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一体何を考えていることになるのだろう

 一体これは何をしていることになるのだろう、という感覚を抱く。
 自分は「考えている」とこれまで何度も口にしてきたが、ふとそこで気にまるのは、一体何について考えているのかということ以前に、自分が「考える」と言っているところのこの行為自体についてであって、果たして自分は何をしていることになっているのだろうと、若干のむなしさが過ぎ去る奇妙な感覚である。

 こうして何かを書くということにしてみても、自分が既に知っている事以外は書くことはできない。自分が知らない事についてどうして書くことができようか。ということは、それと同じように何か考えるということは常に、自分が考えることができることのみを考えることができる、すなわち考えることができることのみしか結局は考えることはできないという当たり前にぶち当たる。
 したがって、「考える」と言うことで表しているその事態というのはそもそも、既に自分が知っている事を改めて思い返してみたり、また既に知っている事同士を組み合わせてみたりと、その実態とは「既知」を反芻・反復しているにすぎないのではないか。であるから、「考える」とは「自分」と呼んでいるこの閉じられた場所でこの「自分」ができることをただ繰り返している、というふうに整理ができる。つまりそれが自分という存在の限界でもあると。

 しかしそれをふまえてここで「考えたい」のは、ではそれら既に知っている事をある種転がし続けることが考えるということだとしても、それら既に知っている事を新たに知ったという時、つまりそれを初めて知った時、すなわちそれまでは既知でなかった事が既知になる瞬間には、一体何が起こっていたのか、また自分は一体何をしていたということになるのか、ということ。繰り返しにはなるが考えるとは既に知っている事でなければ考えることはできず、考えることのできる何かを既に知っているためには、文字通り既に何かを知っている必要があるのだから、何かを知るその瞬間と何かを知るというその事態について言い表すには、「考える」とは違った言い表し方が必要であるということが浮かんできます。

 「考える」ということ、もしくは「考える」ことができるということは、考えることができる事柄について既に知っているから考えることができるのあって、知らないことをどうして考えることができようか。そして、自分が既に知っている事に改めて意識を向けることが「考える」ということであれば、その既に知っている事を初めて新しく知ったその瞬間には、何が自分に起こっていて、一体自分は何をしていることになるのか、ということが先程までの発想でした。

 言い方、問い方を変えましょう。
 私達それぞれは各自のことを「自分」なり「私」なりと呼びます。この際呼び名は何でもいいのですが、その呼び名が何であるかにかかわらず、そのそれぞれの「自分」という存在が、できることはできる、すなわちできることしかできない、という当たり前が常に横たわっています。
 それはこれまでみてきたように「既に知っている事しか考えることはできない」ということにも繋がれば、今この瞬間はまだ知らないとしてもどこかで知ることができる事にも同じことが言えます、すなわち未知のそれらにしても結局のところ自分という存在が「知ることができる事のみをただ知ることができる」ということです。
 それぞれが「自分」と呼んでいるところの「この存在」にできることはできて、できないことはできないという当たり前を自覚すると、「考える」ということに関しても自分が考えることができる事については考えることができて、自分が知ることができる事に関しても何を知り得たとしても結局は、自分ができる範疇のことでしかないということに気づきます。

 一体これは何をしていることになるのだろう。

 なるほどそれを知りたいから「考えている」のかもしれません。
 つまりより正確には、自分が知らない事を自分で実行することはできないというのが当たり前であるのだから、実際に自分がしていることについて、ほんとうのところ何が起こっているのかその実態について把握し直すために整理をするということが「考える」ということ。
 すなわち、自分がやっていることではあるが実は中途半端にしか自覚できていない事であったり、履き違えた方向の思い込みをしている事を改めて紐解き見直し、整理するということが、「考える」と言って表そうとしている実体であったかということです。
 したがって、既に知っていると思いなしているのだけれどほんとうは、自分がそもそも十分に認知していない事であったり、認識しきれていない事について改めて認識し直すことが、「考える」ということであると。

 で、ここまで「考える」という行為(一体何をしているのか)について、「考えて」もとい「整理して」きたのですが、少し先の話へ戻り次に「考えたい」のは(*次回以降にします)、既に知っている事について意識を向けることが「考える」ことなのであれば、「考える」ことができる事とは、どのような瞬間に自分のもとにやってきて、またどのような行為を介することによって、知り得たことができたのかということになります。
 「考える」、つまり既知について見直す、整理をするためには、見直すための考え、整理ができるだけの知っている事がなければならないということであるため、それら既知とはどのようにしてどのようなタイミングで既知となり、またそれらがそうなる際には何が一体起こっており、また自分は一体何をしていることになるのか、ということです。
 今回整理した「考える」という行為のその事態の実体が、私達にとって可能となる前の段階について次は「考えてみたい」。

 とにかく、「考える」と言い表している行為の実体とは、「自分」なり「私」なりと呼んでいるところの「この存在」には結局知っている事しか考えることはできず(知っている事については考えることができ)、また同じくとどのつまり知り得る事しか知ることはできない(知り得る事は機運次第では知り得る)という、何を言ったことにもならないようなことを、私達はむなしくもそして奇妙にも、繰り返し行っています。
 その意味では、私達という存在の可能性、限界、運命とは、常にそして既に決まっていると言えます。