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いっそ、遺伝子レベルかもしれない

ここ数日、やっと、やっと今回の鬱期を抜け始めた感覚がある。
今回は長く、鈍く、苦しい2週間だった。


私には1ヶ月に少なくとも一度、鬱の底まで気持ちが落ちる時がある。
今年の夏頃、自分の中ではどうにもならなくなり受診した精神科医によると、私の”心情”は「気分失調症」と呼ばれているらしい。
症状は本当に人それぞれだが、私の場合は、常に「2メートルほど離れたところからちょうどダーツを投げるように放られた出刃包丁が、ざっくりと左胸に刺さっている感覚」にある。私が今日まで出会った人々との間で受けた、予想外の人格否定や、ど正直な批判が、小さな鉄の塊となった結果できたものが言うなればその刃だ。
普通、刃物が胸に刺さっていようものなら悶えるほど痛いはずなのだが、ずっと痛がっていては埒が開かないので、普段は気づかないようにしている。だが些細なきっかけで、(多くの場合他人に)一度その刃をぎゅぅと押し込まれてしまうと、耐え難く痛む。これが私の鬱期であり、この苦痛と一生付き合っていくのかと思うと絶望せざるを得ず、幾度となくこのまま目が覚めないことを祈る夜が続く。

私にとっての「鬱期」は、苦痛を病名として明らかにして正当化したい思いも正直腹の底にはあるけれど、主に「抑うつ」の感覚が表現として一番正確だと思うので「鬱」と呼んでいる。

鬱は、歴とした病気。病気は後天的な物、何かのきっかけで、あの頃から発症した。

医学的に、一人称から一歩引いて冷静に言語化するなら、そのようにも言えるのかもしれない。実際、私も自分の鬱がいつから始まったのか、明確にわかっている節もある。

でも、もしかしたら、鬱が限りなく辛いのは「どうしてこうなった」がわかっているからかもしれない。

「あの時、あんな人と出会わなければ、あんな言葉を受けなければ、もっと助けを求めていたら。起きてしまった過去を恨む。自分をこんなに変えてしまった、あの人が憎い。」

鬱の状態には、当人にしかわからない終わりのない苦しみがあるから、そして苦しみのやりばがすでに自分の中にはないほど飽和しているから、せめて”苦しみ”を引き起こした原因を恨もうとするのだ。

ただ、原因がある限り、「もし」という変えようのない過去への後悔が燻り続けてしまう。そこで私は気がついた。

   もういっそ、遺伝子のせいにしてしまったら、どうだろうか。


養老孟司氏によれば、人間の脳には神経系と遺伝子系の2種類しかなく、やたらと”考えようとする”のが神経系の悪い癖らしい。
となれば、私たちの手にはどうにもできない遺伝子系が鬱を起こしていると考えてみてはどうだろう?
「私は遺伝的に鬱なんだ、自然現象なんだ」
そう思えてしまえたら、何度も訪れる苦しみの迷路で迷わなくてもいいかもしれない。鬱のある人生に「諦める」ことができるかもしれない。

この突飛な思想が、瞑想じみていることはわかっている。
ただ、いっそ変に面白がってしまわずにはいられないほどに、苦しみに削ぎ取られた私の心の余白は今や埋められないほど広がっている。
だから助けを求めてこの文を読んでくれた人に、いっそやけになって、楽になってしまって欲しいのだ。あなたの痛みが、泣けるほどわかるから。

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