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【短編】童話のように紡がれる蚕と少女の百合小説「回顧録」【百合】

「回顧録」
 これは、短い短い恋のお話です。
 初めて彼女に出会った時、その人は、私たちの服に身を包んでいました。
 それが分かったのは、とても不思議なことでした。なぜならば、私はその時自分が糸を吐けることもゆくゆくは繭を作れることも知らなかったからです。それでも私たちの服に身を包んでいるというのが分かったのは、やはり本能なのでしょう。
 その人は中腰になって私の張り付いていた大きな桑の葉を裏っ返して、こちらに視線を寄せました。私は見つめ返しました。薄紫の上に真っ白の乱菊模様の広がる小紋を羽織ったどこか浮かない表情の少女と目が合いました。
 木の梁の下、右手にある窓から差し込んだ日差しで少女の影は伸び、顔は陰っています。浮かない表情に見えたのは、その影の都合のせいなのでしょうか。それとも、何か辛いことがあったのでしょうか。
 私はそれが気になりました。少女は、桑の葉を裏っ返したまま微動だにしません。特に嫌悪する様子も見せず、かといって世話をするわけでもなくこちらを見つめています。その瞳とその脇に垂れる髪は濡れたように真っ黒でした。
 「何か不備があったろうか」。いつしか私はこんな気分になっていました。それに加えて、私は桑の葉から落ちてしまいそうでそれが怖くなっていました。
 私は何かしなくてはいけないという漠然とした焦燥感から、針のついた体を大きく振るってみました。これなら、彼女も何か反応してくれるでしょう。その時でした。少女の手で固定されていて桑の葉が揺れなかったからでしょう。反動が私の全身を襲い、腕が体重を支え切れず桑の葉から離れ、辛うじて足だけで踏ん張って宙ぶらりんになってしまったのです。このままでは、落っこちてしまう!
「危ない」
 そんな声がして、柔らかで分厚いものが私の背中を支えました。それはまるで私の針を無いもののように優しい手つきで、背中をぐっと押され、私は桑の葉にくっつくことができたのです。
 まだドキドキしてはいましたが、背筋を凍らす恐怖はサーっと引いて、温かな安心感が私を包み始めていました。私は少女を探しました。少女は私の真上にいて、私が桑の葉にくっつけたのを見て、物憂げな顔から一転、にかっと微笑みました。
 その時の感覚は、今振り返っても言い表せる言葉が出てきません。霧が晴れて日差しが差し込んだような、そんな温かみがありました。
 強いていうなら、それが初恋だったのでしょう。その時、私は恋に落ちたのです。
「貴方は元気そうね」
 すとんと落ちた前髪を耳を隠すように元に戻して、あどけなく少女はそう言います。そうです。少女は私に語りかけてきたのです。
「このまま元気に育って頂戴ね」
 そして桑の葉を優しく元に戻し、少女は見えなくなりました。まだドキドキしています。今にして思えば、少女はゆっくり喋りましたから、恐怖によるドキドキなんてとっくに治っているはずなのです。それを生存の危機と誤認して身悶えしていたのは、思い返すととても恥ずかしいことです。
 この日から、私の回顧録は始まります。いつまでも「少女」と呼び続けるのは何ですから、別の呼称を用意しましょう。といっても私は彼女の名前を知りません。しかし、彼女はこの養蚕農家の一人娘であり、その商売が大変繁盛していることを今の私は知っています。
 ですから、今後私は彼女のことを「お嬢様」と呼びます。
 私はこの日、お嬢様に恋をしました。
 私たちには夜も昼もありません。桑の葉の裏に隠れていますから、ずっと暗いのです。他にやることもありませんから、私は葉っぱの裏でぼーっと考え事をしていました。お嬢様のことです。「お嬢様って一体どんな人だろう」。そんな疑問が頭の中にありました。
 きっと、優しい人でしょう。もしくは、余裕のある人かもしれません。だから他人に手を伸ばせたのかも。いいえ、だとしたらあんなに暗い顔をしていたのはおかしいような気がします。すると、やっぱり優しい人なのでしょう。その優しさは温かくて、文字通り私を包み込む柔らかな優しさで、その手の温もりと優しげな笑みを思い出すとやっぱりドキドキがぶり返すのです。
 「そういえば」、と私の頭に疑問が浮かびました。私に微笑む前、どうしてお嬢様はあんなに浮かない顔をしていたのでしょうか。何か、悪いことがあったのでしょうか。彼女にとっての悪いことは、きっと私にとっての悪いこと、例えば食べる桑の葉が無いとか、そんなことでは無いでしょう。だから私にはその理由がよくわかりません。だけど、私は想像しました。答えは一向に浮かばず、そのうち眠気が津波のように押し寄せてきました。決して抗えない眠気です。私は観念して目を閉じました。
 砂のように自分が音を立てて崩れ去ります。そこに風が吹いて、自分だった砂と何か別の粒が混ざり合って、黒から白の混じった斑点模様に変わっていきました。見ているわけではありませんでした。その砂が私だったからです。交互に、洗うように粒と粒が擦れて、痒いような痛いような感覚と共に漠然と空を見上げました。その実、最初から空は見えていたのですが、初めてそれを意識しました。すると、雨が降ってきました。雨粒が落ちてきて、粒と粒を固めていって、その時もともと私だった砂のいくつか雨水と共に地面に沈んでしまいました。それを地面を見ながら空を見て、目を瞑って目を開けました。
 目が覚めました。寝ている間に葉っぱから落ちていたようで、私は木箱の底にいました。頭はさっぱりしています。目は冴えています。しかし、体がものすごく重くなっていました。それに、「温かい」も「寒い」も何も感じませんでした。それがとても恐ろしくて、私は自分の体が動くことを確かるために体をずりずりと精一杯動かしました。すると、全身に張り付いていた何かががさりと離れて、肌と擦れました。そのまま体を動かすと、感じていた重みは消え、私の肌と同化していた何かが私から外れました。それは後ろの方に行ったので、振り向いてみます。そこには、私と同じ形をした空っぽの像がありました。観察するために頭を持ち上げてその時ふと、私は気が付きました。私の肌は真っ白になっていました。
 眠る前と比べて何か異様なほどに感覚が過敏になっていました。湿った空気が墨でも被ったかのように張り付いているように感じられて、気味が悪くなりました。お腹も空いていました。桑の葉に登ると、昨日まで気にしていなかった葉に生えている毛が私の肌を刺しているように感じました。世界そのものがこの数時間のうちに全く変わってしまったような、そんな気持ちになって、目がぐるぐる回りました。
 そんな折、足音が聞こえてきました。眠る前は聞こえなかった小さな、親鳥を見失った小鳥が不安げに歩くような足音です。その足音は私のすぐ近くで止まりました。着物の袖と帯の擦れる音がしました。
 衝撃で体が揺れました。手足を踏ん張りました。眩しい光で目が潰れそうになりました。それでも何も見えなくなることはありませんでした。それは、右手の窓から差し込む強烈な朝日の盾になるように彼女が立っていたからです。紫色が逆光で暗くなって、紺色のように見えました。
「もうすっかり真っ白ね」
 そこには、陰った儚い笑みがありました。
 桑の葉を裏っ返したお嬢様は、昨日とは違う服を着ていました。膝下まである白いスカートに身を包み、髪を結わずに肩まで下ろして、麦わら帽子で頭を隠しています。
「私も今日は真っ白。あなたと同じね」
 白い麦わら帽子のつばを摘んで左右に回しながら、お嬢様は笑いながらそう語りかけます。お嬢様に伝わるかどうかはわかりませんが、私は全身で相槌を打ちました。「お嬢様と同じ格好をしている」。「お嬢様が同じ格好だと思っていてくれている」。その事実がなんだかとても嬉しかったのです。
 今でこそ「お揃いが嬉しい恋心」ですが、そんなことはまだ分からず、ひたすら体の奥から湧いてくる喜びに身をよじらせていました。
 にっと笑って私の白い肌を見た後、お嬢様は突然目を細め、少し遠い目をして誰に向けてでもなくふふっと笑いました。まるで、どこかに表情を落っことして来たような、何の色もない表情です。何か、気に触ることでもしてしまったのでしょうか。相槌を打ったのがまずかったでしょうか。
 しばらくの間、沈黙が続きました。その沈黙がどれほど辛かったかは筆舌に尽くせません。まるで私を取り巻く空気の一人一人が全員そっぽを向いていなくなってしまったかのような、そんな心細さと居心地の悪さがありました。朝起きた時よりもずっと体は重く、とても動かせやしませんでした。お嬢様は微動だにせず、どこかを見ています。
 その沈黙の重苦しさ、「まずいことをしてしまったかも」という焦燥感を十二分に味わった頃、ようやくお嬢様の表情は無色から明るい色へと変わりました。そして、視線が私に注がれました。お嬢様は麦わら帽子のつばをゆっくりと上に持ち上げ、後頭部にかけて帽子が落ちないことを確認した後、瞬きをして中腰の姿勢から膝を少し立て、桑の葉の上に身を乗り出しました。
「今日はね、街に行くの。お父様の知り合いがお車を出してくれるから、今日はお洋服。こんな機会じゃないと着れないもの」
 そう言って、お嬢様はあどけなく微笑みました。私はごく狭い世界しか知りません。ですが、きっと広い世界の中でもこの幼い人間の女の子が今この瞬間に見せた姿が最も可愛らしいものだと思いました。
 その後桑の葉をやさしく元に戻して、私にはお嬢様の姿が見えなくなりました。しばらく無音が続いて、そのあと少しの間右や左に歩く音とその振動が伝わりました。「何をしているんだろう」。疑問に思いましたが、私には喉がないのでお嬢様に話しかけることができません。もどかしく思っていると、足音が遠のいていくのが聞こえます。桑の葉がもう一度裏返されることはなく、私は寂しさを抱えたまま桑の葉を齧りました。
 その晩のことです。強烈な眠気が私を襲い、「眠っている間に落ちてしまわないよう下に移動しよう」と桑の葉の裏で朦朧と考えていた時、バタバタという足音が聞こえました。それは誰かを呼ぶような、悲鳴のような足音でした。
 衝撃が私を襲います。ブチっと言う音が聞こえました。葉柄が折れたのです。いつもよりよっぽど乱暴に桑の葉を裏っ返して、お嬢様はこちらを覗き込みました。その時私は眠気で意識が朦朧していて、その上葉っぱを支えるのがお嬢様しか居なくなったことに動揺して葉っぱにしがみつくので精一杯でしたから、お嬢様の表情はよく覚えていません。もちろん夜だったので部屋は暗くて、それも悪さをしたのかもしれません。
 ただ、その時の声だけは鮮明に覚えています。朧月の夜より暗くて、死んだ仲間の体より冷たい声。
「お母さんが悪いみたいなの。合わせてもらえなかったけど、『咳に血が混じってた』ってお医者さんが言って、それでお父さんもお医者さんも無言で頷くの。ねぇ、これは何?」
 問いかけのようでしたが、答えはもう知っているような口調に聞こえました。
 私はそんな悲しそうなお嬢様は嫌でした。励ましてあげたいと思いました。だけど、私は言葉を喋れません。言いたいことが体の中に溜まって、上がっては来るのに吐き出せません。なんてもどかしいんだろう。意識は今にも露と消えてしまいそうです。
 私は最後に足掻きました。体を左右に動かして、懸命に元気を出してほしいと伝えたのです。しかし、お嬢様は何を察したのかため息をついて私が張り付いている葉っぱを底に置きました。そうじゃないのに。もっと見つめあっていたいのに。もっとわかり合っていたいのに。私は悲痛に叫びました。勿論、声には出ませんでした。
 お嬢様の足音が遠のいていくのが聞こえます。眠気が私の体を支配していくのがわかります。絶対にこのまま終わっちゃいけないはずなのに、眠気に抗うことはできず、ついに私は眠気に身を委ねました。
 また砂になっていました。待てども風は吹きません。その代わり、蜜のように甘い川が大地をかき分けるように少しずつ流れてきて、私は全身をその蜜に包まれ、幸せな気持ちになりました。体中がどろりとしたその川の中に包まれて、浮上することも沈下することもなく、樹液に閉じ込められたままの太古の虫のようにぼんやりと全てのことに想いを馳せていました。と言っても、砂に頭などありませんから、記憶はありません。全てのこととは、私がその時感じた全てに過ぎず、結局私は外に出られないのです。やがて水かさが減り、私が露呈しました。するとどうでしょう、私は濡れ固まった砂の塊になっていました。まだぷかぷか浮いている砂粒があります。ですが、川は引いていってその砂粒も私とくっつきました。そのまま蜜はその甘い香りだけを残して消え去ってしまいました。
 目を開けます。さっきまであんなに軽かった体が重いというので、目覚めたのだとわかりました。そんな目覚めも嫌ですが、一番最初に感じることがそれなのですから、どうにもなりません。しかし、前のような怖さはありませんでした。この皮を脱げば良いと知っているからです。左右に体を動かし、皮を剥がします。これがまた結構な重労働で、私が自身の虚像と対面する頃にはすっかりクタクタになっていました。
 ですが、登らねばなりません。そうでなくては、お嬢様に見つけてもらえないからです。
 前まで登っていた桑の葉は葉柄が折れて下に散っています。ですので、私はその茎の別の葉っぱに陣取ることにしました。茎をよじ登り、葉っぱに張り付きます。どうせなら裏っ返す間でもなく見てもらいたいと思って上の方に張り付きました。私の重さで葉っぱの先端がしなだれていて、少し不安定なのが不安でしたが、それでも「ここなら見つけてもらえる」という確信があったのでそこでお嬢様を待つことにしました。
 そこは眺めも良いのです。それなりに高さのある葉っぱですから、部屋内を一望できます。壁の近く、左右に置かれた縦長の台は私の仲間が暮らす箱でしょう。台の近くにある右手の窓から朝日が差し込んでいます。あそこにいたら眩しいでしょうね。私から見て奥には扉があります。梁が真上に通っている、がっしりした作りの扉です。「いつもここを通ってお嬢様はやってくるんだ」。そう思うと、無機質な木の扉すら愛おしく思えました。それと同時に、いつ扉が開くのだろうというそわそわが生まれてしまって、扉の見えるこの葉っぱに来たことを少し後悔しました。
 私は色んなことを考えました。「いつもお嬢様一人なのは何故だろう」。もちろん、蚕の世話をする人たちは別でやって来ます。その人たちが働いていてお嬢様の家庭がそれを雇っているのだというところまでは推察できるのですが、それはお嬢様がお父様を伴わない理由にはなりません。お嬢様はいつも朝やって来るので、病に伏せっているお母様の代わりにお弁当を作ってあげているのかもしれません。だとしたらなんて立派なことでしょう。空想の中でどんどんお嬢様の株が上がっていきます。でも、本物はきっとそれに応えてくれるだろうから良いのです。
 「でも」、と私は思い直しました。お嬢様が朝ここに来る理由が早起きしてお弁当を作っているからだとしても、夜はお父様と一緒にいるはずです。だとしたら、どうしてあの日、私を訪ねてきたのでしょうか。どうしてお母様の話をあの時間に打ち明けたのでしょうか。あの時のことを必死に思い出します。「お母さんが血を吐いた」。端的に言えば、そんな内容でした。そして、その声はとても暗いものでした。きっと、お母様に依存しているのでしょう。「それは結構なことだけど、私にも少しくらい依存してくれて良いのに」。なんて思いました。
 もしかしたら、お母様に嫉妬していたのかもしれません。その時の私はお嬢様の気持ちを独り占めにしていい存在なんてこの世にいないと信じ込んでやまなかったので。
 とにかく、その夜はお父様との都合がなかったということです。夜遅くになるから一人だけ帰らせてもらった、とかでしょうか。お父様だけ病院に残る必要があったのなら
 まぁ、そんなことはどうでも良いことです。朝になれば彼女に会えるのですから。
 朝日が差し込みます。それがだんだん上に上がっていって、暗い時間をしばらく挟んで、赤黒くなって左手の窓から登場しました。それすらも無くなって、部屋はすっかり暗くなりました。
 お嬢様はこの日を境に私の元へやって来なくなりました。

 私はまた砂になっていました。ですが、今回はいつもと違いました。熱いのです。熱病に侵されたように全身が熱い。茹だるような熱さに苛まれている。その熱さの激しいことはとどまるところを知りません。どんどん熱くなって、私という砂粒はドロドロに溶けていきました。そうして、砂としての感覚も感触も何もかもが溶けて無くなって、私の意識はぷっつりと途絶えました。
 ずいぶん長いことそれが続いていた気がします。
 再び意識を取り戻した時、私は悟りました。「もう以前の私はいないのだ」。まるで生まれ直したような気分でした。頭は空っぽです。だというのに以前の私を手放したことがわかったのは、ひとえに本能によるものでしょう。
 私は何かに頭を突っ込んでいました。後ろに下がって、それが何なのかを確かめます。目の前には、少しほつれた白い糸の塊があります。というより、その塊は私の体全体を覆っているようでした。
 記憶の糸も所々ほつれています。ですが、少しずつ思い出してきました。この糸は私が吐いたものです。砂になって固まって。それを繰り返しているうちにいつしか糸が吐けるようになっていることに気が付いて、それからは「繭を作らなきゃ」ということに頭を支配されていました。
 そう。ここは、私の繭の中です。真っ白い空間。生温かい質感。安心感と閉塞感。脱ぎ捨てられた、茶色いかつての私。空っぽのままの私は、少しの間そこに留まりました。ですが、口から閉塞感が漏れ出しました。「ここにいてはいけない」。そういうメッセージが物理的な液体となって私の口から出てきて、繭を濡らしたのです。不快でした。濡れてじとじととした繭の中も。私はそこから出ることを選びました。
 それは疑似体験でした。意識がある状態で卵の殻を破って這い出るようなものです。正しく第二の人生でした。
 繭は生ぬるくて気持ちの悪い質感でした。翅が繭に突っ掛かりました。後ろ足で地面を蹴って繭を破っていきます。ようやくその生ぬるさから解放されて、私は翅を目一杯伸ばしました。翅があります。口があります。触覚があります。私は今まで、カイコでした。今この瞬間から、私はカイコガです。空っぽの頭で私は大いに失望しました。これだけ大きく変わったというのに、本質は何も変わっていない。今度もきっと何も伝えられない。
 目を見開くと、その空間が見たことのない部屋だということに気がつきました。木の蔓で編まれた箱であることに変わりはありませんが、桑の葉はなく、私と同じように破った形跡のある繭が転がっています。そして、頭をぼやけさせるような強烈な良い香りがどこからか漂ってきました。頭は空っぽで、私はその方向に歩いていきます。歩んだ先、繭の影、一匹のオスのカイコガがいました。そこで分かりました。私の役目は、このカイコガと交わって卵を産むことだと。
 ですが、それは嫌でした。どうして嫌なのでしょう。記憶の糸を紡ぎます。誰かに伝えたい言葉があって、誰かが私に言葉を伝えてくれて、そんな関係だったのです。全然違ったけど、でも心が通っていたのです。でも思い出せません。
 そんな折、頭上に影が差しました。上を見上げて、私は全てを思い出し、それを忘れていた自分に吐き気を催しました。お嬢様が真っ直ぐな瞳で私を見つめていました。
 今までの暗い顔とは違います。お嬢様の顔は夕陽によって頬に赤の差し色が入っていました。
「羽化できたんだ」
 お嬢様はぼそりと呟きました。もちろん私に向けてです。私は自分が未だ喋れないことに失望しつつも、その声に耳を傾けました。
「久しぶりにここに来たなぁ。私、どんな顔してたっけ」
 暗い顔でしたが、たまに見せる笑みがたまらなく可愛い女の子でした。
 しばらくの沈黙があって、気を取り直したように咳払いをしてお嬢様はゆっくりと口を開きました。
「私のお母さん、死んじゃった」
 夕陽の赤はまるでお化粧をしたかのようにお嬢様の顔立ちを引き立たせています。私は思いました。「やった」。「これからは私がお嬢様を支えていくんだ」。「他の誰かは必要ない。私とお嬢様だけの世界に浸るんだ」。そう思うと、喜びで体が震えました。
 ふと、お嬢様が私のそばにいるオスのカイコガに目をやりました。そして目を細めました。
「あれ、私が今まで話してたのってどれだっけ」
 その言葉の意味を理解できず、私は固まりました。私とお嬢様は互いに分かり合っていて、お嬢様は私のことを他とは違う特別な存在だと分かってくれていて、当然見分けもついていて、どうしてそんなことを口走ったのか分かりませんでした。
「まぁ、どれでもいいや」
 目線をオスのカイコガに向けたまま、お嬢様はそう付け加えました。
 違う。私を見て。
 悲鳴のようにその言葉が頭の中を埋め尽くします。ですが、絶対に声には出せないのです。もどかしさに押し潰され、一人、絶望しました。そのあたりでようやく分かりました。お嬢様の表情は暗いを通り越した絶望の表情なのだと。お嬢様は、遠い目をしました。
「最後にここに来たのは、お父様に夜帰らされて行く宛のなくなったあの日以来ね。今思えば、お母様はあの日亡くなっていたのだわ。それをどうするか相談するためにお父様は病院に残って私だけが帰らされたのね」
 私は思いました。他人行儀な喋り方。
「それじゃあさよなら。楽しんで。後十日間、生まれてから一ヶ月半の短い命を」
 そうして、お嬢様は去っていきました。
 これは、短い短い恋のお話です。人間の時間にしてわずか一ヶ月と少し。その間に出会ったお嬢様に惚れて、突き放され、失恋するまでの短い短い恋物語。私の回顧録です。
 私は目の前にいるオスのカイコガのことを受け入れました。

 それから何日が過ぎたでしょう。も目の前には私が産んだ小さな卵がつぶさ敷かれていました。
 もうすぐ私は死にます。日数など分からなくても、本能でそれが分かりました。そしてようやく、こんな虫けらの本能がある限り人間と恋に落ちることは無理だったのだと分かりました。
 目の前の黄色い卵を眺めます。私は今や母親です。恋物語はとっくに終わりました。
 ですが、それでも私はこの卵が将来お嬢様の服になればいいな、などと考えてしまうのです。

あとがき


 お読みくださりありがとうございました。
 もっと軽い話にするはずが、いつしか重い話になってしまいました。
 最初に「回顧録」というタイトルが浮かんだのと「蚕と少女の百合」という発想があったのはほぼ同時だったと思います。それが確か二月のことです。ちなみにこの作品を書き終えたのは三十分前のことです。案外時間がかかってしまいました。やったことのない文体になかなか苦戦しました。でも楽しかったです。
 ちなみにこの作品の恋愛以外の柱である主人公の蚕が眠りにつくところですが、あれは「眠」と呼ばれる行動だそうです。この作品を書くにあたって「眠」の描写は避けて通らないのでポエムを交えつつ書いてみました。元々5,000字くらいの予定だったのを1万字弱まで伸ばしたのでそちらの描写も増えています。もう少し上手く描けたような気も、それなりに上手く描けたような気もしています。
 最後に、「これが百合?」と思われる方は大勢いらっしゃると思います。だけど、私はこの小説を百合だと思って書きました。納得してくれなくても良いです。ただ、私にとって「回顧録」は紛れもない百合作品だということを皆さんに伝えたいのです。
 さて、書きたいことはここまででこれからは宣伝に入ります。
 私は5月19日の文学フリマ東京に出店します。場所は東京流通センター第二次展示場Eホール、出店名はやみくろーみあ、ブースは「き-51」です。
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