の二人の関係性の変化を引き受けてのものであるように見えるのが特徴です。しかも芸が細かいのは、第3回では黒狼だった狼が真っ赤になっていることです。前回、信長は多くの人間を殺し、その痛みと苦しみと恨みを一心に受け止めて、いつか誰かに殺されることを覚悟している旨を漏らしていました。  
   つまり、狼の赤はそれまでに浴びた返り血であり、また彼自身がそうした人々の恨みを受けて満身創痍になっていることも表しているようにも見えます。返り血を浴び、自身も血を流す手負いの狼です。手負いゆえに、兎が対等に戦えるような図柄になっているとも言えるでしょう。


 しかし、この二匹が本当に戦い、お互いを食らい合おうとしているのか、その判断はアバンタイトルの時点では留保すべきです。信長は既に家康に天下人の業を背負う覚悟があるならば討たれてやろうと思っています。つまり、信長に家康を食うつもりは、あまりないのです。
   また、前回、信長が宣言どおり供回りを最小限にして安土を立った報告を受けた家康は、太刀にすがり「わしはできる」「やり遂げるんじゃ」と鼓舞しなければならないほど、信長を討つことに対して葛藤を持っています。

 そう考えると、一見、狼と兎が食い合うようなこの図柄、本能寺の変前夜の二人の関係を仄めかしながら、実は違う二人のあり方も見せている可能性があるのですね。そして、それが何なのかは中盤、そして終盤を迎えたときに見えてきます。


 さて、アニメーション後、前回でも信長が少し思い出していた幼少期の信長が勉学に励む回想から始まります。信長(12歳)との表記が出ますが、元服前なので実際は、幼名の吉法師の頃ですね。平手政秀のスパルタで学問教育を施されていた彼は、論語、手習い、算術と次々と高いハードルを要求され、汗だくになりながら習得に勤しみ、徐々に追い詰められていき、やがて爆発、師も学友も殴りつけ、蹴りつけ、投げ飛ばし、暴れ回ります。そこへ現れた信秀には流石に叩き伏せられるものの、彼は飛び出していきます。

 言及こそされませんでしたが、これが「大うつけ」信長の誕生なのでしょう。自分以外は全て敵であるからこそ、誰よりも強く、賢くあらねばならぬと父から厳命され、たった一人それに耐えるだけの生活。その重圧に耐えかね「大うつけ」を演じるようになった信長の根本にあるのは、生真面目さです。そして、他人に心を許すことを学べなかった彼は、常に仏頂面で、己の弱さを見せないために強気と恫喝でしか人と接することができない不器用さも抱え込んでしまいました。

 果たして、信長は信秀の教育方針の結果、高い能力と生真面目さで人々を強力に率いていく力とカリスマを持つ一方で、その不器用さゆえに繊細な心を押し隠し、孤独を深めていくという二律背反的な人間になっていきます。この絶望的な孤独感が「この世は地獄じゃ」であり、信長の原動力となり、天下一統や家康への想いとなっていったのでしょう。


 さて、幼少期の回想から目を覚ました信長がいるのは、前回の悪夢と同じような場所です。蛙の鳴き声も同じです。刀を抜き、訝しむように様子を窺う信長の背後に例の如く鎧武者が襲い掛かり、前回以上の立ち回りを見せます。まるであの悪夢を繰り返しているかのような様子ですが、結論は出さず、すぐに前回の引きであった本能寺炎上が映されます。そして既に伊賀越えをしているかのような家康…

 二人の関係性を仄めかすアニメーション、信長の原型を作った回想、そして何があったのか分からぬ本能寺炎上の不安、と様々なことを示唆して、オープニングが始まります。




2.信長暗殺が決断できない家康

(1)光秀の謀反理由に突発説を採用

 「どうする家康」のオープニングでは、家康役の松本潤くんだけでなく同格扱いのキャラクター、例えば、瀬名役の有村架純さんや織田信長役の岡田准一くんの名前が、タイトルロゴが出てくる前にクレジットされています。今回ならば、家康、信長の二人のクレジットが出てくるはずですが、家康の次にクレジットされるのは、なんと瀬名。しかも回想のみで新規撮影シーンはありません。そして、三番目はお市の北川景子さん。そして、四番目にようやく信長が来て、タイトルロゴとなりました。

 このクレジットの序列は印象的です。何故なら、第28回では、回想でしか出てこない瀬名と第19回以来、久々の登場であるお市の二人が、信長以上に重要な役割を持っているということを示唆しているからです。タイトルが「本能寺の変」であるにもかかわらずです。この意味もまた、冒頭のアニメーション同様、後々解けていきます。


 さて、オープニング後は、時間巻き戻り、本能寺の変、3日前の愛宕神社です。参詣後の光秀の表情は虚ろです。前回の「私は終わりました」の言葉でも分かるとおり、彼は饗応役の失態により自身のキャリアの終焉を悟っています。しかも、その失態は全く自分に落ち度がなく、家康のせいで起きたことです(実は家康の離間の計ですが光秀は知りません)。

 田舎侍によって面目を失い、信長と家康の双方に恨みを募らせ、更に返り咲くこともないのに秀吉の元へ参陣せねばならない不本意、様々な絶望が光秀の胸に去来します。そこにもたらされた、信長の手勢が少ないという情報。この時点では「信長」と呼ばず「上様」と発言していますから、何気なく呟いているのが、わかります。


 そして、彼の口から漏れ出す「ときは今 天(あめ)が下(した)知る 五月哉」の句…こうして、信長の手勢が少ない今こそが天下簒奪の好機であることを思いついてしまいます。
    近年では謀反の理由として、光秀の突発的な発想であり、深い謀略などないという偶発性が割と支持を集めているようで、そこに乗っ取った形ですね。この場合、一般に謀叛を起こした一番の理由は「彼も天下を目指す戦国大名だったから」ということになりますが、本作の光秀の場合は、失態により織田政権下での返り咲きが望めないという絶望的な状況だからということで少し違うかもしれません。人間追い詰められれば、後先、なりふり構わずワンチャンスにすがるのも自然ですね。


 そして、光秀を追い詰めたのは、前回のnote記事で触れたとおり、信長が敷いた失敗を許さない能力主義の武断統治の歪みであり、そこを利用して光秀に離間の計を仕掛けた家康です。彼らは、光秀を眼中にない存在として甘く見ていたため、予想外の出来事に足元を掬われるのです。ですから、信長と家康にとって、光秀による突発的な謀叛は、因果応報と言えます。
   家康にすれば、離間の計としては予想以上の成功を収めたために、自身が危機に陥ることになりますね。光秀が、家康を相当恨んでいることは、「三河のくそ田舎者が!」からも明白ですから、家康はもっと注意を配るべきでした。


 因みに「ときは今 天(あめ)が下(した)知る 五月哉」の句は、愛宕神社に来た際に催された愛宕百韻という連歌会で読まれたものです。光秀は教養人でしたから、細川藤孝や里村紹巴といった文化人とよく交わり、教養を深めていったと言われています。そんな彼らとの連歌会で光秀が詠んだ発句(この後に脇句、第三、揚句が続きます)が、この「ときは今 天(あめ)が下(した)知る 五月哉」です。これは素直に読み解けば「今はまさに五月雨が降りしきる五月ですね」という意味になります。

 しかし、この句、「とき」:「土岐氏(光秀の出身)」、「あめ」:「天=天下」、「下知る」:「お下知=命令」と置き換えると、「土岐氏が今、天下を支配する、そんな五月です」あるいは「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月です(この苦境から脱したい)」とも読めるのではないかという人たちがいるのです。そのため、この発句には光秀の光秀の謀反決意表明という逸話がついて回っています。近年では、その意図はなかったろうと否定されていますが。
 本作の光秀は連歌会では普通に詠み…いや、信長に媚びへつらう奴ですから「時は今、(信長公が)天下を支配する、そんな五月ですね」という意味を込めたかもしれません。ともかく謀叛の意もなく詠んだとし、そして、この時点で再度、句を呟いたときに謀叛の意へ反転したという形にしています。上手く、肯定説と否定説を組み合わせて、突発的な思い付きという謀叛の理由を補強したのではないでしょうか。


 また、光秀の謀反の理由が突発的なものであったことは、彼のその後の末路を決定づけます。光秀の急なやり方には誰も賛同する者はなく、山崎の戦いで秀吉に敗れ、俗にいう三日天下で終わります。

 秀吉が「やったやつはバカを見る」と言ったとおり、謀叛はそもそも割に合いません。将来のビジョンを明確に持ち、前々から根回しをして、賛同者を募り、進めておく必要があります。また、相手の首級を取ったとして、どう脱出するのかその経路の確保も必要です。また、謀叛に対して仇討ちをする者たちが出てくるのは、当然です。となれば、この場合、畿内全域を押さえられるだけの大規模な兵力を確保した上での実行が大切になるでしょう。そして、多くの援軍が得られる状況を作って置くことも大切です。持久戦になる可能性もありますから。

 果たして、光秀は13,000人の兵力を有していたという点はまずまずですが、秀吉の30000~60000人、勝家の48000人、滝川一益の26000人など他の織田軍団が終結した際、全兵力を相手にするわけではないにせよ、楽観視できるとは言い難い。また急ですから調略関係は手薄です。結局、無計画な謀叛は失敗しやすいのです。

 

 ここで気になるのは家康の謀反の計画です。前回のnoteでは「ちょっと安易が過ぎる気も」と危惧し、「きっと朝廷との工作も視野にあったのかもしれません」と予想するに留めましたが、かなり杜撰な面があるのは明白です。前回の話では、服部党と茶屋四郎次郎の尽力により500人程度が揃えられたとの話がありました。家康にしては頑張った裏工作とは言えますが、13000人でも最終的に失敗した明智を見れば、あまりにも少なすぎます。

 また、逃走経路が確保されている気配はありませんし、三河、遠江、駿河から援軍が来るという話もある様子はありません。単純に戦力だけでも無謀の誹りは免れないでしょう。つまり、多少計画性はあるとはいえ、光秀の謀反の杜撰さに近い面があるのです。

 本作で、光秀の謀叛の理由として突発説が採用されたのは、家康の計画自体の欠点を視聴者の前に炙り出す目的もあったのかもしれませんね。



(2)瀬名を思うがゆえに引けない家康と平八郎

 さて、信長の手勢が少ないことが家康に報告される場面は、前回使われた場面の流用です。わざわざ繰り返すことで、家康の葛藤はより強調されます。

 そして家康の脳裏には、前回の対決で見た、信長の孤独と苦悩、多くの非道を伴う天下人の業の深さ、強いはずの信長の弱さ、信長が京で家康に討たれるのを待っているという話が次々と思い浮かびます。家康が一度に受け止めるには、あまりにも衝撃的な出来事の大盤振る舞い。家康自身、衝撃的過ぎて、後ずさり、涙を流してしまったほどでした。それでも「弱き兎が狼を食らうんじゃ」と決意は告げましたが、それでも自分の中にこれでいいのかという気持ちが沸き上がります。

 これを自身の弱さとみる家康は刀を握り「信長を討つ、わしが天下を取る」と踏ん張りますが、これを逡巡と見た忠次はすかさず「信長を討てば、天下を取れるというものではありませぬぞ」と諫言します。数正もまた朝廷での裏工作、特に天子さまを味方につけなければならないと大義名分と多くの人脈の必要性を説きます。年配者である宿老二人、特に忠次は「殿にお任せしよう」とまとめながらも、その実は、家康にやりたいようにやらせ、その結果、彼がその問題性に気づき、悩むことを待っていたようですね。
 ある意味、彼の正しい判断ができる才覚を長年の様子から信じているのだと察せられます。忠次に呼応して諫言する数正との名コンビぶりは相変わらずです。



 しかし、瀬名の願いを最短で叶えることが最優先の家康は、それでもまだ討つ決意のが強く、信長を討ったあとに自分を支える人脈について「案ずるな、考えてある」と述べ、豪商たちが集う日本随一の経済都市、堺へ向かいます。史実では、家康の堺行きは信長の勧めで、案内役として信長配下の長谷川秀一がついていっていますが、家康自身の発案(茶屋四郎次郎の入れ知恵でしょうが)としています。戦、そして将来を考えるには経済的支援が欠かせないという家康の聡明さと先見性、利に聡い商人らと駆け引きができる交渉力など、家康自身の能力も少しずつ上がってきていることが示されています。
 単なる無謀な算段ではなく、最大限出来ることやろうとしているのです。因みに津田宗及ら会合衆と縁を結んだこと自体は、史実どおりです。


 暗殺後というその先を見据える様子に満足げな井伊直政に対して、逆に家康の本気を懸念する数正は遂に「力ずくでお止めせねばならんのではないか」と、前回同様、命がけの諫言をする提案をしますが、「殿に従うと決めたはず」と槍を磨くことに余念がない忠勝は即座に反対します。彼はひたすら槍を磨き、本懐を遂げるそのときだけを考えているようです。因みにこの際に磨いている槍の穂先はかなり長いのですが、梵字が見えるので天下三名槍の一つ、蜻蛉切だと分かりますね。忠勝愛用の槍のレプリカを撮影用に拵えているようで、ゲーム「刀剣乱舞」が好きな人も喜びそうですね(笑)


 さて、家康の想いと一つになろうとする忠勝に康政は「それでいいのか。我らはお方様から託されたはず」と家康と未来を託され、共に戦のない世を実現し見届けるよう言われた遺言を突き付けます。あのときの瀬名の熱弁が回想シーンとなり、二人の脳裏をよぎります。その際、舟を飛び降りた家康を止めたこと、そして、その視界の先で自刃し、くず折れる瀬名の姿も同時に再生されます。


 第25回では、瀬名自刃のシーンは家康の目線で見たものですが、同じシーンでも今回は忠勝の目線で見た瀬名の最期です(家康と一緒に見ため同じ角度)。あの無念の最期を忠勝がどう見たのか…。瞬きもせずにカッと見開いた忠勝の目は、その光景が忘れられないことを示しています。
 そして、絞り出すように「俺はずっと悔いておる。あの時お方様に従ったことを。信長を討てばよかった。今ぞその時じゃ」と。彼もまた三年間、瀬名の最期が事あるごとに頭の中でリフレインしたに違いありません。だからこそ、第26回では家康の真意が見えずに心底悔しがったのです。だからこの言葉には、瀬名たちが亡くなってからの忠勝の三年間の万感が込められています。


 そして、慈愛の国計画が信長にバレたとき、家康が当初、信長と戦をするつもりだったことを覚えているでしょうか。家康もまた心のどこかで忠勝と同じく「信長を討てばよかった」と思い、自分自身の当時の不甲斐なさを悔いているはずなのです。となると、この忠勝の言葉は家康の想いの代弁にもなっているんですね。彼は、自分が家康の想いと一心同体であることを確信しているのです。ですから、康政の「それが本当にお方様と若殿が願っていたことだったのか」との問いかけにも「ああ!」と頑なに返し、ひたすらそのときのために、蜻蛉切の手入れを続けます。

 家康や瀬名や信康を思う気持ちは通じ合ってはいても、殿に寄り添うか、大局を見据えるかで意見は割れる家臣団。男たちだけではどうにも家康の暗殺計画は止まりそうにありません。




(3)家康と信長のクッションとなってきたお市の存在感

 家臣団に漂う閉塞感を差し置いて、着々と家康の堺における人脈形成は進みますが、家康の暗殺計画に待ったをかけることになるのは、堺の街で声をかけてきたお市です。堺にいる家康に逢いたいがため、岐阜を抜け出して堺にやって来るとか、交通の便がよい現代ならともかく、ちょっと近所までみたいな感じのフットワークの軽さは驚く…というよりもなんだかその情念の強さが恐ろしいですね(笑)娘の茶々は既に気が強くて口ではお市を負かすとか言っていましたが、お市のそれも相当です。織田の血筋はこれだから(笑)

 

 ここでお市が家康に逢いに来た真意が何かは実のところはっきりしません。家康と信長との安土城での対決を知るよしもありませんが、一方で瀬名たちの誅殺は知っているでしょうから家康が信長を憎んでいるとは思っているでしょう。その直感から間を取り持とうとしているのでしょうか。この場合、兄を心配するという以上に、兄を憎むかもしれない家康の心情などを心配しているだろうと思われます。金ヶ崎も兄より家康優先でしたからね。

 あるいは、彼女には縁談がいくつか持ち上がっていると劇中で話されていました。実際、信長の死の直後の清須会議にて柴田勝家とお市の婚姻は、秀吉の了承も取り付けて正式に決まります。そうした婚姻が決まる前に、もう一度、想い人に逢っておきたかったという女心もあるやもしれません。一応、家康が正室の後添えを取るかどうかも確認していましたね。もっとも、信長との間が心情的に拗れている中で、自分が正室になれるとは思っていないでしょうけど。まあ、どちらであっても、家康を大切に思う情の強さは相変わらずです。呼び方も「竹殿」で初恋のときと何ら変わっていませんからね。



 さて、話がパートナーの件に移ったところでお市は「兄を恨んでおいででしょう」と伏し目がちに切り出します。「とんでもない」と例の如く、ポーカーフェイスを装う家康に、お市は「私は恨んでおります」と本音を吐露します。実際、浅井長政とお市の関係は、彼女が惚気るほどに良好でしたし、金ヶ崎の一件以降も二人の子を成していました。そう思うのも当然ですが、それを決して誰かに明かすことをしなかったはずです。彼女もまた長年耐えてきたのです。

 勿論、家康にだけ、その本音を吐露したのは家康の気持ちを慮ってのことであり、自分のためではありません。彼に寄り添い、救おうと思うのです。だから、彼女の本音は、瀬名の夢を叶えるという目的のため、弱くならないためどこかで置いて来た、あるいは蓋をして見ないようにしてきた家康の気持ちを刺激したようです。家康は、一瞬、虚を突かれた顔をしてしまいましたね。


 家康の気持ちを慮った上でお市は、「しかし、あなた様は安泰。兄はあなた様だけは手を出しませぬ」と家康にとって思いもよらない一言を言い出します。訝しむ家康に「あなた様は兄のたった一人の友ですから」と。戸惑う家康に「兄はずっとそう思っております。」と言い添えます。

 お市の一言が真実であることは、視聴者はずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと知っているのですが、ようやく家康にそれが知られたというのが何ともモヤモヤした気持ちにさせますね(笑)そして、「この世は地獄じゃ」という信長にとり、竹千代時代に相撲を取るなどして遊んだあの頃だけが、彼にとっての楽しい時代であったとまで伝えます。当時の竹千代にとっても、成長した後も、織田人質時代のあの日々は家康にとっては、あれこそ地獄だったのですから、家康の胸中は複雑でしょう。
 ただ、家康が思い返す当時の思い出の中で赤装束を身にまとう信長は、暴言こそ吐くものの、相撲はかなり相手に合わせて加減をし、跡取りという同じ立場の彼には「強くならなければ」という導きを与え、自分に勝った家康の底力と根性を褒めたたえています。また、彼が心の底からよく笑っていたのも当時くらいで、家督を継いでからは数少ないはず。


 そして、天下一統を目指し、覇道を突き進んだ信長を「皆から恐れられ、誰からも愛されず、お山の天辺で独りぼっち、心を許すたった一人の友からは恨まれている」とその孤独さを「あれほど憐れな人はいない」はいないと評します。だからこそ、「私は恨んで」いても、兄として憎み切れもしないのだと彼女は訴えます。このお市の信長評は、「どうする家康」における信長評そのものであり、同時に彼個人を全く幸せにはしなかった覇道や武断統治の虚しさをも表しています。

 更にお市は、その虚しさの果てに信長は殺されることだろうと察し、「何れ誰かに討たれるのなら、あなた様に討たれたい」と兄ならそう思っているはずだと伝えます。お市は知りませんが、家康は既に信長から展開人の業を背負う覚悟ができたら討ちに来いと言われています。だから、お市の推察が的外れでないことを誰よりも知っています。だからこそ、半信半疑で聞いた信長の「やってみろ」の言葉の背景が、「家康だけが唯一の友」であることにも気づかないわけにはいきません。彼との約束が、家康の心に重く圧し掛かります。


 しかし、家康は、信長のような強さを持たない自分を友と思う理由がわかりません。お市は「兄はあなた様が羨ましいのでしょう。弱くて皆から好かれて」と信長と真逆の存在であるからだと伝えます。更にそれは「兄がずっと昔に捨てさせられたもの」とも。
 これを聞く忠勝の驚きの表情が良いですね。彼にとって、信長は既に人間ではありませんでした。覇道を極める冷酷無比の存在であり、徳川家を圧迫するだけの悪の権化でした。しかし、その彼が自分たちと同じように、家康を大切に思っているという事実、そして好いている理由も自分たちと同じであることを知ってしまったのです。俯き加減で聞く康政、静かに聞く他の面々…(覗き見体勢の直政は見えませんが)。家康に惹かれ仕えている今の家臣団は、信長のこの気持ちが分かってしまうのです。


 そして家康のほうは別の意味で驚きます。彼は信長の強さを恐れながらも、そこと肩を並べられる程度になろうと食らいついてきました。強くなるため、弱い自分を木彫りの白兎にして瀬名に預けていったくらいです。謂わば、かなり歪んでいますが、家康なりに信長に憧れたのです。
 一方、信長は信長で、愛に飢えて生きてきただけに家康のような愛される人間に憧れた。家康自身が捨てようとすら思っていたものを大切に思うのですから、家康には俄かに信じ難いものがあるでしょう。しかし、実は家康と信長の真逆の性質が対立するとは限りません。寧ろ、補完し合うような関係になれたらよかったのでしょう。


 そして、実はお互いを羨んでいた二人の関係性は、何故、信長の孤独な覇道に家康が必要なのか、その答えにもなっていますね。それは、家康が、信長が捨ててしまったために持ち得ない…友人、信頼関係、慈しむ優しさなど人徳にあたるもの全てを持っているからです。
 天下一統は、冷酷さと非道を持った信長の武断統治だけでは乱世は収められても、戦のない世の政は行えません。理屈では認めていないかもしれないけれど、彼の魂はどこかで家康のような人徳の必要性を感じ取っていたから、余計に俺の側にいろと伝えたのかもしれません。こうなると信長という人物は、自身の失われた半身を求め、彷徨し続けての哀しい人間だったという面が浮かび上がってきますね。

 妹のお市だけが知っていた信長のその真実を、彼女はわざわざ家康に伝えます。無論、それを伝えたからといって何かが変わるとは限りません。それでも、家康と兄が互いを傷つけるような関係が、お市からすると居たたまれず、つい話が過ぎたのでしょう。


 それにしても、不思議なことは、お市が信長の心情をかなり正確に見抜いていることです。あの安土城の対決まで見ていたかのようにすら思えます。それでは何故、そこまで理解しているのか。それは「どうする家康」のお市は、家康にずっと恋焦がれているからです。そして、彼女が恋焦がれた竹殿の美徳は、己の危険も省みずに溺れた自分を助けてくれた掛け値なしの優しさとこれから共に遊んでくれると言ってくれた真心であることが、第4回で語られています。兄妹と共に家康の美徳を気に入っている。だから、彼女は家康に惹かれる兄の気持ちが分かってしまうのです。


 そして不器用な信長がそれを表現できないことも十二分に承知していた上で、自分の初恋の人との婚姻を喜んで引き受けたのでしょう。その想いは、お市が、家康の瀬名への愛情の深さを知り身を引き、失恋という形で終わってしまいました。しかし、彼女は自分の縁談がダメになったときさえ、信長に「大切になさいませ、兄上が心から信を置けるお方はあのかたお一人」と釘を刺しています。

 この他にも金ヶ崎で阿月が伝えた浅井長政裏切りのお市の報せも、当時、大喧嘩をした家康と信長の険悪ムードを収めることに一役買っています。そして今回の件。
   お市というキャラクターは、その不器用さゆえに上手く話せず、分かり合うことのできない家康と信長を柔らかくつなげられる唯一無二のクッションであったのだと分かりますね。逆に言えば、この「妹」がいないと成り立たない家康と信長のコミュニケーション不全は、致命的だったということなのですけど。


 

 ともあれ、お市が語ることで初めて知る信長の気持ちと本性は、前回の打ちひしがれた信長とことごとく符合しますから、家康の心に重いものを残しました。
    また、この話を外で家康と共に「信長を討つこと」に凝り固まっていた忠勝が、人間信長の弱点を知り、それに悩むことになる家康を感じ取って何を思うのか。家康と一心同体にならんとする彼だからこその結論にちゃんとつながっていきます。

 そして、物思いに耽る家康を遠巻きに観るお市の目にうっすら涙が浮かんでいるのは気になりますね。分かり合えぬ家康と兄に対してなのか、自身のこれからの運命についてなのか。
   信長が本能寺で亡くなり、彼女の物語の役割は終わりを告げ、同時に彼女の人生も終わりへと向かい始めます。本作では彼女の家康への思いは報われませんが、家康の三男、そしてお市の三女が夫婦になるという奇縁だけは救いなのかもしれません。




3.家康の決断と信長の彷徨~認め合いながらすれ違う二人~

(1)家康の英断

 さて、堺の家康をよそに、信長は自室で頭痛を感じながら、家督相続が決まった頃を回想しています。逞しく成長した信長に「戻ってこい」といい一騎打ちを所望する信秀を、信長は電光石火で得物を叩き落とし、首筋に己の得物を突き付けます。息子の完成度に満足した信秀は、自分の死期が近いことを告げ、家督を継ぐよう申し渡します。演者の藤岡弘、さんの迫力見ていると死期が近いのが嘘みたいですが、信秀は42歳と比較的若い年齢で病死しているのですね。ですから、家督を早々に継がなければなりませんでした。準備が整い切る前の相続が、弟の謀反などの苦労をしょい込む原因の一つになったとは言えそうです。


 さて、父の申し出に信長は「己ただ一人の道を行けと?」と過酷な道に進まねばならないことへ若者らしい戸惑いを少し見せます。若くして孤独な道を歩まねばならない息子への手向けに信秀は「どうしても耐え難ければ、心を許す者は、一人だけ……」「心許す者は一人だけの友にしておけ。こいつになら殺されてもいい友を!」と助言します。生真面目な信長は、父のこの言葉を本気で胸に刻み、既にこのとき、その友は家康しかいないと思い極めてしまったのでしょうね。冗談があまり通じない本作の信長らしい行動と言えます。ともあれ、寝室で遠く見つめ、物思いに耽る今の信長は決定的に過去に向いています。



 時同じくして、家康もまた堺で物思いに耽っています。瀬名から託しかえされた木彫りの白兎を掌で包みながら、見つめ、三年前のあの日を思い返します。瀬名の「いいですか、兎は強うございます。狼よりずっとずっと強うございます。」という言葉が改めて、響きます。そして手の甲に口づけをしての「貴方なら出来ます、必ず」との愛の言葉が、彼の心を縛ります。あのとき、何が何でもその願いを叶えると誓った思い、そのために皆を巻き込んで準備を進めてきた三年という日々、それを思えば実行あるのみ、と思います。


しかし、お市から聞いた信長の真実が、安土城で「おれを討て」「やってみろ」と促した信長の静かで寂しげで、それでいて覚悟を決めた表情とシンクロしていきます。瀬名が彼岸にて、家康が「戦のない世」を実現してくれるのを待ってくれているように、信長もまた家康が天下を背負える男になること「待っててやるさ」と言ってくれています。
 二人とも家康に同じような優しさを持っています。その上で考えるのは、信長は独りで覇道の業を背負い、心の闇を抱え苦しんできた事実です。それだけに大きな器の持ち主であることも前回、家康は知ってしまいました。そんな彼を今、未熟な自分が近視眼的に討つことが、果たして正しいのか、その疑問に突き当たることでしょう。

 加えて、信長という苦しむ人間に手を差し伸べないのは、瀬名が願う「厭離穢土欣求浄土」だと言えるのでしょうか。家康は聞いていませんが、康政の「それが本当にお方様と若殿が願っていたことだったのか」という言葉どおりです。瀬名から託し返された木彫りの白兎に込められた願いを前にして、彼女の想いを間違った形で実現させることはできないのです。

 それでもなお瀬名の願いを今すぐに叶えたいという思いは強くあります。でも。実はそれが単なるエゴに過ぎず無謀な計画に過ぎないと言う気づき、二つの中で葛藤する家康はこみ上げる様々な想いに打ち震え、遂には絞り出すように絶叫します。松本潤くんの感情極まった表情が良いですね。そして、その叫びを静かに聞き、ひたすら待つ家臣たちの神妙な顔つきも。



 こうして、運命の日、6月2日がやってきます。早朝、本能寺は異変に包まれますが、それを知らぬ家康は、家臣団を呼び、木彫りの白兎の前で「情けないが決断できぬ…ここまで精一杯の用意をしてきたが、今のワシには到底できぬ。」と判断を伝えます。そこには、皆の期待を裏切ってしまったという家臣の気持ちを察する優しさがあります。そして、「無謀なことで皆を巻き込むわけにはいかん」とこの暗殺計画な杜撰さ、足りない点も素直に認めます。ここには家臣の命を優先する冷静さもあります。やはり、根っこの部分で彼は変わっていないと分かります。
 最後、絞り出される「全ては…全ては…全ては…我が未熟さ…」という言葉にようやく自身の無念、悔しさが滲み出ます。「全ては」が繰り返されるところに、家康の主君として「強くあらねばならない」という気持ちが出ており、こんな折にも彼の成長が垣間見えます。そして、信長ほどの相手、友であるからこそ、いすれ倒すにしても騙し討ちでは意味がないと気づいたのかもしれません。



 静かに待ち続けた家臣たちも、家康との思いは同じです。「我らこそ、殿の願いを叶えることができず申し訳ありません」と答える忠次と数正…家康の無謀を止めなければならなかった彼らの無念は、家康に同調していた忠勝、直政以上の忠義であったでしょう。そして、誰よりも信長討つべしとなっていた忠勝が、家康の前に静かに来て「いずれ必ずそのときは来る」と励まします。猪突猛進の彼も「時を待とう」と自ら言えるようになったんですね。強硬派の彼のこの言葉に周りも呼応し、「いずれ必ず」「いずれ必ず」「いずれ必ず」とリフレインするように続きます。
 そして、それらを引き取り、改めて、忠勝が「いずれ必ず天下を取りましょうぞ」と力強く誓います。この際、忠次が、家康の無念の想いの源が瀬名であることをきちんと理解して、そのときまで「お方様の思い大切に育みましょうぞ」と声掛けするのも巧いですね。


 何故なら、家康に「天下を取る」と思わせたのが、瀬名の想いが込められた木彫りの白兎ならば、結局、彼の無謀さを思い留まらせたのも木彫りの白兎。そして、家康と家臣団が現在の無力を認め、「いずれ必ず」と決意を新たにするのも木彫りの白兎の前だからです。瀬名の想いは静かに家康と家臣団の絆を深いところで友垣のごとく繋げている。今なお、徳川家の中で瀬名が生きているのですね。そして、この家康と家臣団の関係性こそが、信長が手にしなかったものです。
 本能寺で信長を暗殺するという家康の無謀を、お市から知らされた信長の真実と、瀬名の願いが込められた木彫りの白兎が食い止めた…瀬名とお市のクレジットが二番目、三番目なのも分かりますね。家康への彼女らへの影響力が大きい回だったのです。


 ただ今回、この場で天下を誓ったメンバー全員が、家康が天下を取った際に揃っているわけではありません。この場にいない元忠、親吉らも含めて何人も欠けていくことになります。苦難の道はこれからです。


 さて、信長暗殺を断念する家康は、穴山梅雪と出会い、言葉をかわします。この際、梅雪が述べた「主君を裏切って得た平穏は空しいものでござるな」の言葉で、大義を持ち真っ直ぐ天下を取らねばならないと判断した家康たちのあり方が、補強されていますね。そこにやって来る茶屋四郎次郎からの信長討ち死にの知らせ…驚く、家康たちにとって驚きは謀反を起こしたのが明智光秀ということです。
 「あ…明智??」という予想外そうな発言に、光秀が完全に空気化していたことが窺えますね。



 そして、光秀を全く意に介していなかった男が中国地方にいます。そう、秀吉です。おいおいと泣きじゃくる姿に嘘くささを感じた人も多いかもしれませんが、たぶん、彼、本気で嘆き悲しんではいるんですよ。全力で気持ちを吐き出すからこそ、一瞬で冷徹な策謀家に切り替われる。この二面性こそが、秀吉の恐ろしい部分であり、またこの感情豊かな面が人たらしという武器になっていると思われます。
 ところで、彼が大泣きした後に一瞬で冷徹に毛利との和睦を打診する、その変化の直後に、すぐ傍らの近距離に弟の秀長がいるというカットが挿入されました。やはり、弟の存在は重要です。彼の前だけでは隠し事なく、二面性も見せられるからこそ、秀吉はバランスが取れているのかもしれません。

 そして、家康が信長を討ったと思い、いきり立ったところで秀長に討ったのは明智と諭されます。「あ…明智??」こちらも、何のこと?と予想外過ぎて無表情です。



(2)過去に縛られる信長と未来に生きる家康

 多少、前後しますが、6月2日になった直後に信長は書庫のある寝所で目覚めます。アバンタイトルで映された場面です。悪夢と同様に襲い掛かる武者たちと戦いますが、背中から刺され致命傷を負います。そして、覆面をはぎ取るとそこには家康の顔が…ついに一番の友が自分を苦難から開放しに来たのかと歓喜する信長は「俺の代わりをする覚悟はできたか」と笑いかけます…が、それは彼の思い込みによる勘違い。実は夢うつつになっていた信長の妄想と本能寺が強襲された現実とが混ざり合っていただけでした。


 我に返った信長は謀反のため致命傷を負いながらも外に出て、積極的に迎え撃ちます。もう、ここのアクションは岡田准一くんの真骨頂です。既に致命傷を負っているのに、一突きで三人を串刺しにし、その後も次々となぎ倒します。圧倒的な強さで一人、敵を蹴散らしていきます。致命傷でこの強さは尋常ではありません。ターミネーターのようです。もしも無傷だったら明智軍を一人で壊滅して、歴史改変をしそうな勢い。ですが、出血からか徐々に意識が混濁していくようです。意識を朦朧とさせながら、家康が攻めてきたと信じ、「家康」の名を呼びながら応戦を続け、彷徨います。



 そんな中、お香を胸深く吸い、麻薬を決めているかのような恍惚とした表情で指揮を出しているのが光秀です。彼が焚いているお香は、正倉院にあり、時に権力しか削れないという蘭奢待かもしれませんね。信長が天皇の許可を得て蘭奢待を削り取ったのはよく知られ、その一部を分けて家臣に下賜したりもしている。ただし、光秀が下賜されたという話は聞いたことないので、あくまで想像の域を出ませんね。単なるお香であれば教養人を気取っているのでしょうし、本物ならば蘭奢待を焚いて天下人になった気になり、悦にいっているのかもしれません。

 とはいえ、饗応で受けた屈辱を家康に返すために「腐った魚詰めて殺したる」と息巻く様子には、最高に小者感が出ていて、酒向芳さんの演技の巧さが光ります(笑)



 光秀の命を狙われた家康はアバンタイトルどおり、既に伊賀越えを始めています。そうとも知らない信長は家康を探して、彼を呼び続けています。死期が近づく彼には唯一の友に看取ってもらうしかありません。家康もまた信長の突然の死に驚きが隠せず、彼が自分を友と思っていたことに想いを馳せ、名前を心のなかで呼び続けます。それぞれが違う場所で、それぞれの想いを抱えて、互いの名を呼び続けます。家康と信長は、ようやくお互いがその存在の大きさを認め合ったのですが、時は既に遅く、本当に彼らが再会することは物理的に出来ません。

 また、信長の存在の大きさを認め、未来に生き延びるため伊賀へと走り続ける家康と、過去に縛られ、唯一認めた友に止めを刺してもらうため彷徨う信長とでは、向いている彷徨は真逆ですから、本当は心理的にも二人は最後まですれ違うしかありません。


 ですから、信長は求める者を得られません。遂に敵将を見つけ「家康よ!」と走り寄ったその先にいたのは、恍惚とした光秀の面です。あまりの残念ぶりに出た一言「なんだお前か」には失笑した人も多かったのではないでしょうか。本能寺の変と言えば、光秀が攻めてきたことを知った信長が「是非もなし(仕方ない)」と言うのが定番ですが、ガッカリしている今回の信長は是非もなしとは思えませんよね。
    ただ、信長の自分がやったことの報いを受ける覚悟、諦観は、既に前回語られています。ですから、ここで「是非もなし」とわざわざ言わずとも、また「敦盛」を舞わずとも、その言動に込められた諦観はきちんと踏まえられていることは理解しておきたいところです。

 さて、そんな彼を尻目に「貴公は乱世を鎮めるまでのお方。平穏なる世では、無用の長物!」と謀反を起こした大義名分の口上を滔々と述べますが、信長からの返答は「やれんのか、キンカン頭!」…だ…ダメだ…爆笑…信長の台詞として永遠に残る台詞ですが、彼からしてみれば、家康に言った通り、多くの人を殺した痛みと苦しみと恨みを受ける天下人の業を引き受ける覚悟のある者だけが自分を討つ資格があるのです。おそらく一晩考え抜いたであろう美辞麗句の口上を並べ立てるだけの中身も志もない光秀は問題外なのでしょう。一応、光秀の名誉のために言えば、本作の光秀も教養人であり優秀な人物です。しかし、あくまで能吏型の人間であり、誰かの参謀、実務担当として能力を発揮するタイプ。一軍の将にはなれても、将の将たる天下人の器ではないのです。

 信長は、「くそたわけ」(何故か美濃人の彼だけが正しい尾張弁ww)と絶叫する光秀を残して、奥に行き、炎に消えます。一説に信長は、本能寺の変にて「遺体を敵に渡すな」と言い残し自刃したとされますが、その理由は「自分を討って良いのは、唯一無二の友、家康だけだから」というブロマンス的なものになりました。それは、ようやく、互いの存在を認め合ったが、結局はすれ違わざるを得ない本作の家康と信長の関係には相応しいかもしれません。
    因みに信長の遺体を埋葬した阿弥陀寺は、織田家がないがしろにされている秀吉主催の信長の葬式に遺骸を引き渡さなかったとか。本作ならば家康以外には引き渡さない遺言もありそうです。

 三英傑から空気のごとく扱われ、その存在を忘れられていた光秀に足元を掬われ、人生最後の願いも叶わず炎の中に消えた信長。そして、無謀な謀叛で悪名が残った光秀。歴史というものは思った以上に悲劇的であり喜劇的です。



 さて、信長の死を受け、ひたすら逃げ続ける家康は、信長から幼少期に教わった武芸、「この世は地獄だから強くあらねばならぬ」という信長からの教えを胸に、落ち武者狩りたちと戦い続けています。信長との思い出を思い出しながら、「信長、あなたがいたからじゃ、あなたに地獄を見せられ、あなたに食らいつき、あなたを乗り越えようと」した、そして「弱い臆病者がここまで生き延びられたのはあなたがいたからじゃ」と心中で声をかけます。

 家康には義元から学んだ政治的理念、瀬名から託された「戦のない世」という理想があります。しかし、戦国の世でそれらを実現させるには、この世という地獄を地獄として受け止め、そこを何としてでも生き延びようとする力と知恵、狡猾さ、そして強い意思も必要なのです。分かっていてもそれを認めたくなかった優しい家康が、彼の死をとおして、改めて信長の影響力の大きさ、その教えを自分の理想を叶えるための力とすることを誓っているのです。

 かつて、家康は「お前を食らってやる」という信長に「竹千代がそなたを食らってやる」と言い返していますが、信長を殺すのではなく、彼の教えを食らい血肉にすることで、生き抜く力としたと言えるのではないでしょうか。
   家康は信長との約束を守り、未来に生きます。だから家臣たちに「誰も死ぬな生き延びるぞ」と呼びかけ、力強く進みます。そして、去っていく信長を間近に感じた家康は「さらば狼、ありがとう我が友」と万感の思いを込めて呼びかけます。

 

 最後にアバンタイトルのアニメーション、お互い飛びかかるような兎と赤い狼、その絵柄の意味を改めて考えてみましょう。一つは、この二匹が向かい合っているという点がポイントですね。お互いに惹かれ合った家康と信長がようやく精神的に向かい合えるようになったということを指しているのでしょう。
  そして、もう一つは「かつて対等に相撲をした竹千代と信長」という思い出ですね。赤い狼は当時、赤い装束を着ていた信長でしょう。幼馴染だった二人が紆余曲折を経て、向かい合う準備らしきものができたときには、時、既に遅く、すれ違うしかなかったのが哀しいですね。叶わなかった二人が共に仲良く生きる様がアニメーションの中だけでも実現されているのかもしれません。



おわりに

 前回と今回をとおして、家康は信長が自分を友として認めてくれていたことの真意を知ります。そして、自身が弱さだと思っていた美徳を一番、否定していたはずの信長にすら必要とされていたことを理解します。自分の持っているものの価値を改めて知らされるのです。そして、その自身の美徳、瀬名の願いからよく考え、光秀のような失敗をすることを回避しました

   また、その過程で、信長に対して素直な気持ちが湧いたことで、逆に信長を理想として追い続けていた自分自身をも再度、見つめ直します。家康にとって、義元の理念も瀬名の理想も、そして信長が教え込んだ地獄での生き方も必要であったことが分かってきました。それらが全て噛み合ったとき、家康独自の天下取りへの道が拓けてくることになるのだろうと思われます。

  そのことを理解するためには、本作では、本能寺の変をとおした無謀な信長暗殺計画という未遂の大失敗が必要だったのでしょう。その代償は伊賀越えで払うことになりますが、さてどうなりますか。予想通り、あの男が帰ってきますね(笑)

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