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「意味の戦略的陳腐化」という「記号化マーケティング」の果てにできた砂漠で生まれたもの

よく話しています。

モネは画壇に喧嘩を売りまくった喧嘩屋だった。
でも、そういうイメージを持っている人は驚くほど少ない。
代表作である「日の出」にはとてつもなく大きな意味と意義があった。
完璧にクレーマー。形容の仕方はなんでもいいけど、わたしにとってはそんなイメージ。
マティスも。この時代の前衛的な画風を編み出した人物は全て。ダダもシュルレアリスムも。だからわたしは彼らの絵画を好む。

でもみんな陳腐化されてきた。
だって、モネがクレーマーだってイメージないでしょう?
美術鑑賞は金持ちの道楽のようなイメージを意図的に持たされた。
俗物的な趣味として世間に認識された。でも、実際その通り。その通りになった。
戦略的、計画的に陳腐化されてきた。

ゴッホの絵が数十億の価値を付けたのはシステマティックな記号化マーケティングによるもの。ようするに、わざと。わたしはそう思っている。
為政者は今その時を超えようとする意味を絶対に許さない。

だから意味を相対化してすぐに記号化してしまう。
超えようとする絵画に値段を付けるなんてまさに記号化そのもので笑ってしまう。分かりやすい例。ちゃんとマーケティングの教科書に載ってる?
「君たち家畜が檻を飛び越えないようやってる意味の記号化マーケティング」ですって。あなたが持ってる本にこういうことが書いてないなら、すぐに捨てて私をフォローしておけばいいよ。

意味が集まって繋がってしまうと、権力に仇なす力となってしまう。
資本主義はシステムとして超えようとする意味を記号化によって相対化する。だから貨幣経済が生まれたときに、人類は必然的滅亡の軌道に入った、というようなことをまともな純文学ならテーマにしてきた。わたしは素直に影響を受けてしまって現代のハンターになろう努めてきた。猪の皮をかぶっていた「もののけ姫」のキャラクターみたいな感じ。こそこそ動き回ってこういう記事を書きなぐる。

為政者の気持ちは分かる。
権力側も権力側にいることが普通になってしまうと、意味が生まれ克服されることが怖い。いつも味噌汁を食ってる人が、食えなくなることを想像するのは辛い。
それが普通になるということ。
権力者が辛いのは、落ちるしかないということ。だから、貧乏人が味噌汁を食えなくなることとは辛さの度合いが違う。だから必死。

ここまで書いて何を書こうとしてのか忘れた。
何を書きたかったのかも、読み返すとよくわからくなくなっている。権力者も味噌汁が好きなのかな?よくわからない。結局、なってみないと気持ちは分からない。イケメンの気持ちをブサイクが分からないのと同じだろう。
でも、システムとして意味が奪われるのは事実。

酒をやめてやっぱり思考が散漫になっている。なぜだろう?そんなもの?
大腸カメラの恐怖はやっぱり効果がある。結構断酒出来ている。
酒をやめたい人は、大腸カメラを受けるべき。
本当に心臓がドキドキして怖かった。

何かあったらどうしよう?

為政者もみんなこんな気持ちなら理解は出来る。
怖いから、毎日がぶ飲みしていた酒もやめて体に気をつけて、健康で幸せな生活を送るために何が出来るか考える。
だから健康診断を受けて、血液検査をして、その他色んな検査をして、日頃から病気が発現しないよう努める。

死というのは究極の意味だからね。
存在を眩しいほどに現象させる。
だから、これを何とか陳腐化して存在の過剰な自覚を免れようと努める。
疲れちゃうから。意識が生まれたときに死が明確な死となったのは辛い。

「日の出」とか「ひまわり」とか、こういう癌細胞は速攻健康診断で見つかってしまう。だから当然、取り除かれる。

それで、結局今に至る。

何も生まれない不毛の大地。
砂漠化された現代社会。
生まれたものと言えば、ゲノム編集されたトマトとマダイ。
システムとして意味が奪われる社会は自らを壊しながら意味の模造品を生産し始めた。

「日の出」と「ひまわり」は奪われ、代わりに、ゲノム編集されたトマトとマダイが生まれた。

おわり


この記事は、過去に書いた映画「マトリックス」の評論記事のあとがきに書いたことを改めて記事にしようと思っていて、それが今日になってしまった記事です。