映画『天気の子』覚書

※この記事は全てネタバレです。まだ観てない人間は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろう!(しかしまあライ麦畑で捕まえてはベタすぎじゃないですか?地方から考えなしに逃げてきた男の子らしいといえばらしいけど)


『天気の子』を観た

 月の始めはファーストデイでだいたいどこでも映画が安い。つまり映画を観るということで、『天気の子』を観に行きました。そんなに真面目な新海ファンではないです。今のところ一番好きなのは『言の葉の庭』です。大まかな感想は別のところでまとめて書いたのですがみなさんには恥ずかしいので見せません。残念でしたね。
 ところで先日『海獣の子供』という映画を見ていたのですが、

 まさか『天気の子』を観ながら思い出すことになるとは思いませんでした。近世オカルトvs近代オカルトという感じですが、直球の『海獣の子供』に比べて『天気の子』は異様な形態をとっているので人々の感想を観ていると意外と感動している人がいてびっくりしました(そんな映画じゃなくない?)。後半僕は無音で爆笑していました。頼むから最後まで笑わせずに見せてくれよ長編アニメを。何で最近のオレの引きはこんななんだ(ひとつ前に観た映画が『エル・トポ』でした)……代わりと言ってはなんですが、ワンピースの最新映画の予告編だけでちょっと泣きました。最近ああいう王道を摂取し足りてなかったからしょうがないです。

以下思いつき

・作家としての新海誠は、物語への工学的アプローチをとりつつ、本筋とはあまり関係のないところでフェティッシュを思いっきり表出させる点において庵野秀明の系譜にあるといえるだろうが、二人を決定的に分かつところがあり、それはオカルトへの姿勢である。庵野の場合オカルト的なものを用いても良くて単なるギミック、アクセサリーに過ぎない。何せ庵野は正しく科学の子である。精巧な人工物と超現実的な官僚制へのフェチシズムはオカルトと相容れない。祈りは地上のものであり、純粋な演出以上の域を出ない。
 ところが新海は物語の中核にオカルトを平然とぶち込んでしまう。エンターテイメントとしてそれが有効だという割り切りである可能性もあるが、あれだけ露骨にキャラクターを実存的でなく機能的に設計してしまう新海があのようにオカルティックな意匠(占い師、ム―、おそらく元は地上に居た鎮守神を祭る屋上の鳥居、巫女などなど……)を生活と連続した部分に投影するところにはやはり執拗さを感じてしまう。祈りは明らかに超越的なものである。

・今作の東京は『君の名は。』で頂点に達したであろうリアリズムからは若干距離をとっている。理由は明白で、『君の名は。』でオカルト的要素を一身に背負っていた田舎を追放したからだ。歴史性と秘境性によって奇跡のリアリズムを担保する田舎(糸守町)は東京に比べて明らかに解像度が低い。『天気の子』では、タイムスケールを数百年というレベルに設定することで、東京に江戸を重ね合わせ、ぎりぎりのところで東京の鎮守神を想起させ、東京を呪術都市に転化することに成功している。

・銃のくだりが雑とか言う人がいるだろうけど、あれは世界からの約束された福音なのでリアリズムで説明する必要が無い。穂高の実力に余る事態が発生したときには必ず銃によるエンパワーメントが発生するわけで、世界と解釈が完全に一致している。最高。日本も銃規制を撤廃しろ。

・若者の台詞が微妙に古臭い感じがするのだが、原因は「ウケる」の多用だと思う。だけどたぶん「ウケる」はわざと多用してて、これを大人が子供相手に使うと間接的に相手の意志を否定できるんですよね。当人たちにとってはあまりにも重大な子供の世界観に冷や水をかける、都市生活者の常識。この映画、子供たちを抑圧する機構が警察、児童相談所、都市生活者の常識……と全部近代の産物なんですよね。

・それに引き換え伝統的な抑圧機構──家族、地縁といったものが丁寧に消されていますね。家出少年の穂高、両親ともいない陽菜と凪。というかみんな親類が死にすぎではないか。死んだら泣けるというものではない。
 

 ・とにかく(『天気の子』は逆説的な形だが)東京ポルノで、『君の名は。』ではまだあった地方は完全に抹消された。安倍公房はずっと都市と郊外の問題について逃げずに考え続けたのに、新海の野郎、都市にひきこもることを選択しやがった。

・この映画で一番良いシーンは、高校生以下のガキ達三人だけでラブホテル(歌舞伎町?)に泊まり、高い金を払ってインスタントでジャンクな飯を食べ、カラオケをするシーンである。新海誠の倫理は、全年齢対象の映画で未成年を歌舞伎町に正面から堂々とぶつける。性においても子供を子供扱いしないという新海誠の高邁な人権意識が見て取れる。この時点で最高なのだが、分相応な力もないのに陽菜たちを守ろうとする穂高たち一行が東京をたらい回しにされ、ようやくたどり着いたホテルでポジティブに笑う。ここが本当にヤバい。まだ観たことないんだけど、是枝監督の映画(とくに『誰も知らない』)を観てフォローした方が良い気がしました。リアリズムとは明らかにかけ離れた情感を3人は持っている。そして未成年たちがラブホでユートピアを実現!もう何も言うことはない。神様に「なにも足さずなにも引かないでください」という、思春期らしい、しかし祈る対象が明らかに一般の学生のそれではない祈り。こういうところに新海誠のマジなオカルトへの気持ちが垣間見える。

・陽菜がはだけさせた、透き通り始めた胸を穂高が直視して、はじめて「見てません!」じゃなくて「見てる」という。最高。この瞬間、思春期初期のしょうもないステレオタイプな性的眼差しが、純粋な愛の気持ちでもって内側から突き破られる。

・陽菜が消えた日に知り合いが皆同じ夢を観るのはユング的な集合的無意識の思想が反映されているんだ!……みたいなことはあまりにもあまりなので恥ずかしくてとても言えません。ラストに向けてオカルトに懐疑的だった須賀さんすら”覚醒”し福音の少年を支援する姿には感動を禁じ得ませんでした。

・光を追って島を出たのに、最序盤で大雨に打たれて喜び、猫に「アメ」と名付けるが、東京はラブホテルで晴れて欲しいと言ってしまう穂高くん。完全に情緒不安定の異常者といった趣だが、「はっきりしない男は最悪」と凪くんに言われる通り、陽菜が人柱に立つまでは優柔不断な性格である。島での雨は閉塞感の象徴であり、光を求めて船に乗る。関東がずっと雨なのは知っているだろうから、船上では雨を浴びることで東京への期待が高まったのだろう。勢いそのままに猫に「アメ」と名付ける。基本的に直情型のバカなので、好きな人の質問にも深く考えることなく答えてしまう。このようにして我々は穂高くんを最良の解釈でもっていくわけです。

・仰げば尊しを歌うのを途中でやめる穂高くん、いいね。思い人を本土に残して連絡も取れないまま、保護観察付きだった日々が「おもえばいと疾し」なわけないしね。「今こそわかれめ」とか言うけど家族とは最初から切れてて、今から思い人に会いに行けるわけだから逆だもんね。最後の最後に、告白というロマン主義・個人主義の産物であり本質的に都会の文化を、故郷でも味わえるかと思ったら、女の子の口から出てきたのはゴシップネタでした。残念、田舎はどこまでいっても田舎です。諦めてください……

・特に序盤はテンポが良くてびっくりした。長編はガバガバというイメージだったので……

・オカルティック・スピリチュアルゾーンの描写についてですが、これは流石に気合とかけている時間が圧倒的なので『海獣の子供』の勝利です。でも『天気の子』もカメラワークはすごく良かったと思います。

・平泉成、喋るだけで虚構世界にひびが入るのですごいと思った。小栗旬めちゃくちゃ良かったです。本田翼も普通に良かったと思う。

・挿入歌で魅せる演出、俺は歌詞を聴きとるのが苦手だからかもしれないけど今回のは完全に要らないと思った。絵が基本的に『君の名は。』ほど派手じゃないし、曲とテンションが噛み合っていない。

・しかし考えてみれば、子供の性の肯定、反現実的姿勢、アイデンティティの都市的なものとの同一化、過剰に美しく脚色された幻想としての首都の街並み……全てがオルタナ右翼との親和性を示している。新海誠は明らかに現在の自民党や幸福の科学との相性がいいはずなので、プロパガンダ映画を撮ってくれないか期待している。ヤバいものが観られるはずだ。

という感じですね。長くなっちゃいましたが、今回はこの辺で。


延命に使わせていただきます