言葉を紡ぎ、なぜわざわざ表現をする

 2023年という、1年という、私達が、というより私達の社会が便宜的に定めた暫定的な区切りの最後のほう、この12月というこれも変わらず同様に絶対的な分け方というわけでもないのだけれど、しかしこの期間で自分はどのような断片群を走り書いていたのか(文字通りメモは大体走っている最中に記録することが多い)を省みる。そうすると、

「〇〇は普遍」と断言することのできる人がいるとすればそれはすなわちその人というのは、「自分」とは何であるか、「人間」とは何であるか、「世界」とは何であるかを知っていると言っていることになるのではないか。

12/1, 2023

と、ある。幾度と同じ理屈に帰着していたとしても、その表し方、その現れ方、言葉使いは異なる場合があることから、そうして何度もしたためた形跡のうちの一つであるということがわかる。

 ほんとうはもう少し細かいスパンで見返して、整理する中で何を想い、どのような考えが去来していたのかを詳らかにしたいのだけれど、今はまだそこまで機運が高まっていないことも内心わかっているので、まずはこうして手をつけてみることから始めることにした。

 何をするにしても、どのような取り組みを始める・続けるにしても、前提となる条件や用件について思いを巡らせることが気質上癖となっている節のあるため、これまでは書くや話すといった行為に関しては積極的にはなれずどちらかと言うと億劫でもあった中でそれでもわざわざ表現をしたことによる意欲の変化について整理するため、何が出来事として起こったか、またなぜそうなったのか、そしてそれらについて今どのような心境なのか、を顧みたい。

 まず第一に、短期間の間に立て続けに「あなたは表現がしたい」と言われたということがあった。
 そしてそう言われる/言われたということにおいて注目したいのは、ほんとうに自分が表現したいと思っているのか、あるいはその時したかったのかという点ではなければ、またそのように誰かからは見えた/見られたという点でもない。自分の表現に対する意欲の有無が実際どうなのか、他者の解釈の真意がどうなのかが問題なのではなく、それ以前、つまりそのような反応や印象を受けるに至ったということはそれすなわち、自分は口を開き言葉を誰かに対して紡いだという経験がそこには事実あったということがわかる。
 なので、表現することに対する欲が現状どのようなものであろうとも、表現するということで他者にどのように受け取られようとも、表現をするかしないかそれ以前の前提として自分の内には醸成されている想像や構想と、わざわざ表現することでしかあり得そうもない何かと繋がるのではないかと思い始めたことと関係しているということであり、それはつまり先に心境の動きに変化があったことから表現という方法を選びとったのであって、以前から表現を続ける中で心持ちに変化があったというわけではないのだということが、わかる。
 そしてその順序の違いとは、試行錯誤の回数が自省の回数を上回ることはあり得ず、あり得たとしても自省の回数あるいは自省に投じる合計時間が表現の試行回数を凌駕することでしか、ほんとうの発展、すなわちほんとうの表現はあり得ないと今はそう考える自分にとっては当然での流れであったということがこうして遡行的に見返せば納得のいくものでもあった。

 また第二に、自分としては、自分がどのような道筋あるいは行程もしくは段階を経てある所感に至ったかを明文化せずとも実感としては捉えることはできていたとしても、そのようなことををただ自己完結的に考え、事前に言語化することなく、ぶっつけ本番で口にするということを毎度していると、ある考えが導かれた背景や文脈が自分の内にはあるが、そうではない他の人にとって説明をする際に、端的に話そうとすることではあまりにはパーツが足りなければ、仔細に話そうとすることでは人にとっては冗長に聞こえるという、どちらを講じたとしても異なるレベルでまとまりに欠けるということが、わかった。
 そしてこのある種のジレンマとは、大局的な視座、中長期的な見通し(ビジョン)など、その人の人生が終わるまでには達成あるいは遂行していたいと想えるような、生涯を通じて涵養し続けるという意味で抽象的にならざるを得ないたぐいのものに関して、言葉を紡ごうとする局面であらわれるものではないか。
 であるからこのようなケースにおいては、単純に、結論だけ端的に話すということと背景にまで遡り詳述するということの二者択一では必ずしもなければ、その場面ごとに合わせて話の濃淡を調整したとしてもその時の相互理解の程度や状況設定によっては常にそれが解決策になるというわけでもないのではないかという気がする。
 よって、言葉を紡ぐ際にその源泉となる思索のすべてを開示することも、そしてもし仮に考えをうまく言葉にすることができたとしても、それらを自分とは異なるまったくの別人にわかってもらうということ自体が不可思議な試みであるということがそもそもの前提であることから、完全にわかるために言葉を紡ぐというよりは、相互に前提を了承しながらもいかに互いがそれぞれ考えについて相手がわかるようなかたちで顕現させようと試みることのできる土壌や雰囲気が整っているか否かということが見えてくる。
 したがって、ひとりではなく誰かと共に考え、時空間を共有し言葉を発することを相互的に互いが了承する時点で、話の尺の長さやその濃淡といった要素についての正解を求めようとする、あるいは押し付けようとすることではなく、自分と相手の相互作用でどのような話がし得るかを共に考えようとする態度を見直そうとすることが、先述のジレンマを発生させない配慮であり、ジレンマを解こうとする・解くことができるできないなどを考えることよりも、より互いのためとなる対話となる可能性を押し拡げることになるのではないかという認識に帰着する。

 そして第三に、書くことや話すことなどを選ばずとも、考えるだけで充分すぎるほど充溢していることに現状変化はないため、それが最も大きな理由となって、今でもやはり“わざわざ”こうして自らを表現することについては部分的に懐疑的な心境ではある。
 しかしこれまでのように自己完結的に考えることを繰り返すのみではなく、もし表現することによって自らの考え、考える能力や機能、スタンスといったことにこれまでとは異なる変容があり得るのだとしたら、それは表現したいという気持ちはなくとも表現してみようという動機にはなる。
 言葉を書くことへの億劫さとは、言葉を口にすることの億劫さと符合する感覚があるという点で、書くことで話すこと、話すことで書くことが変わり、またその変化とは表現することで考えること、考えることで表現することというふうに、それぞれが別々のものではなく、すべてが「考える」という営為に繋がり、ひいてはすべてが「考える」となるのではないかという仮説のもとに、表現するというその行為に対してというよりは、その行為を介して考えるという営為の変容可能性についての関心に繋がっている。

 直近で「話す」といった行為を通し知り得たことをこうして改めて「書く」ことによって、つまり、表現をすることを通して表現をするという営為について、自分の捉え方が現行いかなるものであるのかということを整理し、同じ事を巡って行われた反省ではあるが先の3点とはそれぞれが連関するものではありながらも、洞察としては異なるかたちで発露したものであった。
 したがってこのように、こうして書くという営みが表現の一種として、自身にとっては既にある程度は判然としている考えたことを写すだけの単なる一連の作業としてではなく、考えたことの発展、そして考えるということをより活発なものにする契機に押し上げるだけの勢いが自分にあるとすれば、次回以降も走り書きのみでは並ぶこともなかった言葉との出逢いへの架橋となるかもしれないと、どこまでも連環している思索を瞬間的に閉じ込めようとした痕跡であるメモ群を見返しつつ、冒頭(12/1)と以下(12/31)の相変わらずさを眺めながら、今は感じている。

形而下(形而下学)、観念論 無自覚がゆえに思い込みに囚われている
形而上(形而上学)、超越論 無自覚がゆえに限界を思い知っていない
そのそれぞれにおいて「普遍」や「真実」と呼べるようなことについては、どちらにおいてもそれらが「真理」であるのかないのかということがわかるのかわからないのか、それ自体わからない、ということだけが唯一わかり得ることなのではないか、という自覚あるいは認識を経た時にだけ、示唆や洞察と呼ぶものには一定の意味がなきにしもあらずと、ある特定の瞬間には言えなくはない。

12/31, 2023