「としての」哲学史第2回:イタリア学派の始源ーピュタゴラスとクセノパネスー(シリーズ:「哲学の根」)

 こんにちは。今回は「イタリア学派の始源」と題して、ピュタゴラスおよびその教団とクセノパネスを扱います。いずれも謎の多い人ではありますが、敢えて挑んでみたいですね。



1,サモスのピュタゴラスとピュタゴラス教団

一、概要

 ピュタゴラス(前570頃?-前6世紀末頃?)が、オルフェウス教団に影響を受けていたかどうかは、少なくとも文献学的には定かでないようだが、基本的に強い影響のもとに成立し、教団として発展したことは状況証拠的に確かなようである。明らかに、従来のギリシアの思想にはなかった、東方由来の魂の輪廻転生の思想が入り込んでいるのである。それ以前のギリシアの宗教観念では、死後の魂はハデス(冥府)を彷徨うくらいの定かでないものだったようである。ちなみに、ピュタゴラスの名は、日本では江戸時代から知られていた。
 ピュタゴラスは、クセノパネスやヘラクレイトスが言及している断片がみられるように、当時から既に知者として有名人であった。しかし教団は秘密主義を守っており、また、ピュタゴラスの秘教は、東洋風に言えば「子曰く」というような形式で伝承されていたらしい。文献学的に異同はあるものの、伝統的には、最初に「フィロソフォス(哲学者=愛知者)」という言葉を造語したのはピュタゴラスだとされていたことは間違いないようである。このような点から、ピュタゴラスが非常に宗教的な人物であったことはわかるが、なぜ秘教化しなければならないのだろうか?当時から既にして謎に包まれた人物であるためはっきりしたことは言えないが、なにも難しいことではなく、当時の他の賢者たちにもみられたような大衆蔑視があったことは間違いないだろう。そこには、現代でも知識人層にみられるような政治を嫌厭するような傾向があったことは、ピュタゴラス自身がサモスの僭主から逃れてクロトンに移住して「友愛(フィリア)」を基本とする共同体を形成した経緯からも容易に伺える。まま現代でも容易に考えられ、みられる事象である。有名な「友のものは共のもの」という格言を掲げていたとされる。

二、教義と展開

 さて、ピュタゴラス教団の教義の骨格は、すなわち個人の魂(プシュケー)を浄化(カタルシス)によって救済する、というものだったようであるが、そのための実践として数学と音楽があったようなのである。というのは、当時の数的比例や幾何学にしても、竪琴の弦に関しても言えることであるが、古代ギリシアにおいて「ロゴス」という語は「比例」をも意味していたから、そのことから理の本性に立ち返るような発想というのは容易に想像がつくのではないだろうか。だから、先に述べたように江戸時代においてピュタゴラスの名が知られていたというのは、憶測ではあるが、当時の知識人がピュタゴラスを朱子学を通して理解したということではないかと思う。当然、音楽性の観点からみれば、むしろ朱子学はより音楽性を削ぎ落とした儒学とも言えるものなので、ピュタゴラスとの対応関係は完全には描けないのであるが、江戸時代においてそのように受容されていても不思議ではない要素は含んでいる。
 ピュタゴラス教団は「アクスマティコイ(聴く者)」と「マテマティコイ(学ぶ者)」に分かれるが、マテマティコイとは数学のマセマティクスとマテーマタという語源を同じくしており、幾何学や天文学を重んじていた。このことからもわかる有名なこととして、ピュタゴラスは、アリストテレスの証言によれば「万物の構成原理は数」としたことになっているが、それは具体的には、1は知性、実在、2は思いなし(ドクサ)、3は全体、などといったような神秘的な象徴としての要素が強かったようである。なお、先程の記述からわかるように、マテーマタとは元は数学のことではなく、というよりも、数学(mathematics)の語源の原義は、「学ぶべきこと」である。聴従的、すなわち訓詁学的になるか、学ぶ者、すなわち哲学者になるのかで分岐が生じていることは興味深い。世界的にも度々起こる分岐の事態である。

三、論評

 日常言語に多くを依存してしまった感がある。というのは、ロゴスや数学を唱導しはしたが、実際には数の象徴性やロゴス→比→音楽、天文学…、にみられるように、日常言語的アナロジー、すなわち表層的アナロジーに留まってしまったという印象である。問題としては、これでは実在としてのロゴスは、仮にそれが実在したとしても掴めないはずであるから、営為としてはうまくいっていないように見受けられるのである。
 歴史的業績としては大きいように思うが、それはあくまでも素朴=粗雑なかたちで開始したことの業績ではあっても、実質的ではなかった。


2,コロポンのクセノパネス

一、概要

 クセノパネス(前570頃-前5世紀前半?)は、証言の一致するところによれば非常な長寿を得て、一説によると100歳以上まで生きたという。彼もまたピュタゴラスと同じくイオニア地方の出身で、移住してマグナ・グラエキア方面で生涯を送っている。彼は賢者的な詩人だったようであり、古層の哲学者にしては多い40あまりの断片が知られている。

二、思想

 クセノパネスは、主に神話的な叙事詩人であるホメロスとヘシオドスを批判した。

ホメロスとヘシオドスは、人間たちの元では恥とされ
非難の的となるあらゆることを、神々に捧げた。
盗むこと、姦通すること、互いに騙し合うこと。

断片11(セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』の引用より)

だが、もし牛や<馬や>ライオンが手を持っていたら
あるいは、手で絵を描き、人々と同じ作品を完成させたとしたら
馬たちは馬に似た、牛たちは牛に似た
神々の姿を描き、身体を作り出すだろう。
それぞれ自分たちが持つ姿と同じような身体を。

断片15(アレクサンドリアのクレメンス『雑録集』の引用より)

 むろんここには人間の世界からのアナロジーが批判にはたらいている。そしてクセノパネスは、真実の神のありようについて語っている。

一なる神が、神々と人間の中で最も偉大な者であり
体軀でも思惟でも、死すべき者どもに似てはいない。

断片23(アレクサンドリアのクレメンス『雑録集』の引用より)

 これは具体的には、よく言われるような「擬人的多神観の否定」ではなく、むしろ多くの神々の存在を受容したうえで、それら有限者と、真実の一なる神は全く似ていないということを表明しているように見受けられる。「死すべき者」とは、古代ギリシアにおいては有限者を指していた。だから、知、認識についても以下のような断片が残されている。

そして、精確なことは誰も見た者はなく、誰一人知る者もいないだろう。
神々についても、万物について私が語ることについても。
というのも、もし最大限、目指すものを言い当てたとしても
その者は知ってはいないのだから。そうではなく、思いが全てを覆っている。

断片34(セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』の引用より)

 この問題はのちにプラトンが『メノン』篇で、「探究のパラドックス」として提示する問いと関連づけられる。というのは、思いなし(ドクサ)によってたまたま真理を言い当てたとしても、その者はそもそも真理を探究していたかぎりにおいては真理を知っていなかったのだから、それが真理なのかどうか確かめようがない、というパラドックスである。これはこんにちの哲学に対しても重大な問いかけをなしている。しかしクセノパネスは、次のような光芒を投げかける。

神々は、最初から全てを死すべき者に示しはしなかった。
〔人間は〕時とともに探究しながら、より善きものを見出していく。

断片18(ストバイオス『抜粋集』の引用より)

 このような断片が残されていることから、クセノパネスはギリシア最初の認識論者とも評されることがあるようである。

三、論評

 恐らくという程度ではあるが、クセノパネスは神話への懐疑から始まり、そのことによって善なるものの認識論的探究に向かったようである。そうであれば、クセノパネスは古代の通説であったエレアのパルメニデスの先駆というよりも、むしろソクラテス=プラトンの先駆であったと見做した方が至当と言えるとも考えられる。そして、最後に引用した断片こそ重要で、既に後にこんにちまで至る哲学(philosophia)の、或いは広く学問の、漸進的プログラムが明示されているように伺える。

参考文献:
1,『哲学の歴史1 哲学誕生』,編:内山勝利,中央公論新社
2,『ギリシア哲学史』,納富信留,筑摩書房

2023年8月19日


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