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祈ること -カトリック校で培った、自分を知り言葉にすること

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

- ヨハネによる福音


私はカトリック校出身だ。中高時代は毎週のようにミサがあり、毎朝、そして下校時にも祈りの時間があった。カトリック行事のために聖書の一節の暗誦もさせられた。英語の授業は英語の祈りから始まった。英語の祈りの暗記は中学入学時の最初の課題だった。

祈りが身近であること。それは自省する環境に恵まれているということだ。自分を振り返り、反省し、これからはこうありたい、だから神様、お見守りください。そんな感じだ。神様叶えて!ではなく、今日はこんなことができた、こういうところが良かった、今日はここがいけなかった、今の自分にはここが足りない、明日はここをこう頑張ろう、そんな決意表明を自分に対してするようなものだ。なんとなく思う、でなく、しっかりと言葉にすると自然と行動に繋がる。それは自分の心を確かに支えてくれる。神様とは、もうひとりの自分なのだろう。

人間は思考でできている。

カトリック校出身と言っても私は洗礼を受けておらず、信者ではない。聖書の細かい内容も、登場人物の名前も正直あまり覚えていない。
祈りに対する先の解釈も、経験を通しての自分自身の気付きによるものだ。“ 祈りとは ”と誰かに教えられたわけではない。

冒頭の福音が本当に伝えたいことを研究したこともない。ただ、高校時代に暗誦させられたため未だに一部は諳んじられる。何度も口に出した言葉はいつのまにやら自分の身になっているものだ。言葉にすることが自分を形作ることを思うと、言葉が全てで、言葉のうちに命がある。その命こそが人間を照らすという流れが自然に自分に沁み渡るので、この一節は自分にとって心地良い。だから、ふとした時、この福音を思い出す。

中高時代の祈りの時間、つまり内省の時間は、自分のその時の溢れる想い、考え、気づきを常に言語化する訓練をさせてもらえる時間だったように思う。
祈りの時間でなくとも、何か行事や会があるたび、必ずその振り返りとしてその日のうちに気付きや学びを文字に残し提出させられていた。リアクションペーパーというやつだ。時には無理に想いを捻り出していたこともあったように思う。けれど、どれほど動いた心も、普通に暮らしていると、指の隙間から零れ落ちる砂のように人は忘れてしまう。絶対に忘れてしまう。

だから、言葉にすることは素晴らしい。言葉にできることは素晴らしい。言葉を持つ人間は、書き残すことのできる人間は幸福だ。
振り返る想いもなく、自分が何を考えていたのか分からず生きていく。それは砂漠のような人生だ。
旅の途中、ふと立ち止まり振り返った時、ああ確かにあそこにこんな木が生えていた、それにはこんな実が生っていて、その色と甘さは宝石のようで。あそこではこんな気難しいおばあさんに出会ったな。どうしてもうまくいかない人もいるものだと知ったな。あの山を登る時の道の険しさはこんな感じだった、だけど頂で見えた景色はこれ以上ないブルーとグリーンで、谷にはこんな家が見えて、、そんな風に自分の軌跡が伝えられたら、きっとそれは豊かな人生だ。

最近ネットに転がっていた言葉で、高校時代あれほど苦しめられたクーラーのない教室のうだるような暑さやその時の自分の感情が、驚く程思い出せないことに愕然とした、というものになんだかハッとさせられた。
取るに足らないことかもしれないけれど、毎日毎日自分を捉えていた思いさえ、人はいとも簡単に忘れてしまう。あの頃どんなことに悩み何が自分を支配していたのか、何に鼓動を高鳴らせ、何に嫉妬していたのか。環境が変わり、ものの考え方は変わる。歳を重ねるにつれ、経験を経て、人は痛みに鈍感になるように自分をコントロールしていく。少しでも傷付かないように。
そうして忘れていけるのも人に授けられた力のひとつとは思うけれど、何もかも忘れゆくのはやっぱり寂しい。

人間は思考で成り立っていて、言葉は人そのものだ。
自身でも見えざる自身の心をもひたすらに炙り出し言葉に換えていた中高の日々は、卒業して10年以上経った今も私という人間を支えてくれている。

もしかすると、私は日常において、小さなことにも何かを見出そうとしがちな方かもしれない。

10年前のmixi時代、哲学日記楽しみにしているよ、とか、日記好き、と言われる時にそれを多少感じることはあったけれど、仕事を始めて一層感じるようになった。

仕事では半年ごとに自身の達成したことや学んだこと、次期に取り組みたいことなどを記述し上司に読んでもらうことになっているのだが、周りは同じ毎日の繰り返しで書くことなんてないらしい。前回のコピペで対応、なんて人も割といるらしい。後ろを振り返るぐらいなら今やるべきことをやるから!と言っている。
それも分からなくはないが、私はどんなに忙しい時もその振り返りが大事な時間で、自分はこんなことをしてきたな、結構価値あることをしてるじゃん、ここは頑張ったよなあ工夫したよなあなんて振り返ると、それは自信にも繋がったし、次すべきことが導き出されることもあった。振り返りを人に読んでもらえることにもわくわくした。それはチャンスでもあったので、絶対にその振り返りは真剣に書いた。

気付きや学びのない瞬間はない。
得たことなんてないよ、という同僚達も絶対に何かを学んでいる。それを言葉にしようとしていないだけだ。心を炙り出すことに慣れていないだけだ。
きっと私に与えられた仕事内容は周囲とさほど違いはないだろう。けれど、私は常にそこから何か気付けることを探し、より良くできることを、より周りのためになる方法を探して仕事に取り組んでいる。思い返せばそんな仕事の仕方をしていた。それはいつのまにか周りからの信頼に繋がり、振り返りを読んでくださる上司達からの評価にも繋がった。言葉にすると相手に伝わる。こんな考えを持ちこんな信念のもとにこういう行動を取っていると伝えられる。自分のうちにある思考過程を他者に文字で以って触れて頂ける機会というのは、意外と多くないように思う。そんな有難い機会に乗らない手はない。

高校卒業後、心が折れやすくなった頃、そういえば私は祈らなくなったな、祈りが自分を少なからず支えていたのかもしれない、と気付いたことがあった。
自分を振り返り自分を知ることは自分の芯を見つけ、自分を支えることだ。

言葉に支えられたあの頃を改めて思い出し、言葉をもっと使いたい。言葉を残したい。そのために言葉をもっと知りたい。高校卒業から10年以上を経て、そんな風に近頃思う。積み残す言葉は、きっと未来の私を支えてくれる。

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