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和歌とはレイヤーの重なり

前回は、俵万智さんの「サラダ記念日」の一首の推敲過程を例に、短歌(和歌)の詠み方(+読み方)について探ってみました。

前記事の最後に挙げた「分析方法」は、このようなものです↓

(1)推敲前の「元々の体験に即した自然な順序の形」を想定する。
(2)推敲前と推敲後について、パーツ分解を行う。
(3)推敲前の形が、どのようなパーツ移動や調整により、どのように推敲後の形に改良されたのかを考察する。

(2)のパーツ分解を、「サラダ記念日」の完成形にあてはめると、こうなります↓

ⅰ∶この味がいい【ね】
ⅱ∶(ⅰ【と】)君が言った【から】
ⅲ∶七月六日は(=が)サラダ記念日(だ)

それぞれ、ⅰ〜ⅲの項目は全て、「(主語)が(述語)」の形になっています。今回はたまたま、目的語を持つものはありませんが、結局、主語も目的語も名詞なので、パーツ分解の際には、述語を核としながら、「動詞(述語スル)+名詞(主語ガや目的語ヲ)の塊で区切っていけばよい、ということになります。
※生成文法でいうところの動詞句(VP)と大体同義です。
「サラダ記念日」の一首は、「この味がいい」「君が言った」「七月六日は(が)サラダ記念日(だ)」という三つの動詞句を、助詞【ね】【と】を用いて台詞化したり、【から】を用いて理由にしたりすることで、一首の形に接続していることがわかります。
これを裏返せば、私たちが短歌を詠むときも、いくつか核になる「名詞+動詞」の塊を用意しておいて、57577の定型になるよう調整しながら繋げていけばいい、ということです。
もちろん、現代短歌は自由なので、このように複数の動詞句を用意しなくても、単文や名詞のみでも作品として成立する場合もあります。

錐・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵
(きり・さそり・ひでり・かり・すり・おり・おとり・もり・そり・ふたり・くさり・ゆり・ちり)

塚本邦雄『感幻樂』より

さすがは塚本邦雄、前衛のお手本のような名詞オンリーの(しかも押韻の!)短歌です。
とはいえ、これは短歌の「旨味」を敢えて殺している例で、やはり短歌の良さを活かすのであれば、複数の動詞句を重ねることが善策だと思います。そしてそれは、後述するように、古典和歌においても――むしろ、現代短歌以上に――あてはまることなのです。

古典和歌について分かりやすく説明するために、再び俵万智さんにご登場いただきましょう。『短歌をよむ』の中で、短歌を詠む上で大切な「主観」と「客観」について語られている箇所です。

心の揺れの中心が押さえられていることは大切だが、いっぽう、揺れだけを言葉にしたのでは、一人よがりになってしまうことも多い。…全部を主観で埋めつくしても、それが伝わるとはかぎらない。伝えるための客観的な描写がなくては、主観は生きてこない。俊成の「身にしみて」までを厳しく排除した俊恵法師のこと(※俊成が自身の代表歌として「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」を選んだことに対し、俊恵は「身にしみて」の句が主観的であからさま過ぎると非難した話)はご紹介した。主観と客観のバランスは、とてもむずかしい。

俵万智『短歌をよむ』より

前掲の「サラダ記念日」で、「『この味がいいね』と君が言った」の部分が客観、「七月六日はサラダ記念日」が主観、ということになると思います(七月六日は国が定めた一般的な記念日でも何でもないので、これは作者の主観ですよね)。心の揺れを主に伝える部分は主観の句が担いますが、それだけでは短歌としては伝わらず、客観的な描写が必要だということです。
大変重要な指摘ですが、ただし「主観」「客観」という名称はやや難しいかもしれません。いくら客観的描写に傾いているとはいえ、その情景を切り取った時点で、歌人による主観が働いてしまっているからです。
そこで何か良い名称を他に探したいと思うのですが、例えばそれを「景物」と「心情」という対立として捉えると、次のような古典和歌が当てはまります。

鳥の子を十づつ十は重ぬとも/思はぬ人を思ふものかは

『伊勢物語』第五十段

「鳥の子」とは卵のこと。「割れやすい卵を計百個、縦に十段、横に十列積み重ねることができたとしても、私のことを愛してくれないあの人を好きになったりするものか」という意味です。下の句「思はぬ人を思ふものかは」の心情を強調するために、上の句で到底実現不可能な事柄を置くユーモラスな歌で、技法的には「序詞」に近いものです。このような、心情を述べるために景物を共に一首に詠み込む例を、鈴木日出男氏は「心物対応構造」と名付けましたが、これもまた、俵万智さんのおっしゃるところの「主観」と「客観」に近いのではないかと思います。
さらに他にも、次のような和歌もあります。

白波に秋の木の葉の浮かべるを/海女の流せる舟かとぞ見る

『古今和歌集』巻五〈秋下〉藤原興風 301

「白い波間に秋色の木々から落ちた木の葉が浮かんでいるのを、海女さんが漁のために沖へ流す小舟かと見てしまう」の意で、いわゆる「見立て」の歌です。この場合は、上の句が実景の描写、下の句が比喩となりますが、実景=客観、比喩(〜とぞ見る)=主観、に近いものと考えることができます。波間に木の葉が浮かんでいる場面に、海女さんの小舟のイメージを重ね合わせることで面白さを演出するわけですので、この場合も、当然、下の句の比喩だけを出しても何も伝わらない。上の句の場面描写が有って初めて、両者の共通点と相違点が浮き彫りにされるのです。
上述した「心物対応構造(序詞)」や「見立て」の和歌において、「心」や「比喩」が「主観」に当たり、「物」や「実景描写」が「客観」に当たるとすれば、古典和歌の世界においても、俵氏の説はしっかりと適用されることになります。そして、例えば両者の対立について、ゲシュタルト心理学的な意味合いでの「図(=メイン)」と「地(=サブ)」のように捉えるならば、恋歌・四季歌といった区別を超えて、古典和歌に広く共通する汎用的構造を見出すことも可能になるかもしれません。
なお、「見立て」の歌において、波間の木の葉と海女の小舟が「重ね合わせられる」点に詩興が生じることを述べた通り、「図」と「地」は二者択一的に上書きされるものではなく、二重写しのようにお互いが透けて重ねられるものと考えた方が良いようです。デジタルツールでイラストを描く方にはお馴染みの「レイヤー」という考え方が、ここではぴったり来るでしょう。すなわち、和歌は、メインレイヤー(図)とサブレイヤー(地)のオーバーラップによって成立する、ということなのです。

今回挙げた古典和歌の例は、上の句と下の句の対応で二種のレイヤーの重ね合わせが分かりやすく認められるものでしたが、中には、もっと複雑な構造を持つ例もあります。その場合は、動詞句分解を行うことで、より細かいレイヤーに分けていく作業が必要になってきます。

というわけで次回は、動詞句分解によるレイヤー分析の方法を用いて、いよいよ貫之の和歌について読み解いていきます。
予告∶この和歌です↓

桜花散りぬる風の名残には水無き空に波ぞ立ちける
 ⅰ∶桜花(が)散りぬ
 ⅱ∶風の名残には空に波ぞ(が)立ちけり
 ⅲ∶水(が)無し

『古今和歌集』巻二〈春下〉紀貫之 89

動詞句分解をすると、この和歌の詠作過程が想像しやすくなります。特に謎解きがしたいのは、ⅰの不自然な自動詞表現!ヒントはやはり、レイヤーです。

※次回に続きます。

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