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「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由

はじめに

 第32回は徳川四天王揃い踏みのカタルシス、これまで観てきた視聴者へのご褒美回でしたね。

 『どうする家康』では、家康だけを描くのではなく「徳川家」(家康と家族と家臣団)がどう名実共に形になっていくか、その関係性の変遷を長きに渡り積み上げてきました。その過程は順風満帆とはほど遠く、外圧による滅亡あるいは解体の危機は無論のこと、家臣との軋轢、家庭の不和、謀反と内側からの崩壊の可能性が何度もありました。
 ガタガタ、凸凹の徳川家の姿から徐々にまとまっていく様子を追っていたのが本作の特徴の一つでした(その変遷が内容だけでなく、各自の衣装の移り変わりにも表れていたのが巧いですね)。

 そのため、情けなく不甲斐ない家康、我ばかり強く未熟で頼りにならない家臣団という後世のイメージからは遠い姿が多く描かれることになり、それを歯痒く感じる視聴者もいたことでしょう。
 そうした中で悩みつつも軸がブレなかったのが瀬名です。彼女は「一つの家」を守ると決めた家康の思いに寄り添い献身し、その死をもって、結果的に家康と家臣団を「戦のない世を作る」という方向へまとめあげました。徳川家は瀬名によって、その目的、経営方針が定まったと言えます。
 だから前回は「乱世を鎮め、安寧な世の中をもたらすのはこのわしの役目」という家康の言葉によって天下取りの大義が確認されたのです。

 その大義の元、各自が有機的につながり、皆まで言わずとも組織として動けるように成長した「徳川家」の実態を描いたのが今回です。待ちに待った「徳川家」の完成形です。

 そして、そのカタルシスが最大限になるには、これまでの積み上げだけでなく、圧倒的な強敵の存在が欠かせません。単に家康たちが無双するだけでは駄目なのです。今回も秀吉たちとの互角の心理戦という駆け引きがあればこそ、終盤の中入り殲滅戦がクライマックスとして仕上げられるのです。


 しかし、これまでの『どうする家康』の勝ち戦がそうであったように単純なカタルシスでは、やはり終わりませんでした。皆が勝利に酔う中での数正の「されど秀吉には勝てぬと存じます」に始まる懸念で幕を閉じます。これは、第32回が、徳川軍の精強さを描くだけでなく、それによってその対比にある秀吉という人物の本質が何かを描く回だったことを意味しています。


 そこで今回は、これまでの集大成としての徳川軍の精強さの描かれ方とそれに対する秀吉の反応を見ながら、数正の懸念がどこにあるのかについて考えてみましょう。




1.「檄文の高札」への反応から見える秀吉の本音

(1)榊原康政の逸話が生まれるまで

 冒頭では、小牧山城下での堀作りを強調しつつも、楽田城に構える秀吉との対峙が「にらみ合うこと数日」(ナレーション)と膠着状態であることが語られます。この膠着状態は、前回、康政が5日間で小牧山城を土塁や堀、虎口、防柵などを備えた防衛に特化した陣城へ改修したからこそ、できたことです。因みにこの康政が立てた防塞戦術は、かつて信長が設楽原で武田の騎馬軍団の掃滅させたものの応用です。あの戦いは、きちんと徳川家の血肉になっているのですね


 とはいえ、戦力差が大きいことに変わりはありません。総勢10万とも言われる秀吉の陣容に圧倒され、焦りと恐れからイラつく信雄が物見台から評定の場に戻り、上座に座ります。実質的には、家康VS秀吉のこの戦いですが、あくまで総大将は信勝だからです。こうした総大将の落ち着きの無さとは対照的な家康が現れます。今回は終始、信雄が、貧乏揺すりをしたり、居眠りをしたりと状況によって一喜一憂の千変万化で小者感を見事に出してくれますが(浜野謙太くんがハマり役!)、これによって、泰然自若とした家康の壮年期の充実も際立ちます。


 さて、怯えた信雄の「あれだけの軍勢をどうする?」を口火に軍議が始まりますが宿老、石川数正が和議を前提として、戦いを優位に収める献策を口にしますが、下座側の卓に控える忠勝が「和議だと?!」と異を唱えます。これに「数が違い過ぎるでな」と応ずる数正の理由は真っ当なものです。兵力差がある戦いで、少数側が敵の殲滅を図ることは不可能です。となれば、決定的な痛打から優位な条件で早期講和を結ぼうと考えるのは賢明です。長期戦になれば、少ない兵力の側がジリ貧になるのが明白だからです。


 一般に連合艦隊司令長官だった山本五十六が太平洋戦争で早期講和を考えていたと言われますが、真偽はともかくそうした説が出るのも、そこに妥当性があるからです。
 もっとも、現実には日本は初戦の勝利に酔い拡大路線を取りますし、また真珠湾攻撃後、強硬路線を英国と確認していた米国は、万が一、日本から講和の申し出が出ても突っぱねたでしょう。ですから、開戦に踏み切った時点で日本の敗北はある程度、見えていたのです。収め方をきちんと定めずに起こした戦争の末路が悲惨であることは、歴史が証明しています。


 このように戦争は起こすよりも収めるのが難しい。まして相手は秀吉です。前回、数正は家康の代理で秀吉の元へ戦勝祝いの挨拶に行き、その日々高まるその権勢、本音を見せない秀吉の狡猾さを目の当たりにしています。勝って和議を結ぶにしても、足元を見てくることは分かっているはずです。
 そう考えると、数正のこの発言は決して弱腰ではなく、戦後、家康側の窓口、交渉役となる彼の覚悟も含んだ進言であると言えるでしょう。彼だけは、小牧長久手の戦いの戦後を見ているのです。思えば、数正は前回も各々が士気を上げる中、「猿を檻にいれましょう」とは言いましたが、「猿を倒しましょう」とは言っていません。そこまでは無理だと悟っているのでしょう。


 しかし、前回の「異存なし!」の団結から士気の高い家臣団、特に戦場で矢面に立つ忠勝、康政、直政の若き三将は、秀吉軍は大軍であっても烏合の衆と見ています。それどころか、全軍の全面衝突さえ避ければ、策と自分たちの頑張りで勝てると確信しています。
 まして、この戦は、前回の評定で確認したように「乱世を鎮め、安寧な世の中をもたらす」ための天下取りのための大戦です。家康に天下を取らせなければならない、一歩の引けないこの戦では、秀吉を徹底的に潰す必要があると彼らは考えています。

 だからこそ、数正の和議前提の献策を弱腰とみて、口々に反論します。挙句、「勝利あるのみ!」と断言する忠勝は、数正に和議のような弱腰の言葉は「二度と言わないでくれ」と懇願します。腰抜けのように言われた数正は、流石に気色ばみ、反論しようと腰を浮かしますが、それを家康が制します。

 前回触れたように、今の家康の想いは忠勝と呼応しています。ですから、ここでの忠勝の言葉は家康の真意でもあります。また、戦力差のある戦いで上がっている士気を罵り合いで削ぐことも得策ではありません。どのみち、まずは目の前の秀吉軍に勝たなければ、話は始まらないからです。ですから、家康は冷静にイカサマ師、正信に膠着状態を打開する策を問います。


 問われた正信は、秀吉を刺激する罵詈雑言で「焚き付けてみるか」と面白がるように進言します。悪口で秀吉を挑発し、判断を鈍らせようとするとは安易なようですが、「三国志演義」で馬謖が言うように「用兵の道は、心を攻めることを上策」としていますから、心理戦は寧ろ大切なのです。そして、その悪口を檄文にして高札として立てることにします。

 これが、『藩翰譜』などに逸話として記され、山岡荘八「徳川家康」でも名場面として採用されている、榊原康政の「檄文の高札」なるのですが、言い出しっぺが、本作では比較的真面目な康政ではなく、実は本多正信というのが「どうする家康」らしく、そして、それが康政の逸話になったのは、「字が上手いのは小平太じゃ」と正信が、康政に書きつけるのを押しつけたからだったというのが巧いですね。
 というのも、大樹寺で書をよく学んでいた康政は、家康の書状の代筆もしていたと言われているからです。「どうする家康」でも彼の初登場は大樹寺でしたから、これは納得できるところで、康政の能筆家としての逸話も回収しているんですね。


 さて、まずは思いつくことを出し合いまとめようということで、口火を切るのは口八丁の正信で「羽柴秀吉は悪逆非道!」とイカサマ師だけに芝居がかった軽妙な口調がらしいです。続く直政は、元は悪童・万千代ですから悪口はお手のもの、負けじと「秀吉の言い分に一片の大義もなし!」と張り上げます。
 が…好きな殿には言いたい放題の忠勝は、本来の愚直で真面目な性格が災いして、言葉に詰まった挙句…「秀吉はたわけ」と普通のことしか言えませんでしたね(笑)憐れむような顔でスルーした正信がおかしい。

 最後は康政が「秀吉は信長公のご恩を忘れ天下をかすめ取ろうとする盗人!そもそも草むらよりいでたる卑しき身の上!野人の子!!」と理に適った文言で朗々と語ります。それぞれのキャラクターのらしさを見せながら、学のある康政のエスプリの効いた言葉を檄文の軸になるという構成が巧いですね。そうして出来上がった「檄文の高札」の文言は以下のものとされています。


   それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
   然るに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、
   その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、
   今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、
   我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、
   信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり


 ポイントは二つで、一つは、秀吉の出自の問題です。これまでのnote記事でも度々、秀吉が出自のコンプレックスを持っていることは触れてきましたが、史実の秀吉にとっても後々、経歴を改竄しているほどですから、明らかにタブーです。そして、もう一つは信長の恩義を忘れ、主家を乗っ取る不忠の簒奪者。武士の風上におけないということです。つまり、「秀吉は出自の卑しいゆえに武士の何たるかも心得ていない愚か者」というわけです。


 この檄文を書状として各地の武士たちにバラまき、また各地に高札を立て庶民たちに知らしめます。秀吉の世間的な信用を落とすネガティブキャンペーンを繰り広げたということですね。
 現在の選挙戦でもよく見られる手法ですが、存外、これがバカに出来なかったりしますね。寧ろ、SNS時代の今のほうが効果的かもしれません。康政のこのネガティブキャンペーンが巧妙だったのは、高札を立てたのが小牧長久手など織田家の所領という点です。織田家寄りの領民の気持ちも突いているから、流言飛語がより効果的になります。

 因みにこの文面が書かれた高札を、岡崎市の桜城橋にある榊原康政像も持っていますので、東岡崎駅から岡崎城へ向かわれる際には、是非、そちらでも確認してみてください…と元・岡崎市民の私として地元の宣伝もしておきます(笑)



(2)「檄文の高札」に秀吉は激怒したのか否か?

 勿論、この高札は、池田恒興(勝入)から秀吉の元に届きます。薄ら笑いをして余裕を見せつつ「読んでみやあ」と言う秀吉に、流石に秀長は「やめといたほうが…」と兄の気持ちを慮りますが「いいから読みゃあ」催促します。そこで、池田恒興が朗々と読み上げますが、内心楽しんでいることが恒興の表情から丸わかりですね。前回示された、気前がいいから秀吉に着くだけで秀吉自体は嫌いだという彼の本心が表れています。無論、そんな彼の様子など秀吉はお見通しなわけですが…

 聞いた秀吉、「なかなかの文、なかなかの文、榊原という奴、筆が立つのう」と恒例の嘘泣きをして動揺したふりをしつつ、真顔に戻り「このような文で、わしを怒らせられると…はっはっはっ…」とその手には乗らぬと笑い飛ばします。兄の反応にほっとした秀長が、合いの手を入れ、気遣うように彼に合わせて笑うのを見ると毎度、大変だろうと察します。
 そして、「まっと!まっと!まっと!まっと!…ひでェこと、言われ続けてきたんだで?」という言いながら高札を叩き割る秀吉の言動には複雑な胸中が察せられます。
 一つは、康政の檄文は美しい文字による美文だけに如何にも売り言葉であり、本当の激しい罵倒を受けてきた自分には効かないという言葉通りの皮肉です。


 しかし、言葉とは裏腹に彼は高札を激しく、粉々になるまで叩きつけます。康政の檄文によって、これまで受けてきた激しい罵倒が彼の中に蘇ってきたのでしょうね。身分が卑しいというだけで激しく虐げられ、酷い目にあってきた秀吉とその家族。秀吉は一家の稼ぎ手として矢面に立ってきたはず。内面は腸の煮えくり返る思いを抱えながらも、生きていくために目の笑わない笑顔も身に着け、己の才覚だけで乗り切ってきたのでしょう。
 積もり積もったその恨みと憎しみの激しさこそが、彼の際限のない欲望の原動力になっていることが察せられます。

 他人のものも全て奪わずにはいられないし、自分を蔑んだ者たちには死んでほしいし、自分を称えてもらうために家柄ロンダリングもしたい。家康への憧れと憎しみ、最強の武士たちが死んでいく様を嬉々として笑った思い、織田家の血を欲する思い…その根源が恨みと憎しみにあることは薄々描かれてきていました。それが、康政の檄文で露わになったと言えるでしょう。思い出しただけで激情が止まらなくなります。


 となれば、やっぱり「檄文の高札」は直接ではないにせよ、秀吉の心に刺さったことになります。「このような文で、わしを怒らせられると…」と上司が言ったときは、大抵、マジギレしているので要注意ですが、秀吉の場合も同じです。いや、寧ろ拗らせた形での怒りですから、余計に性質(たち)の悪いことになっているでしょう。
 逸話では、秀吉は「檄文の高札」に激怒し、康政に10万石の懸賞金をかけたとされますが、その逸話の怒りを「どうする家康」では、秀吉の欲望の背景にある負の感情を表現することに使ったようです。


 とはいえ、一端、吐き出してしまえば、こうした罵倒への対処に慣れた秀吉は、冷静かつ冷酷な元の彼に戻れます。ですから、「檄文」は秀吉の判断を鈍らせる実質的な効果は出なかったことになります(康政をとおして、家康への憎しみは強くなったかもしれませんが)。嘘泣きも高札を叩きつける怒りも、彼なりのメンタルコントロールの一つなのかもしれません。

 そして、「人の悪口を言っている人間は、自分の品性が乏しいことを白状しているようなもんだわ」とどの口が言うのかというような正論を言います。現在のSNS上で広がり続ける誹謗中傷を揶揄するようでもある文言ですが、この場合は、家康側に一杯食わされた秀吉の負け犬の遠吠えのような捨て台詞ですから、深読みするようなものではないでしょう。

 それよりも、こんな捨て台詞を言うしかない兄の心中を察し「そうだわ。兄様。信用を失うんは、徳川のほうだて」と気遣う秀長の微に入り細に入るフォローのほうに感心します。自分たちの生活を支えるために苦労してきた兄への敬意、そして人の気持ちに心を砕く気立てと優秀さで、不安定に心情を爆発させる秀吉のダメージコントロールをしていますね。
 秀長が豊臣政権の柱石となるのは間違いなく、また彼の存在がいなくなった後の秀吉が急速に翳りを見せるだろうことも予感させますね。


 さて、この「人の悪口を言っている人間は、自分の品性が乏しいことを白状しているようなもんだわ」の言葉にようやく、それに合わせて共に高笑いするのが恒興です。互いに哄笑することで絆を高め合っているように見えますが、この恒興を、柴田秀勝を敗走させた賤ヶ岳の戦いで名を上げた秀吉子飼いの武将たち、加藤清正と福島正則が苦々しく見るというカットが挿入されることで、ここで秀吉が部下に求めているのは笑いでないことが察せられます。
 しかも、先の恒興の様子から、この笑いには秀吉を見下す嘲笑が入っていることは言うまでもありません。そして、そのことを見抜かない秀吉ではありませんね。

 このように、家康たちが向かい合った秀吉軍を倒すため一致団結していることに対して、秀吉は家康と向かい合いながらも、この先、織田家の宿老という目の上の瘤のような池田恒興をどうすべきなのか、そうした見極めをする政治も同時に行っています。信用できる者ばかりでない中で生きてきた秀吉は目の前の局面だけでなく、戦いを終えた後のことも考えているのです。



2.徳川家中の結束力と秀吉軍内の不穏

(1)秀吉にとって邪魔な織田家の遺臣たち

 なおも膠着状態が続く中、家康は「正信、お主が秀吉ならば」どう攻めるかと聞きます。先に数正を制したときといい、ここでも家康は適材適所とばかりに正信を軍師として扱っていますね。三河一向一揆と伊賀越えを通して、互いの本音を知っているからこその関係です。
 更に、ひねくれて人を騙す彼ならば、得体のしれない秀吉の思考に近づくことができるだろうという期待があるのも面白いですね。徳川家家臣団は良くも悪くもお人好しの傾向がありますから、それに染まらない正信の異質さは貴重です。

 

 そして、「それがしならば、ここを攻めますかな」と岡崎を示します。「ふざけたことを…」と偽本多(正信)につかみかかる忠勝も、他の面々も、正信の言葉にはっとするのが良いですね。彼が周りからまだ仲間と心底思われているかは微妙なものの、その有能さで家中でのポジションを築きつつあるのが見えます。
 家康は主力のほとんどを秀吉との決戦に投入し、本拠地である三河は手薄になっているため、ここを攻められれば、小牧長久手で籠城するわけにはいかなくなります。秀吉軍という大軍と戦うための、戦力集中が裏目に出た形です。まさに数正が指摘した戦力差の問題です。だからこそ、数正が「いかがしますかな、殿」と問いかけるのです。

 その後、冒頭にもつながる堀作りの場面が挿入されます。自身も泥だらけになりながらの康政の「図面のとおり掘れ!」という命には、何らかの策が示されたことが分かりますし、人足姿の忠勝が家臣を励ます様には、その策が家臣団総出で当たらねばならぬ必勝の秘策であることも見えますが、それが分かるのは後半になってからです。


 

 さて、楽田城には、池田恒興と森長可が「儂らに策がある」と、徳川方が察している三河、岡崎への奇襲を提案します。「中入り」のテロップが入りますが、改めて「中入り」を説明すると、対陣している敵に対して、一部の兵力を使って、敵陣の弱点、あるいは思いもよらなかった地点を奇襲すること、敵の虚を突くことです。一説には信長が桶狭間の戦いで使って以降、そう名付けたというような話もあったりしますが、「中入り」という言葉は江戸期に入ってからの言葉だとも言われます。とはいえ、小牧長久手の戦いでの「三河中入り」という言葉は、現在ではよく使われます。


 この策を思案気に聞く秀吉は「中入りは本来、良い策ではない」と返し、本陣を割く危険を説きます。この秀吉の逡巡は当然です。仲入りは奇襲です。奇襲というのは結局、リスクの高いもので本作の信長にしても「桶狭間は二度と起きんか」というほどです。このときの秀吉の場合は、近々に柴田勝家が、賎ケ岳で甥の佐久間盛政が用いて大敗、北ノ庄城落城の原因となった大失敗を見ていますから尚更、危険視するわけです。



 しかし、恒興は、秀吉たちの本陣を割らずとも自分たちの手勢だけで成功させると豪語し、それでも応じない秀吉に業を煮やすと、彼の耳元で「このわしがいるから織田勢が着いてきていることを忘れんでくれ」と囁き、自分の面子を守るよう脅します。秀吉の面子を潰さないような配慮をしているものの、とどのつまりは自分を立てぬようならいつでも信雄の元へ裏切るぞということです。

 秀吉の出自に対するコンプレックスを知った上で、織田家中での自分の家柄の高さを傘に着た態度は、秀吉へのあからさまな侮蔑でもあり、忠誠心の無さでもあります。秀吉の権勢の程度を理解しないその傲慢さに秀吉もまた「そういう言い方はせんほうがええ」と囁き、警告します。このやり取りは、秀吉にとって、恒興を始めとする織田家の遺臣は獅子身中の虫であることを明確にしていますね。勝家同様、いつかは邪魔になる存在なのです。

 とはいえ、この場で離反された場合、秀吉軍はあっという間に瓦解してしまいますから、秀吉は大事な戦だから一晩考えさせてくれと、彼らを引き下がらせその場を収めます。



 恒興が去った後、秀吉は秀長に「中入りはわしもとっくに考えとったがや」と溜息をつきます。というのも、奇襲である以上、情報統制をして秘かにやることが肝要ですが、自分の手柄を喧伝したがる古いタイプの武人である池田恒興は、始める前から豪語して「兵に言いふらしとる」と察せられるからです。果たして徳川に気づかれないようにそれが行えるのか、思案のしどころになります。
 また、よしんば中入りを実行するにしても、恒興に大手柄を立てさせて、家中での発言力を強めさせるのも賢明とは言えません。今のような脅しをかけてくるのは必至だからです。

 秀吉軍を寄せ集めと言ったのは康政ですが、彼の見立てどおり、秀吉軍の陣中はバラバラです。秀吉は、織田家の遺臣が自分を信用し、忠誠を誓っていないばかりに、思うままに動かせていないことに苛立ちます。



(2)全ては殿のために

 一方、小牧山城では相変わらず、土木作業に懸命です。「♪どっこい、どっこい」との歌が響き、皆が自分たちを鼓舞しています。そんな中、バックヤードのようなところで作業もせず、でかい握り飯をほおばっているのは、肉体労働をとことんサボる正信です。そこに、表れた直政は、意を決したように正信に「昔、殿のお命を狙ったというのは本当か?」と問い質します。ストレートな質問に訝りながらも、正信はあっさり認めます。そして、直政も「バカな小僧だった頃」、家康を襲撃し悪態をついたことを告白します。あの頃をこうやって思い出し、人に話せるようになったところに直政の成長が見られますが、驚くのは正信が「鷹狩のときに見出されたと聞いておったが」と言っていることです。


 この「鷹狩のとき見出された」というのは、『井伊家伝記』に記載されている家康と万千代の初鷹野の出会いを指していますが、「どうする家康」ではそうでないことは皆がよく知るところ。にもかかわらず、公式の出仕をそのように流布しているということは、家康が、あの襲撃が直政の出世の足かせとならぬようなかったことにしたのでしょう。家康の優しい配慮が窺えますね。それだけに直政は感謝と共に「殿は何故、我らのような者を許してくださるのか?」と疑問に思い、同じ境遇で知恵者である正信に問うのです。


 彼ら自身は、自分たちが何故許されたのか、本当のところは分かっていないようですが、実は劇中ではそれははっきり示されています。まず、三河一向一揆での処分のときの家康と正信とのやり取りを思い出しましょう。正信は、領民を救えていない家康の口だけの理想について殿が……お前が、民を楽にしてやれるのなら、だ~れも仏にすがらずに済むんじゃ」と糾弾し、本證寺を攻めたことについて「民から救いの場を奪うとは何事じゃ、この大たわけが!」と一喝します。この正信の言葉は、三河に住む領民たちの思いを代弁するものでした。

 だからこそ、彼は「とうに悔いておる」と号泣し、自らの過ちを認めます。言うなれば、三河一向一揆における空誓や正信とのやり取りは。家康が領民の本音を受け止めた最初でした。そして、それは義元から学んだ「天下の主人は民」を本当の意味で理解したときでもあります。だから、彼は三河を永久追放で留め、後々は帰参を許すのです。このことは、初期のnote記事でも触れています。


 そして、万千代の襲撃ですが、悪態をつく万千代を「もう我慢ならん」と処断しようとする元忠を止めた家康は、その理由を「この者は遠江の民の姿そのものなのだ」と述べています(第16回)。これは三河一向一揆での苦い経験が活きているからこその発言ですが、ここでも万千代が許されたのは、遠江の民の代弁者だったからです。
 つまり、双方とも領民の代弁者だったから、家康は己の不徳を認めて許したのです。しかも、二人の許された件が、静かに響き合っているという回収のさせ方巧いですよね。今回のこの会話のために、それぞれのエピソードが作られていたのかもしれませんね。古沢脚本ならありそうです(笑)


 二人の件が響き合うからこそ、家康の真意は分からずとも、正信は「恨んだり憎んだりするのが苦手なんじゃろ、変わったお方よ」と、その人間性を理解した返事をします。この正信の「恨んだり憎んだりするのが苦手」という言葉は、瀬名が家康に見ていた「弱くて優しい」家康の本質を言い換えたものです。
 そして、今回、秀吉が露わにした飽くなき欲望の根幹にある、積み重ねられた恨みと憎しみとは真逆にあるものです。二人の心性の違いが、目指す世の中という将来へのビジョンの明確な違いとなっていくと思われます。


 ですから、直政は、家康の人間性を信じ、「戦なき世を作るのはそういうお方なんだろう」と言います。これは、直政が家康に仕えた理由「民を恐れさせるより、民を笑顔にさせる殿様のが、ずっといい。きっとみんな幸せに違いない」(第20回)という初心に繋がっていますね。直政は、心から家康を信じて、出仕して良かったと思うのです。だからこそ、家康の願いを叶えるため、「ご恩に報いてみせる」と決意できます。正信とのやり取りをとおして、これまでの万千代→直政への半生を総括するような一幕ですね。

 せっかく響き合った二人のオチがサボる正信に随分年下の直政が「やれ」と𠮟りつけ、「へい」と答えさせるところはお笑いですが。なおも「♪どっこいどっこい」をバックに飯を貪る正信は、直政をとおして見える家康の人徳に何を思うのか。その表情は意味深です。




 さて、直政の一幕が終わったところで、ようやく、堀作りと思われたこの土木工事が何なのか、軍議の席で「どうなされますか」と数正に問われた、その答えが描かれます。果たして家康たちの判断は、秀吉に気づかれぬよう小牧山城を出陣し、秀吉方の三河中入りを潰すという、相手のお株を奪う奇襲作戦でした。そして、既に小牧山城の作り換えを成功させている康政に、再度、秀吉に気づかれないようにしながら、抜け道へと作り直すことを厳命します。康政がやる気を見せて応えた成果を家康が認めているからこその命令です。早速、彼は図面を引き、家臣総出で突貫工事に取り掛かります。ここで「図面のとおり掘れ!」の台詞が回収されます。


 図面を見つめ確認する康政に、盟友、忠勝がお主にこのような才があると思わなかったとその知恵者ぶりに心底感心したと声をかけます。康政は薄く笑いながら「お主に追い付き追い越すのがわたしの望みだが、どうやらお前には叶わぬ、ならばおつむを鍛える他なかろう」と、こちらもまた忠勝を心底認めている言葉を返します。初めて忠勝の配下として戦に加わったあの時の思い、その後、肩を並べて戦うようになってからの切磋琢磨、それぞれが一軍を預かるようになってからの将としての競い合い、それを思い返すような文言が巧いですね


 共に背中も預けられる相棒だけに、かすり傷一つ負ったことがないという忠勝に「お主が気づいておらんだけだろう」と返す、軽口の応酬があるのも良いですね。そして、その上でかすり傷一つない話について「それを信じた大勢が震えあがっておる」と誉めそやします。忠勝は自身の武勇伝が広まっていくことで、無駄な犠牲を出すことなく、戦いを進めるようになってきているのですね。猪突猛進なだけでない、花も実もあるまさに徳川の守護神に成長しているわけです。
 その言葉に、愚直な忠勝は「まだまだ死ぬわけにはいかん、殿を天下人にするまでは死ねん」と決意を新たにし、それに康政も呼応します。名誉の戦死を願うあの若武者ではないのです。先の直政同様、この二人のこれまでの半生もまた総括されていきます。

 そして、再び響く「♪どっこい、どっこい」の囃子歌に、家康を天下人にして、安寧の世を築こうという家臣たち全体の想いがまとまっていくよう演出されています。この抜け道こそは、家康必勝の策。それを一致団結して築いているのです。家臣団が阿吽の呼吸で会話を連ね、それぞれが成すべきことを成し、それらが全てつながっているのが良いですね。三河時代の「ぐっちゃっぐっちゃ」(数正)の頃のコミュニケーション不全が懐かしくなるほどです。




 対する秀吉側からは、家康勢は相変わらず堀作りに精を出し、守りを固める臆病者にしか見えていません。呆れたように、秀吉は池田恒興の進言どおり、三河中入り勢として3万の軍勢を差し向ける決意をします。この秀吉の判断は、家康側の動きを読み誤った結果ですが、それだけではないと思われます。

 池田恒興の脅しとも取れる進言と陣中で中入りを言いふらす状況から、諸将や兵たちの間には膠着状態に対する倦怠の気があり、不満の声が出ていると察したのではないでしょうか。秀吉にしては拙速とも思えるこの判断は、秀吉軍の寄せ集めの欠点が出た結果です。全体に活を入れ、不満のガス抜きをするには、中入りをやらせる以外になくなっているのです。

 一方で、先に述べたように恒興に大手柄を与える愚は犯せませんから、既に秀吉に忠誠を誓い羽柴姓を賜っている堀秀政を加え、甥の秀次を総大将に据えることで秀吉の面子を保ちつつ、恒興を牽制しています。
 この陣ぶれを聞き、一瞬、映った恒興の顔が不満げなのが印象的です。しかし、それでも文句が言えないのは、この秀次に自分の次女を嫁がせているからです。秀吉は縁戚関係を使って、恒興の頭を押さえたのです。巧妙な陣ぶれと言えるでしょう。ともかく、元々、戦をしたくてたまらない血の気の多い恒興と長可ですから、決まれば勇んで出陣します。


 そして、自分の判断に酔う秀吉は、「さあ~、岡崎を灰にしてまうか?どうする家康?」とかつて、主君の信長が浜松城で臣下になるか否かを迫ったときのあの台詞を嘯きます。あのとき、秀吉はあの場にいましたからね、自分もいつか言ってみたい台詞になっていたかもしれませんね(笑)作品としては、家康より優位に立つ天下人だけに許される台詞ですから。まあ、家康ファンの方々にはカチンと来るかもですが(笑)




3.徳川四天王の覚醒と数正の憂鬱

(1)徳川三傑の勇壮と勝利

 貧乏揺すりをして落ち着きのない信雄が見切れているカットの直後に、秀吉軍の三河中入りの報が入ります。「案の定じゃな」とほくそ笑む家康は、抜け道の完成を急がせます。貧乏揺すりをしていた信雄はあ、家康の目論見通りと分かると、夜が更けてきたこともあってか、今度は居眠りを始めています。呑気なものです(笑)


 そして遂に抜け道が完成し、家康の元へ、陣頭指揮を取った忠勝、康政、直政を始め、泥まみれになった多くの家臣たちが終結します。疲れを見せるどころか、いよいよその時が来たという決意に満ちた名もなき家臣たちの顔つきの凛々しさが光ります。派手なことを好むでなく、ただ自分のやるべきことをして、地道に努力し、戦に備えて戦い続けてきた徳川家の精強さが、生き死にの戦場以上に体現されているのですね。

 だからこそ、そんな家臣団に家康も応え、士気を最大限に高めるため、家臣たちに力強く語りかけます。実は、今回、見せ場は割と少ない家康なのですが、要所要所を押さえる演出と、この終盤の名演説で一気に主人公感を出していますね。

   弱く臆病であったこのわしがなぜここまでやってこられたのか。
   今川義元に学び、織田信長に鍛えられ、
   武田信玄から兵法を学び取ったからじゃ。
   そして何より良き家臣たちに恵まれたからに他ならぬ。

 今川義元からは王道という理想を(これは今川の姫であった瀬名により更に上書きされます)、信長からは過酷な地獄を生き延びる術と覚悟を、そして、信玄からは巧みな軍略を…家康の万感の思いもまた、彼の半生を総括していますね。そして、この言葉は家臣と共に歩み続けた苦難の道そのものです。だからこそ家臣の存在に「礼を申す」という言葉が、家臣にも、視聴者にも真実の言葉として響きます。
 これは、徳川家の主としての家康の想いと、演ずる松本潤くんの「どうする家康」座長としての想いが上手くシンクロしている面もあるように思われます。

 建前と本音が見え隠れし、そのギスギスした上辺だけの関係性が見える秀吉軍の出陣とは対照的ですね。

 そして締め括るように、この戦を「我らの最後の戦にせねばならん」と決意を語り、今一度の最後の奮闘を頼むと「我らが天下を掴む時ぞ!出陣じゃ!」と鼓舞、聞き入っていた家臣団も雄叫びを上げます。「徳川家」という組織が、知勇が揃い、名実共に真に後世語り継がれる家臣団になった瞬間と言えるでしょう。
 猛然と抜け道を駆け抜け、丘を駆けあがっていく徳川軍団の勇壮は音楽と相まって最高潮です。地響きと雄叫びがあんなにしたらバレてしまうような気もしますが、まあ、ここは演出ということで(笑)



 未だに堀作りをし、臆病を極めたと思っている池田・森たり中入り勢に襲い掛かる徳川軍団の充実は、徳川四天王によって象徴されます。
 まずは本作戦の要を担った知恵者でもあり、武将としても勇猛果敢な榊原康政です。「徳川四天王とでも申すべきお一人、榊原康政でございます」という、いつもの講談調のナレーションに胡散臭さを感じることなく酔える日が来るとは意外でしたね(笑)


 次は赤備えの具足を部下たちに装着させている井伊直政が入ります。その脳裏には、彼が仕官することになったことを喜ぶ母、ひよの言葉が響きます。やんちゃな彼に「そなたは悪童だが母に似て顔だけは良い。見た目の良さも天賦の才ぞ」という励ましが爆笑です。板垣李光人くんですから、美形ということは全くその通りなんですけど、「顔だけ」ってちょっと(笑)「母に似て」という自惚れも入っていますし、いや、あの親にして、あの子というべきですかね。ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込んでよいのやら。

 ともあれ、「見た目の良さも天賦の才」というのは、その通りで、家康への仕官もその美しさが目を引いたからと言われますし、また後々、秀吉の母、大政所を信用させるのも美形、直政、役に立っているのですね。ただ、直政の名誉のために言えば、鳳来寺で徹底的に養育されていますから教養や所作などもきっちり身に着けています。

 そして「井伊家の再興はそなたにかかっておるんじゃぞ」の言葉を胸に出陣、家康の馬印を知り、本陣に迫る池田たちに襲い掛かります。池田勢が、赤備えに武田家を思い返し、躊躇するのが良いですね。信玄の威光は死してなお続いているのです。
 そして、その信玄の遺臣たちを配下に加えた直政は「井伊の赤備えだ!」と突撃します。ナレーションの「井伊の赤鬼」という通り名もピタリと符合します。因みに直政は重装備での突撃を得意とするので、いつも傷だらけだったと言われています。戦い方が忠勝とは対照的なんですね。



 ようやく、家康たちが掘っていたものが堀ではなく、抜け道だと気づいた秀吉は激昂し、家康勢の後背を突こうと出陣します。余裕をぶっこいていた彼が出し抜かれたというのは、まあいい気味ではあります。そして、その秀吉の大軍を500というわずかな手勢で迎え撃つのが、本多忠勝です。数的には無謀とも言える忠勝の殿(しんがり)ですが、逸話では、龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせ、その堂々とした振る舞いで秀吉側をかえって警戒させ、進軍を止めたと言われています。つまり、堂々とした武人としての振る舞いこそが、彼の持ち味なのです。


 ですから、その心は泰然自若。それを象徴するのが、その後に挿入される彼の所有する名槍、蜻蛉切の穂先のカットです。蜻蛉切は、穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍」ですが、このカットでは蜻蛉が普通に穂先に止まっています。これは、秀吉軍を前にして、静かな闘志はあれども、その心は穏やかであるから、蜻蛉切も殺気を放っていない。だから、斬られないのです。

 また、忠勝は戦闘狂ではありません。主のために斬るべき者を斬り、無辜の命を奪ったりはしません。そんな忠勝の意思を汲む名槍だからこそ、罪のない蜻蛉も止まっていられるとも言えます。つまり、この蜻蛉切のカットは、忠勝の武将としての充実が表れているのですね。


 そして、忠勝は、三方ヶ原合戦での忠真と同じく「ここから先は一歩も通さん!」と宣言します。忠真の場合は死を覚悟してのものですが、「殿を天下人にするまでには死ねん」忠勝は絶対、生きて帰ることが前提で言っています。
 その静かで勇壮な覚悟があればこそ「天下無双の本多忠勝」(ナレーション)であり、逸話に残るような死中に活を求めるような行動も取れたのでしょうね。



 こうして、池田恒興、森長可はその勇猛果敢な死を描かれることなく、秀吉への報告止まりとなり、単に家康側の勝利に花を添えるのみ。家康側の大勝利で幕を閉じます。満面の笑みで「えい、えい、おー!」を繰り返す徳川勢の晴れやかさは、本作では久しく見なかったものです。徳川四天王のうちの徳川三傑の活躍も相まって、視聴者の留飲も下げてくれたことでしょう。
 しかし、そんな中、数正だけは放心したように物憂げな表情を見せ、皆の間に交じっていけません。周囲が明るいだけに、その暗い表情は際立ちます。



(2)負けを認めない秀吉から見える彼の本質

 大敗に終わった小牧長久手の戦い、無駄になった卓上の布陣図を踏みつけながら歩き回るその様に彼の苛立ちが見えますが、立ち直りと居直りが早いのも秀吉です。すぐに池田恒興と森長可の戦死を「かえって良かったわ。言うこときかんやつがのうなって。ありがてぇわ」と抑揚のない声で嘯きます。この台詞で秀吉が言っていること、内容だけは本心であることは、今回の彼らの軋轢から見て、明白です。

 また、今回の戦とは直接関係ありませんが、この同じ年に池田恒興と同じく清州会議に参加していた丹羽長秀が病死しています。会議に参加した秀吉以外の織田家の重臣たちは、秀吉にとって真に都合よく、この世から消えてくれたのです。手を下したのは勝家だけで済みました。万が一、この二人が生き残っていた場合、秀吉の織田家乗っ取りと専横は史実ほどには順調にいかなかったかもしれません。目の上の瘤を排除する手間が省けたのは事実です。
 目の前の敗北に目を背け、織田家の遺臣排除に目を向けられるのは、次の一手が、彼らの排除だったからでしょう。



 しかし、大敗の事実は変わりません。秀吉は「わしの策でねぇ、わしの策でねぇ、わしの策でねぇ、わしの策でねぇ、わしの策でねぇ、わしの策でねぇ…」と繰り返し、自分に言い聞かせています。頭の良い彼にとって、他の誰かに出し抜かれることはそうそうないことですから、内心はかなりの衝撃だったのでしょうね。三河中入りの最終判断は秀吉ですし、その陣ぶれは秀吉の立案です。誰の献策であろうと全責任は秀吉なのですが、
 彼の特異な自己保身と自己弁護能力は池田恒興たちの暴走と責任転嫁することで自分の心を守ります(苦笑)そして、それを念入りにしておくかのように、清正と正則たちに「池田恒興らは秀吉の言うことを聞かなかったから死んだ」という流言飛語を飛ばすよう指示します。

 これは、恒興らを鞭打つという復讐心よりも、秀吉自体が大敗したという事実が広まることを恐れたのです。これは、畿内こそほぼ安定させたとはいえ、秀吉には、まだ中国の毛利や上杉景勝、佐々成政など注意すべき敵が周囲にいます。秀吉大敗の報が広まれば、こうした彼らの動きが活発化する可能性があります。だから負けたのは独断専行した恒興たちであって、秀吉ではないということにしたのですね。秀吉に反感を持っていて鬱陶しかった彼の使い道としては丁度良かったとも言えるでしょう。復讐もちゃんと果たせています。

 それにしても、ショックからあっという間に立ち直り、対策を講じる本作の秀吉のメンタルの強さは人間じゃありませんね。当然、死者を悼む心の無さも史実の秀吉以上です。



 秀吉の当面の対策とメンタル回復を確認した上で秀長は、徳川の強さは本物だがこれからどうする?と現実に引き戻します。秀吉は「まことにのう…信長さまのせいだわ。あんなにこき使うもんだで」と死んだ信長にケチをつけます。秀吉にとって、全ては自分の欲を満たす道具であり、信長も例外でないことは、これまでのnote記事でも触れてきたことですが、彼の利己的な発想はこういうときでも、とことん発揮されます。
 信長が、徳川勢を最強にしたのは、家康を同盟的な配下として重用するという弟分への強い愛情からでしょうけど、そこまでとは知らない秀吉からすれば「こき使った」であり、今の自分にはいい迷惑でしかありません。ただ、徳川が強かったからこそ東国が押さえられ、秀吉自身が出世、天下人の道が拓かれたのですが、そのことは棚上げしていますね。

 そして、思案顔から破顔すると「なーんも案ずることはねぇ、考えてみやぁ…敵の総大将は家康ではねぇ」と、この戦の建前、大義名分が、秀吉VS家康でないことに目をつけます。奇しくも、康政の「檄文」の文言が、秀吉にそれを気づかせたのかもしれません。秀吉VS家康は、小牧長久手の戦い一つで決まるものではないことを、よく分かっている秀吉は勝つ算段を始めています。当然、狙いは総大将、信雄です。



 秀吉の次なる一手が始まろうとするとも知らない家康たちは、束の間の勝利に湧き、美酒に酔います。あのひねくれ者の正信すら、今回ばかりは共に酔い、興が乗った挙句、自分の役割があってこその大勝利したと調子に乗っています。そんな彼をナレーションが「徳川四天王、残るお一人はは、このイカサマ師…でなく」と茶化すのが良いですね。ナレーションに弄られる本多正信って一体…(笑)とはいえ、四天王の最後が「頼れる大黒柱、酒井忠次」(ナレーション)ということを知っている視聴者は「…でなく」とナレーションが語るまで一瞬「え?」と焦りましたよね。

 順当に四天王であることが示された忠次は、いつもの海老すくいではなく、この戦で皆を一つにした「♪どっこい、どっこい」の囃子歌から「天下すくい」の歌を披露します。若い者の活躍を静かに見守り、そして、時には皆を巻き込むムードメーカーを勝って出る、この明るく、優しい気質が酒井忠次の持ち味であることが改めて示されます。これまでも、そしてまたこれからも忠次は家臣団の要なのです。


 喜びに湧くのは家康たちだけではありません。総大将、信雄も同様です。安堵のあまり、大の字になってひっくり返り、「これで秀吉に勝てる!我らの天下じゃ!あははははは!」と大笑いする無邪気さと呑気さには呆れるしかありません。更に、忠次の天下すくいに踊り出してしまうお調子者ぶりまで来ると、呆れるを通し越して、逆に好感を覚えますね。因みに信雄がここで踊り出すのは、彼が天覧能を披露するほどの舞の名手だからです。基本的に彼は趣味人なのです。まあ、根が正直で悪い人ではないのですが、こういう人は心が隙だらけですから脆いもの、同盟者として総大将として不安の種なのです。


 しかし、このことに気づいているのは、一人、皆から離れた場所で佇み、遠く秀吉のいるほうを見つめる石川数正だけです。こんな時は皆と楽しめと声をかけてくれた家康に「まさに改心の勝利」であったと素直に数正は認めます。しかし、その上で「されど秀吉には勝てぬと存じます。秀吉は必ず、我らの弱みにつけこんでくると存じます!」と渋面を崩すことなく、家康に物申し、緊張を解かぬよう進言します。その目の先には、踊り狂う信雄がいます。彼がその弱みなのです。
 今回の大勝利の余韻すら数正の一言と表情で一気に引き戻してきましたね。



おわりに

 思えば、最初から合戦後という大局を見据え、一人だけ「有利な条件での和議」を唱えたのは数正だけでした。そして、その不安と疑念は、大勝利をもってしても拭えず、誰にも理解されることがないまま、独り秀吉の次なる手に思いを馳せるしかありませんでした。何故、彼だけが違っていたのでしょう。
 そして、同じ場所で対陣しながらも、秀吉軍で起きていたことと、徳川家で起きていたことは大きく違っていました。この違いは、何を意味するのでしょうか。二つは実はつながっています。


 徳川家は、目の前の秀吉軍に勝つため、これまでに培ったことを総動員し、その結束力で勝利を収めました。それは、その通りですし、また家康と家臣団の成長と深い絆はカタルシスに相応しいものだと言えます。しかし、それは目の前の秀吉軍に一回勝ったというだけでしかありません。
 秀吉を敗走させ、殺せていたのなら話は別ですが、彼は撤退しただけで、依然として畿内で力を持ち続け、その権勢はますます高まるばかりです。確かに大きな打撃を与えはしましたが、秀吉は打撃を受けた部分を切り捨て、そのダメージを最小限にしています。つまり、秀吉の権勢というものに対して、一矢報いた以上のことはないのが、小牧長久手の戦いでの勝利なのです。

 対して秀吉側はどうでしょうか。秀吉軍は家康に対峙し、その戦略を練りながらも、主にそこで行われていたのは、小牧長久手の戦い以降、誰が政治的な主導権を握るのかという秀吉と恒興の駆け引きでした。つまり、彼らは、目の前の家康との戦をすると同時に、政治的闘争を行っていたのです。つまり、小牧長久手の戦いの中で純粋に戦闘を行っていた家康と政治をしていた秀吉の差異が、第32回では描かれたのです。


 そして、徳川方で唯一、政治を考えていたのが、合戦後の和議、戦の収め方を模索していた数正でした。彼は大阪で秀吉の権勢が尋常ならざる実態を見てきました。誰もが己の利益、金銭的な損得勘定を得るために、武士ではない秀吉に頭を下げにやってくる、その様子を目の当たりにしたのです。それを見て、思ったことは、恐らく、戦に勝てば天下を取れるというものではないということなのではないでしょうか。武功という成果主義で支えられ、武断のみをもって統治を進めてきた信長との本質的な違いを数正は感じたのです。信長の時代であったのなら、戦での勝利がそのまま勝ったものの総取りで済む単純なものですから、家康が勝てば済んだかもしれません。


 しかし、信長の死後は違います。今は、秀吉の元へあらゆる富が終結し、それを秀吉が彼の思いどおりに分配してくのです。言うなれば、利益主導の政治こそが、秀吉の統治の基本です。だから、人々の飽くなき欲望を刺激する必要があり、また浅ましいことですが、人々もそれに乗りやすいのです。その萌芽は、清州会議の時点で既にありましたね。何故、勝家とお市が破れたのか。恒興や長秀らが、秀吉の口車に乗り、自身の利益のためだけに主家をないがしろにする秀吉に賛同したからです。

 そうした欲望を動力にした秀吉政権とどう対峙していけば良いのか。もしかすると、前回の数正の疲れ切った孤独感と苦悩は、そこに合ったのかもしれません。こればかりは、それを目の当たりにした者でなければ分からないでしょうから。


 こう考えてみると、戦に勝てば、それを梃子として多くの者が味方として大義に馳せ参じ、天下を取れると考えている家康たちは、あまりに単純で無力であるということになるかもしれません。政治において精強な武力を持つことは必須条件ですが、一方でそれだけでは勝てません。経済的な利益の分配をどうするのか、そこがまた必要になってきます。残念ながら、家康たちが持っているのは屈強な軍団だけなのです。
 
 それゆえに、次回では、早速、総大将の信雄が切り崩されるはずです。にもかかわらず、この勝利の意味を大きく信じるゆえに家康たちは現状を見誤り、政治的な判断を間違え、苦境に立たされることになるかもしれません。そんな彼らを前に数正が何を考え、どう動いていくのか、辛い話になりそうですが、目が離せませんね。


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