主体の<法>【更新:2024/2/29】
私は最近、専らフロイト、ユング、ラカンの精神分析に傾倒しているが、なにより現代思想に最大の影響を及ぼしたのはラカンである。当然、市井におけるユング受容の広範さや創始者フロイトの執拗な理論形成というのも絶対に重要なのであるが、やはりラカンを通過しないことには諸々の言説の理解が追いつかないように思想文化が形成されている。だから、今回書く文章は最近勉強しているラカンとユングの記述したところのものからの影響が大半を占めることになる。ラカンの理論の中心概念は「父のノン」と呼ばれるものであるが、これは「父の否(non)(=禁止)」「父の名(nom)」を掛けたものであり、だいたいの意味合いで「(象徴的)ファルス」に対応している。そしてもちろん、「父の名」は神聖であり「みだりに唱えてはいけない」ことで、構造的空白を構成することになる。しかしその構造的空白は、「禁止」・・・言語化された「法」というかたちで民の精神生活に影響を及ぼし続けることとなる。これは西洋の国家観、…すなわち「国家」というものがすっぽりと国土を覆うものではなく、我々の天上に聳え立つ共同幻想であるというあの国家観に対応している…。なぜなら、禁止や名前は「権威」であるから。このあたりの事情はユダヤ-キリスト教と精神分析の対応関係にも指示される事態なので、精神分析的言説を活用するにもそれ相応の知識理解が前提されるものである。(「神は死んだ」という叫びと「主は生きておられる」という福音は、消滅するとすれば全く同時に起こることであろう。)
ちなみに若年者のラカン入門に関しては、現在入手しやすいものであれば片岡一竹の『疾風怒濤精神分析入門』がよいと思う。
※これまであまり、既に投稿した記事の更新はやってこなかったが、この度大幅に手を入れて更新をしてみた。内容の統一性を毀損しないように工夫した。再読してもらえば幸いである。
視床ゲート機構と主体の情報論
私はいくつかの過去記事で「知的直観」や「原印象」について紹介してきたが、それらは神経から説明をつけようとすれば説明だけならばつけられるものである。
脳内の「視床」という、感覚入力が通過する部位に、「視床ゲート機構」という機構がある。
ここは主に「情報の取捨選択」を行っているところの機構である。前頭前野からもここに投射がみられるので、「ヒトでは統合失調症患者において、視床ゲート機構の機能低下あるいは消失が聴覚に関して報告されている。」とあるようなしだいで、敷衍すると、人はここにおいて通常「閉じて」おり、感覚過敏を抑制しているのである。「開かれすぎているために閉じている」というよくみられる事態は、この関わりで把捉できる。だから、我々は通常生活していて、道を歩いていて、動画を見ていて、見るものしか見ず、聞くものしか聞いていない。生物は本性選好的であり、「それそのもの」「リアル」などとは縁遠いイマジネールとサンボリックを生きていると言って差し支えない。このことは既にカントが『純粋理性批判』において「現象/物自体」「構想力」などの議論で明確化したことである。さらに付言すれば、外界からの細胞への刺激が、或いはここに言うように「刺激」が「刺激」となった時点で、既に細胞においてすら「そのもの」からは隔絶されていると考える。
【更】すなわち、「活動態の直観」などといったものは、実際には「それそのもののそれ」を見ているわけではない。あくまでも、既に細胞において
、或いは末梢神経において刺激になったものが経由されたものが入力されているので、そもそもそのものとは何だろうかという話にしかならないが、往々にして「開かれ」すぎた人は、そのもの、言い換えるならば「実在」を、「存在そのもの」を語り出す。
ラカンの「鏡像段階」の議論では、人はそれ以前、すなわち全身を鏡像的に捉える以前は、心的現実としては「寸断された身体」であると考える。我々は鏡に全身を映してその身体を「母」に、「これがあなたですよ」と指示されてはじめて主体の「統合」を獲得するという議論である。ラカンにおいてカントと異なるのは、もはやそこにデカルト以来のあの「超越論的統覚」を要請しないところである。しかし冒頭で示したことと関連して付言すべきこととして、確かに「反省」や「自己意識」と関わるところの超越論的統覚は要請されないが、一方で基礎づけなき「構造」にもむしろ再超越化した父の審級がその象徴界の構造の中心に位置づけられているということである。ところで私は「構造主義→ポスト構造主義」という名称よりも、むしろ実態に即せば、ソシュールからレヴィ=ストロースなどの「静的構造主義」と、ドゥルーズやシステム論などの「動的構造主義」と見做してもよいように思うのだが、どうか。精神分析は理論よりも臨床という観点より、あくまでも理念的には動的であると考えている。それが「力動」の私なりの解釈的解題であるのだが。
さて、先程の「視床ゲート機構」およびそれへの投射に問題が生じている事態が「特性」や「症状」として発現するものだと思っている。精神分析家のカール・グスタフ・ユングは、母と自身の原体験より「NO.1」と「NO.2」という人格概念を思いついたようである。「NO.1」とは通常の自分であり、表面に出ている「ペルソナ」にもやや近い。ユングの母においては、社交的で陽気な一面ということになる。「NO.2」とはそれとは異なり、どこか異質な、スピリチュアル傾向を示す内気な「自己(self)」のようなものを指している。これは明らかにユングの母親が霊媒体質であったことからきているのだが、霊感的な知恵で真実を言い当て、宇宙的なところがあったというようなものである。このように元来オカルト傾向の強かったユングであるが、後年に至りいよいよ「シンクロニシティ(共時性)」という概念を提唱し出す。これは、一般に「偶然の一致」と呼ばれるものが実は「有意味」に「繋がって」いるというものである。ユングは、これを弟子とともに量子論的に実証しようとしていた。ユングは自身分裂病の傾向が濃厚だったので、かなりの精神の危機に見舞われているようである。ユング由来で人口に膾炙したものに「中年の危機」というものがあるのだが、これをユングは「創造の病」だと述べている。これですぐに察していただけるだろうが、シンクロニシティを感覚するにおいて、例えてみればドッペルゲンガーを体験するように、恐らくあの「情報の取捨選択」が通常とは異なる事態になっていることがみてとれる。
【更】私の見るところ、この「中年の危機」は、ラカンの言う「精神病」圏の人間がよく見舞われるように思う。要するに、そうした類型の人は自分の人生に対してすら枠組みを設けないようなところがあるが、だいたい30代にもなると周囲から「大人」として、もう青年ではいられない生き方を要求され、或いは結婚や出産などで、或いは職場などで、内的な自己と齟齬をきたすものである。そうしたときに「発病」や「自殺」が起こりやすいことはわかるだろう。私は、文豪の自殺や女性的な発病体験のみならず、イエス=キリストも30代半ばのあのタイミングがちょうどいい死に時だったと思えてしまってしかたがない。
そのような病理における陽性症状の事例として至適なのは「昏迷」という症状である。これは、外見上動かなくなるが、実際の内的状態は非常な活動状態であるから、なにか外見上派手な症状である妄想や遁走=逃走的な症状よりもいっそう陽性症状的であると言えると思う。「人は信念があるから行動することができ、信念は観念連合により体系を形成する」というテーゼはまだ事態の全貌を取り出せていない。ブランケンブルクの指摘した「自明性の喪失」やベイトソンの「ダブル・バインド」などを参照して、先の「視床ゲート機構」問題も考量するに、事態は現代的な問題に似ていると言えると思う。信念や妄想の体系を構築することは、こんにちますます陰謀論がそれに接近している。しかし、そのような目につきやすい「集団ストーカー」妄想などの一例を取って森の全体を見た気になるのは尚早であり、釘をさすが慎むべきことである。実際には、「解体型」などでは逆の事態がみられるであろうし、そこにおいてはたんにソフトウェア的な故障ではなくハードにも問題が進行していくことがわかる。「昏迷」においては、だからこんにちの「情報過多」と照応させるのに近い見方が専門的にもよくみられる見解のようである。すなわち、「ダブルバインド」というのも「板挟み」という短絡化では決して捉えられない。「選べない」「決められない」という事態に近いようなものであろう。精神病理学のヤスパースは分裂病を「了解不可能」として、いわば了解性においては他者の領域に放逐したが、とはいえ常に同時に接近しようとする態度は求められるのではないか。例えばニヒリズムなどというのはたいていが報酬系の機能低下による倦怠と無関心なのであるが、逆に過剰さにより何もかもに有意味さが付与されればむしろそのときこそ決断不能に陥るのではないか。
グノーシス主義について、或いは「聖霊」という謎
グノーシス主義とは、訳せば「認識主義」となるものであるが、これはこの世的なるものと身体性を否定的に捉え、彼岸的なるものと精神性を善となす二元論を意味する。紀元前後から地中海と西アジアで流行したようである。当初の、原初の「真の世界」「善なる世界」は「プレーローマ」という
「至高神」の充溢であったということである。この「充溢」という言葉について解題しておくと、哲学の世界では、実は「位相」や「存在」の議論にその痕跡を留めている。an sichは充溢的であり、また「常に既にimmer schon」充溢した存在ということが、というよりも、そのようなニュアンスで捉えられている現象がある。だから「一者」の充溢は溢れ溢れて流出するという表象が成立するのである。かなり単純な人類共通のイメージである。その「至高神」のもとに諸々の神的存在があり、それのことを「アイオーン」と言う。ユングの著作に『アイオーン』というものがあるのはこれを指している。このうちの一つである「ソフィア(知恵)」が思い上がって「デミウルゴス」を造った、ということである。デミウルゴスとはプラトンの宇宙論である『ティマイオス』に登場する「造物主」のことであり、これをグノーシス主義ではあの西アジアの唯一神と対応づけるため、この世界は悪の世界、父なる神は悪の神、ということになる。そもそもこうした思想の根拠は、どう考えてもどう見てもこの世界がいい世界ではなく、悲惨と悪に満ちた世界であるという、太古より神に対して問われるあの難問である。そこで、実践としては、グノーシス主義は身体を軽視し「認識」を重視してひたすら精神性、霊性を回復しようとする。これは現実によく起こりうることだが、「知」や「認識」で自己形成をすると実際に下半身的性格が薄らぎ、頭部にエネルギーが集中するようなプラトニックな人間になる、ということがよくある。だからこれはグノーシス主義の専売ではなく、古来洋の東西を問わずみられる人格形成のありようである。チャクラが頭頂部から炎になっているあのイメージにあたるように感じる。
さて、ユングはある時、バーゼル大聖堂に神が排泄し、排泄物で大聖堂が破壊される、というヴィジョンを見たようであるが、これは一般に、キリスト教よりもさらに上位の次元がある、という心的現実であるというような解釈がなされる。すなわち、ユングにおけるグノーシス主義的傾向である。「一者」とは、「至高神」とは、いったい何者であろうか?
私は睡眠導入剤を服用して眠るのだが、その際眠りに落ちるまで、どうやらいつも、「部屋の中に何かいる」という感覚が拭えないようなところがある。或いは、金縛りになって人の姿を見た人は多いと思う。また私事であるが、去年の夏『カラマーゾフの兄弟』『河童』『昔話の深層』を同時並行的に読んだ際に、奇妙な感覚に陥り、皮膚感覚が湿潤になり、ずっと押し入れの中からまなざしを感じていた。これらの状態は恐らく「退行=分裂」的な体験である。この「退行=分裂」性は、なにも個人の心的発達のみならず、人類の精神史においても妥当するように思う。これが「霊性」の基本感覚であると捉えている。私はその時、この状態を「情態支配」と命名していたが、実際に、世界がそうした感情に色取られた感覚だったので、じっさいに「情態支配」であった。
キリスト教の三位一体の神の三つの位格とは、「父」「子」「聖霊」である。なぜ「母」ではなく「聖霊」なのだろうか?「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」…。或いはこのエピソードは鍵となる。
これはイエスがバプテスマのヨハネから水の洗礼を受けたシーンであるが、聖書において鳩は、ノアの方舟にもみられるように、平和や安らぎの象徴である。イエスも「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と言っている。このことから、聖霊=鳩、というイメージ結合は、聖霊が母なる存在であることを刷り込むような効果があると思われる。
聖書を読んでいただければわかるが、この「聖霊」の不気味さは異彩を放っている。しかし、実感として教会の信徒、姉妹たちはことのほか「聖霊」を重視するのである。ちなみに「ソフィア」=「知恵」であり、ヨーロッパにおいてこれは女性に割り当てられている。「ソフィー」や「ソーニャ」の語源であり、もちろん「フィロソフィア」のそれである。恐らく、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で定式化したような、「ソフィア(知恵)」は「ヌース(理性)+エピステーメー(知識=根拠のある知)」というようなことは、プラトンより前の、すなわちソクラテスのフィロソフィアにはなかったはずなのである。恐らく、プラトンとアリストテレスにおいて、ソクラテスが倫理化された。だから彼こそが「真実哲学した人」であったのであって、プラトンに「狂ったソクラテス」と言われたシノペのディオゲネスこそ真にソクラティックであったと思う。そもそもソクラテスの生き方を教説として倫理化したプラトンは「狂ったソクラテス」と言うが、ソクラテス自身のダイモニオンとカタレプシーの精神性とはなんだったのか。
このように考えたほうがアテナイの霊感に相応しく、「知への友愛」とは、すなわちユングにおけるアニマのように、「肉体」から「ロマンティック」へ、「ロマンティック」から「霊性」へ、「霊性」から「叡智」へと至るようなものだったのではないか。こう考えると、ユングはきわめてプラトニックな人であったのだろうと思うが、或いはそれはソクラティックな側面と言った方がいいのかもしれない。
「人間モドキ=オムレツ」神話
フランスの精神分析家ジャック・ラカンの有名な言葉に、「人間モドキ=オムレツ」というものがある。これは、乳児期に対して仮想されている「母子相即」への一刺しということにもなる。すなわち、「殻のない」卵同士が一体になろうとすると、すなわちかの「アンドロギュノスの妄想」を具現化しようとすると、当然グシャリと潰れて、オムレツのようになるほかない、というものである。だからここに、主体が個体として確立するために「第三者」=「父」による「去勢」が要請されるのである。或いは、このように夢を諦めさせることを「去勢」と言うとも言える。
こうした際に、重要な発達の契機としてラカンは「鏡像段階」を提唱しているのであるが、これは、鏡像の自分を自分と認めるまでは「寸断された身体」として生きていたものが、鏡像段階を経て、「鏡像という他者」を自己と思い込んだときから、自己の統合が成立するというものである。このさい、どうも鏡像を自己だと指し示す他者としての側面での母が要請されるようである。ちなみに、フランス現代思想界隈でたんに 他者 と記述される場合と <他者> と記述される場合とでは意味合いが異なっていることに注意されたいと思う。他者は向こうではautreであるが、<他者>はAutreである。すなわち、れいの「小文字の他者」と「大文字の他者」のことなのである。小文字の他者とは、現実的な日常における他者や、対象a(例:乳房、糞便、まなざし、声)などを指すが、「大文字の他者」の場合、それは例えば「絶対的に他なるもの」、すなわち「神」や、私の見立てでは、あの子供の頃に感じていた、大人たちへの幻想、すなわち「大人の原像」を指している。しかし少し考えても見てほしいが、現実感に照らせば、小文字の他者とされているものでも、なにか大切な友達などであればもはや「大文字の他者」と区別ないように作用しているものである。逆を言ってもいいが、いかに「神」や「大人」、すなわち例えば大衆にとっての権威ある学者などといえ、或いは信徒にとっての父なる神の法といえ、真に絶対的に作用するものだろうか。発話された言明は、解釈の門を通過しなければ原義的な理解とされるものも成立しない。その意味で、どうしても個人主義的聖書解釈のようにならざるを得ないのであるが、ゆえにこそ公共性を担保するためには、一般の人々に対しては、何らかの権威の判子が必要とされはしないだろうか。すなわち、言葉を駆使できる者は、たんに鳴き声としてそれを用いるのではなく、同時に重要な局面では責任ある言語運用が社会的に要請されているはずではないだろうか。ところで、「母性」的なものを喚起させるほうを「小文字」として、「父性」的なほうを「大文字」としていることに注意されたい。これがラカンの自己治癒の一つであることは推察できる。
ある種の宗教家や詩人、作家、アーティストなどは往々にして無責任であるかぎりにおいて魅力的で優しさがあると思うのだが、そうした精神病質は万人の目指すべき徳ではない。存在そのものを目指してみたところで、結果するところは乳房の享楽ではなく早い話が監獄への拘禁であろう。私はだから「統覚なき統合」を構想しているが、そのような者において通常起こる事態は早い話が「統合なき統覚」という閉じ込めである。ちなみに「統覚」というのはだいたい「コギト」=「自己意識」「近代的自我」、すなわち言語的に反省して疑っているかぎりでの<わたし>のことと捉えてもらえばよい。
吉本隆明の芥川論への違和感
吉本隆明と言えばある世代にバイブル的に読まれたことで知られる評論家・思想家であるが、実際に私は近所のジャズ喫茶で「世代」のマスターと吉本の話をし、そのジャズ喫茶には吉本の詩集まで置いてあったので、その世代の人たちの入れ込みぶりは本当なのだろうと思うし、直接読んでいない知的階層や世代まで広範に影響力が及んでいるように思う。
吉本隆明の主著『共同幻想論』の中頃の「巫覡論」の出だしで、吉本は芥川龍之介を論じ始める。
ここで吉本は『遠野物語拾遺』から<離魂譚>を引用しているが、それは割愛する。
確かに村落共同体の母胎性というのは、よくわかるし、東アジアの人間にとってみれば、道家的な、『桃花源記』などで描かれ続けて来た「桃源郷」の「意境」でよく了解されるだろうが、果たして本当に芥川はさらに「一切の幻想からの解放」を求めていたのだろうか。この後に論者の吉本は「融即律」で有名なレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』を引用するのだが、結局吉本は「巫女」という、共同性との対幻想の対象ではなく、「シャーマン」的な、自己幻想と共同幻想の「シンクロナイズ」を析出する。しかし「人間モドキ=オムレツ」神話を想起すると、考察すべきは「母胎」ではなく誕生後ではないだろうか。
ここでこの才気ある文豪が「親子丼」とともに「地玉子、オムレツ」を傍点で強調しているということは、恐らく本当に「オムレツ」に「そういう喚起力」、元型の直観を喚起するものがあるのだと思うほかない。ラカンに戻ると、あのラカンの理論の定まらなさ、<法>の更新、すなわち天性の宗教家気質を想い起こしてほしい。そのようにラカンは間違いなく詩人肌の、或いは「天才肌」の分析家であった。
【更】私はこれを書いた後、ジャズ喫茶でオムレツを注文し、食べた。結局、このことについては、オムレツの調理過程を想像することも大事だが、オムレツが素直においしいという事実に着目することも大切であるように思う。
ところで吉本には「芥川竜之介の死」という評論があるが、その大要は、芥川の自殺には従来評されてきたような時代思想的な意味はなく、どこまでも「文学的な死」であった、というものである。主知主義的作家の死ではなく、出身コンプレックスによる墜落であると。
私はここで作者の意図通りに読むことにはあまり関心がない。(或いは私のそのような読みこそが作者の真意やもしれないとは思う。)
ユング派の精神分析家、エーリッヒ・ノイマンによると、「聖ジョージの竜殺し」は、心的な母殺しを象徴しているとされる。河合隼雄も論じているように、西洋の「竜殺し」は基本的には「母殺し」のことである。一方で、東アジアでは浦島太郎の竜宮城のように、殺すような描写はみられない。むしろ、殺されるのはたいてい「蛇」ではないかと思う。
すなわち、西洋の竜殺しに対して、我々の東アジアの基本的なマザーコンプレックスが露見されるのであるが、自身の名前に「竜」があることは、「竜殺し」ができなかったことを暗示してはいないだろうか
。
この「或狂人の娘」は芥川の母の事だと考えて差し支えないが、この箇所には予め伏線が張られている。
さて、ここまで取り揃えて、今後検討に付すべきこととしては、「ツォイス」や「デミウルゴス」といった「父」を最高審級として認めないことから問題が生じるのか、問題が生じているからそうなるのか、という脈絡上の問題である。
ここに、私たちが「存在は法に先立つ」と容易に言い得ない理由もあるように思う。存在至上主義とは、或いは法に先立つ自由、すなわち「自由-存在」を最初に置く考え方は、すなわち近代の人権、自然権思想の基本である。ヒューマニズムとは、案外「人間的」ではないのではないかという訝しみを持っているところである。この感度が先に述べた「去勢」の意味である。
考究を継続したい。
2024年2月20日
更新:2024年2月29日
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