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【エッセイ】「これnoteに書けるな」という病【1107字】

最近、やることが多い。この発言をすると、「それはタスク管理をできていないだけではないか」と思われる時代かもしれない。実際、ToDoリストの半数はやらなくて良い作業であると言われている。実際、私のやることの内、手を付けられないままタスクとして残っているものが多い。

「noteを書く」というのもそのうちの一つだ。noteは容易に文字によるアウトプットができるとても良いプラットフォームだと思う。私の見る限りでは、他のSNSのような荒れ方をせずに各々が自分の関心のあることについて言語化に勤しんでいる。

言語化を行うことは現在の自分を物質化させるという点で非常に有効な手段だと思う。感情も文字にしてみれば、存外大した事がないと分かったり、自分が置かれている状況を俯瞰したりするよい機会になる。そのため、言語化して文章を書く(のだと思う)。

しかし、実際は「これは後でnoteで書いて自分の考えをまとめよう」という部分と「これを書いたら沢山の人に見てもらえるのでは」という下心が混在している。ビューの数が多くてヨシと思う気持ちに偽りはない。もう少し綺麗な言い方にすると「他の人の役に立っている」と感じるからだと思う。

現在、私の下書きにはこの記事を含めて7つの記事が保存されている。1つは完全にメモと化していて、違う1つはもう手を付けていない事柄に関する記事だが、消せないでいる。つまり、5つの記事が現在進行系で存在しているのだ。これらが「やりたいけど、やれていない」から「やらないといけないけど、やれていない」に変わりつつある時期だと思う。

これは、noteに限ったことではない。このプラットフォームだから、すこし気を使ってというわけではなく「これをやれば役に立つから時間があったらやろう」とか「これはちょっと興味があるから時間があったらやってみよう」という思考の切れ端が、頭を圧迫している感がある。

早い話、大して進んでいない下書きは消してしまえば良い。その方がスッキリするに決まっている。しかし、ここで持ち前の貧乏性が「折角ここまで書いたのに」と囁いてくる。20年も生きていると自分の思考の癖も少しずつ分かってくるもので、おそらく最大化された利益を見積もってしまっている。それを手放すのが怖いのだ。自分はその利益を享受できなかったと、捕らぬ狸の皮算用を嘆いている。

ここで、本来の目的に立ち返る。私がnoteをやっているのは、思っていることを言語化するという目的のもとである。ビューを得られやすいように、最初から綺麗にまとめる必要もない。ただ、思ったことを言語化して記録に残す。そういった使い方をもっと大切にしていこうと思った。

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