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僕たちに「意思」はあるのか

I do something.
But, what does it mean,
"I do something"?

 私は何ごとかを為す。
しかし、「私が何ごとかを為す」とは
一体どういうことだろうか。

僕たちは毎日、生きている上で絶えず何か行動しています。この行動が、受動的に「させられている」のではなく、自ら主体的に「している」と言えるでしょうか。そして、それはどう証明されるのでしょうか。

この問いは「能動態」と「受動態」という言語表現の区分にパラフレーズできます。受動態は英語だと「be動詞+過去分詞」で表現され、いわゆる「受け身」の意味を文章に付与する構文です。能動と受動の差異は自分の「意思」が存在するか否か、という境界線で成り立っています。少なくとも、僕たちはそう教育され、多くの人にとって「している」と「させられている」境界線はこの「意思」の有無によって理解されていると思います。

ところが。

この「能動態」と「受動態」という対比は、言語の歴史の中で、ずいぶん後になって作られたものだった、としたらどうでしょうか?もっと正確に言えば、言語が開発された当初は「受動態」など存在しなかったとしたら。実は、言語の歴史を辿ると、文法の起源には「受動態」という概念がどこにも見当たらないのです。当初に存在していたのは、「能動態」と「中動態」という対比でした。そして、この対比の境界は「意思」の有無ではありませんでした。言語とは行動を思考する物差しです。そこに「意思」という境界が存在しない、これは何を意味するのか。言語の歴史を紐解き、古代ギリシアのアリストテレスの論文に辿り着くと、衝撃的な事実が判明します。

古代ギリシアには「人間の意思」という概念が存在していなかったのです。

冒頭の問いは、『中動態の世界 意思と責任の考古学』の書き出しにあったものです。本書は、言語と人類の思想には「能動と受動」という対比が最初から存在しなかったこと、「中動態」という聞き慣れない概念の正体を紐解くことで、僕たちの「意思」なるものが実際には存在しないことを論じます。

たいへん哲学的な問いであり、参照される論文には錚々たる顔ぶれの哲学者が登場します。「意思」という概念が存在しなかった時代のアリストテレスにはじまり、中動態を現代に蘇らせたバンヴェニスト、それを批判したデリダ、意思の存在の否定に転回したハイデッガー、それらを止揚し「意思」なき概念を現代に構築したスピノザ…、哲学に触れたことのない人にとって敷居の高い内容かも知れません。というわけで、なるべく簡潔に、かいつまんで内容をお伝えしましょう。

「人間の意思」という概念など、存在しなかった。それでは、あなたが今まで信じてきたものは一体何だったのでしょうか。この記事を読み終わる頃、あなたにはこの世界がどう映るでしょうか。

中動態にみる「意思」の不介在

まず、「中動態」なるものの正体を簡単に説明しましょう。前述のように、文法の起源は能動態と中動態に分類されています。具体例を挙げていきましょう。

■能動態に属する例
曲げる、与える、投げる、打つ…

■中動態に属する例
生まれる、興味がある、興奮する、動揺する…

両者を分かつ境界がお分かりでしょうか?この境界は、その動作の始まりから終わりにかけて、対象が主語の外側で完結するか、主語の内側の問題に留まるかの違いです。たとえば「曲げる」ですと、僕がスプーンを曲げることは、僕が力を入れ、僕の外側にあるスプーンが曲がって動作は完結します。しかし「生まれる」という状況は、僕で始まり、僕で終わります。

能動と受動の対立においては、「する」か「される」かが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

繰り返しになりますが、言語のはじまりは能動と中動の対比であり、能動と受動の対比が後に取って代わるわけです。皆さんは英語の受動態を学んだ時、違和感はありませんでしたか?たとえば…

I was born in 2000. / 私は2000年に生まれた。
I'm interested in fashion. / 私はファッションに興味がある。
I was excited to watch this match! / この試合を見て興奮したよ!

これらは受動態の形態をとっていますが、どこも受け身の要素はなく、意味は能動態です。お気付きでしょうか。生まれる、興味がある、興奮する…全て上記の中動態に属した単語です。つまり元々は中動態に属していたものが、能動態と受動態という対比に取って変わられた時に、行き場所を失い、無理やり受動態のカテゴリーに振り分けられたのです。

これらは「意思の有無」という境界では説明できず、単に「元々、能動態ではなかった」という理由で受動態へカテゴライズされた言語です。このように、歴史の中で「中動態」という概念が失われたとしても、その痕跡は現代にも残っているということです。

なので、たとえば「excite」という動詞は「興奮させる」という、まわりくどい使役的意味を持たせて受動態に適合させています。元々、受け身でないものを受け身表現として引き継いでしまい矛盾が生じたため、語句の意味を逆さまにせざるを得ないという二重の変換処理がされています。無理やり辻褄を合わせようとすると、こんな強引な理屈になってしまうわけですね。当時、「なんで受動態やねん」と納得できなかった方、正しかったのはあなたの方だったのです!

話を中動態に戻しましょう。前述のように、行為や現象が主語の内側の問題であることが中動態の定義でした。そこに人の意思があるかどうかは関係ありません。というか、能動と受動という対比がなかった時点で、意思という概念など発見・成立し得なかったのです。全ては自分の外側で起こる事象(能動態)か、自分の内側で継続する事象(中動態)か、その二択以外に思考の枠組み自体がありませんでした。

中動態を探る上で面白いのは「存在する」という単語が能動態、つまり主語の外側の問題と見なされていたことです。僕たちは自己の存在とは自分そのもの、内側中の内側として捉えていますが、古代ギリシアでは自己を纏った外形を世の中という外側に投じるという意味で、能動態に該当する現象と捉えていたのです。言語の歴史を紐解くというのは、人が世界をどう眼差しているかを紐解くことでもあります。これが言語学の面白いところですね。

「意思」により生まれる「未来」と「責任」

能動態と中動態という対比は、歴史の中で消え去り、能動態と受動態という対比に置き換わりました。留意したいのが、能動態という名称は昔も今も変わらず残っていますが、対比の対象が中動態か受動態かでその意味合いは変化しているということです。中動態に対比された能動態は「主語の外側」という意味であり、受動態に対比された能動態は「主語の意思によるもの」という意味です。

では、現在の能動態/受動態が発生し、「意思」という概念が作り出された意図は何だったのか。本書では「意思」の存在により生み出されたものがあると指摘しています。それは「未来」と「責任」という概念です。順に見ていきましょう。

まず「未来」という概念から。意思は過去の流れの中に変化や決定の楔を打ち込み、未来を創出するということ。記憶が過去を司る器官とすれば、意思とは未来を連れてくる器官なのです。これを逆に言うと、意思という概念がなければ、未来という概念もないということです。哲学の世界では「未来とは真正な時制か」という議論が今なお根強く続いています。

実際に、過去から連綿と続く時間の流れの延長線上に過ぎないのであれば、未来は意味のある概念とは言えません。ただの「過去の一部」です。明日だろうが100年後であろうが、過去が積み重なったものであり、未来は何ら独立して存在していません。なんとなく「過去は起きたこと、未来は不確かなもの」と区切りたくなりますが、過去だって不確かそのものです。実際に、僕は中動態の存在など知らなかったのですから。

つまり過去の漫然とした積み重ねをぶった切る刃があって、初めて「未来」はその姿が認められるのです。この刃の役割が「意思」です。

もうひとつ「責任」を見てみましょう。「刃」というワードが出たので、物騒な例で恐縮ですが、誰かが本物の刃で人を傷つけてしまったことを想像してください。この時、ふざけて刃を振り回していて偶然人に当たってしまったのか、あるいは人を傷つけようとして振りかざしたのか、どちらのケースがより咎められるでしょうか。多くの人が後者と答えるでしょう。なぜでしょうか。

後者は「人を傷つけよう」という「意思」が存在しているためです。この「意思」により、加害者はより重く咎められる「責任」を背負うわけです。刑法で「殺人」と「過失致死」を分かつものは何でしょうか?そう、「意思」に他なりません。法律は「意思」の有無を量刑の根拠としています。しかし、刃物で傷つけられたという事実に何の違いもありませんよね?「意思」が存在しなければ、同じく「責任」の違いなど図りようもなく、裁定者の心象で刑罰が決定されるはずです。

「意思」はなぜ生まれたのか

では、この「意思」なるもの、どうやって証明するのでしょうか。たとえば意思によって歴史が変わった、つまり意思により未来が創出されたというのは、後にならなければ評価できません

卑近な例で言えば、「今夜はラーメンを食べたい」という意思があったとして、それがいつ芽生えたか正確に言い当てられるでしょうか。「なんとなくラーメンが浮かんだ時」でしょうか。いや、ラーメンの美味しさを知らなければそんな思いを抱くことはできません。数ある選択肢の中からラーメンを選んだとすれば、他の選択肢を知っているという事実も見過ごせないでしょう。意思がいつ芽生えたか、その起点を特定することはできないのです。

では、責任を問う場合の「意思」はどうでしょうか。自動車を運転して脇見運転で人にぶつかってしまった、これは人に当てる「意思」がなかったと言えるのでしょうか。通常であれば、意思はなかったと処理されるでしょう。しかし自動車を運転する以上、それは凶器になり得ることぐらい誰でも分かります。運転するということは「人を傷つけるかもしれない」ということが分かっている、つまり意思を有しているとも解釈できます。このように、意思の有無など正確に見積もることなどできないのです。

いつ芽生えたか特定できない上に、存在すら正確に見積もれない、だんだん「意思」という存在自体が怪しくなってきませんか。

逆説的に言いましょう。「意思」など実際には存在しないのですが、中動態という存在を消し去ってまで「意思」という概念があると、僕たちに信じ込ませる必要があったのです。それは人類が闘争により自由を勝ち取った、民主化の歴史を考えれば分かります。

民主化とは教会や王族、貴族階級といった既得権益から権利を奪うこと。これを成功させるためには、「過去の否定」と「人ではなく法による統治」が不可欠です。過去の否定は「未来」が、法による統治は「責任」がそれぞれ受け皿となるツールです。これらを束ねるため、世界は内と外ではなく、「意思」の有無だとすり替える必要があったのでしょう。奇しくも18世紀のフランスの哲学者・ルソーが唱え、民主化の拠り所となった政治思想は「一般意思」でした。

「意思」というスローガンをぶち上げ、市民に蜂起を煽らなければ革命は成功しなかったでしょう。今では民主化が当たり前となり、今さら「意思」を「民主化を煽るために、間に合わせで作った概念でした」などと言えないわけです。僕たちは民主化の歴史の延長に生きています。僕たちが当然自分にあると思っている「意思」の正体は、人工的に作られた物語なのかも知れません。

最近では、国民感情と乖離した判例が話題になったりします。しかし、意思の存在を疑えば、当たり前の話に思えてきます。なぜかというと、法とは「責任」を評価するシステムだからです。評価対象である「責任」自体がそもそも僕たちの中に存在しない「意思」から生まれたのだから、僕たちが違和感を抱いて当然なのです。「意思」がフィクションならば、「責任」もフィクションで、論理的に考えて司法もフィクションです。ノンフィクションである国民感情と齟齬を生じて当たり前です。

ところで、「意思は存在する」とお思いの皆さんは、一体いつ、どこで、「意思は存在する」と思うに至りましたか?誰かに気付かされましたか?テレビや漫画の影響ですか?先生や両親、友人にそう教えられましたか?

なによりも、どうして意思の存在を信じると選択できたのですか?

もし、漫然と垂れ流される言説を簡単に受け入れ、根拠なく「意思はあるものだ」と思い込んでいるとしたら、過去の流れに安穏としているという点で「意思」に反する思考態度です。「意思」があると信じること自体ではなく、その根拠が薄っぺらいことが危ういのです。

僕たちに「意思」はあるのか。重層な歴史が僕たちに問いかけています。

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