未来へのディシプリン

 人はとにかく、自分自身がどうなるかわからないことに予期不安を覚える。それは、あらゆる可能的関係の全てを知悉することで、その只中における活動態としての私の行為について、より悪くない選択肢を選ぼうという受動的な態度の現われである。
 問題はこうである。世界の実相が変態してしまうほどの実践的(practical)な行為がある。または神経系およびそれに類するものの激変は、意義として実相変態に等しい。ところが、1000年後のことを知らず実存的にこんにちを生きる私を生き続けているところに、たんに可能的な未来との埋めがたいギャップがある。すなわち、こんにちの私の方は当分、実相も含めて、だから現在という感覚で把握されるところの幅においてとうてい激変しそうもないという現実性があるということである。きっと10年後の私も、痛いものは相も変わらず痛いし、オリオン座は輝き続けているだろうし、或いはオリオン座の一角が消えても世界の実相はなにも変わらないだろうし、もっともっと卑近なところで言えば、世界的商業は回り続けているだろうというこの現実性である。しかし、可能性×未来、という二つのワードが掛け合わされた途端に現実性は一変する。どうもありそうもないことがあるような未知への不安に引きずり込まれるのである。
 補足しておけば、現実性はつねにあらゆる時間と空間の方角に対してであっても、可能性における現実性である。
 過去。歴史はあらゆる可能的な構成としての歴史に対するひとつの現実性としての歴史であり、それ自体としての歴史は存在しえない。とはいえ同一の地平における歴史解釈が矛盾するかたちで対立するというのは、明らかにどちらかが誤っているか、或いはどちらともが誤りであるかである。どちらも正しいという相対主義がその点において成立するというのは悪しき矛盾である。
 現在。可能的な現在は位相的な議論であり、もはや理念としての世界概念の問題であるから、やすやすと結論が出せるものではないはずであるが、苦しみの現存在はいまここにあるこれであるから、このこれについてはそう問題にはならない。しかしこのこれこそが決定的な問題なのである。近代人は幅のある区画化された時間と空間にあまりにも慣れ過ぎている。たんに生まれ育つ家の間取りだけではなく、教室と時間割というディシプリンにおいて形成される表象観念がある。徳川後期においていかに国粋的な日本史と日本化した儒学が学ばれていたとしても、そこで形成される人格にあの監獄のディシプリンはなかったはずである。
 さて、本題の未来。つまり未来に対する重要な議論の分岐は、「はたらきかけ」についてのことである。広くとればいかに可能的であるとはいえ過去は事実化しており現在は現在しているのだが、未来だけは、この未来というものだけは私の、或いは私たちが我々と認める我々が、なにかはたらきかけることが可能であるように直感されるのである。闘争か逃走か反応(fight-or-flight response)(※これは神経症に大きく関わるのであるが)を示す生物には、恐らくその未来へのはたらきかけの感覚が、人間ほど強烈な自覚や反省においてではないにせよ、感覚として存在すると考えられる。だから、反省哲学としてのすなわちあの近代の単独者の神経症的な「ヒポコン哲学」からの脱却として東洋思想や汎神論が選ばれることには、このような有意味な理由があるのだ。ここまでの記述でおわかりのように、未来への「はたらきかけ」にも、いや、或いは「はたらきかけ」の効く時間の方向というものから「未来」概念が出現したのかもしれないが、ともかく、自助努力によって自ら自由契約を選択し、余暇としての自由をもつというのが、たとえば無学な中産階級の陥る愚劣な自由観念である。欲動もエスも、ディシプリンもハビトゥスも、彼らの辞書には存在しないのである。しかしここで福音を告げ知らせておくと、そのような者は案外多くないはずであろうと確信している。はっきり言っておくが、「甘え」「逃げ」「現実」…、このような言葉を煽りとして他人に吐いている中央値的多数者について、彼らは彼らの言葉ほどには愚かではない。そうしてみるとわかる通り、疑心暗鬼のさなかで信仰されている自由観念も、その自由の内実を考察するとみえてくるだろうが、観念の内実が大いに異なったものとしていくつかに類型化されるのである。当然「自由」のロゴスに共通項はあるが、同時に、ある種の自然主義の自由と先の自由契約の自由は大いに異なっている。だからたんに自由と訳されたFreiheitをタームとしてそのまま受け取ってはいけない。むしろ「無碍」と言った方がよい場合もある。
 ところで、東洋思想はさておき、プロテスタンティズムの予定説や予定調和説と、汎神論における自由との比較研究が、先行研究としてよく見当たらないということが不自然だが、必ずあるはずなので今探してるところである。なければないで私の仕事として引き受ける所存であるが、見つけた場合にせよ私の仕事として行うにせよ、その際は新たに筆を執るつもりである。

2023年6月26日


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