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可もなく不可もなく「普通」でいいんじゃないか

 まだ何が起こっているのかも解っていない段階にいるお子さん(もしくはお孫さん)をブランコに乗せ、ほんとうは、本当にその人が何も解っていないのかどうかさえもわからないのだけれど、誠心誠意その存在に意識を配る(おそらく)お婆さんをこの眼でとらえたその次には、ひとり男性が子犬と階段を上がってくる姿があった。そしてその真っ白な存在は男性よりも数段多く一気に駆け上がるのだが彼が追いつくまでの様子をじっと凝視しながらその場で待っていた。そのどちらの関係性においても、一方が他方へ抱く想いが溢れ出ていた姿を垣間見た瞬間であったか。
 自分という存在の次に近しい存在であるような対象に、その相手が気づいているかに関係なく気を配る、意識を向け続ける。たとえまだその相手が自身が何であるかと考えてはいない段階であったとしてもその存在に向き合う、または同じ言語を扱うわけでもない存在に対して真摯に気を配る、姿を観た。もし自分自身が自分という存在に過不足なく向き合った上でなお余裕があるのだとしたら、これで十分なんじゃないかと思った。

 ときに人は、自分自身で自分という存在を見つめることを飛ばし向き合うことにあぐらをかきながら、面識もなく何の関係性のない海のものとも山のものともつかないなんらかからの目線とそれら何らかに対して自身がどのように見えているかについて、敏感でありそして繊細である。

 果たして一体何をしているのだろう。

 まず当たり前のこととして、一人一人の個人が自分自身のためになることをまず最優先に行っているという現実がある。たとえそれが名目上、大切だと想う誰かのために行っていることだったとしても、それはその人自身がその人自身の基準でそう考え、自身による解釈を動機にし、最終的には自身で決断していることなのだから、それが二次的に誰かのため何かのためになるということはあれど、私達の誰もが自分自身で「よい」と感じ、「価値がある」と思ったことを為している。
 また、社会にどのような規制や慣習があろうとどのような理由があれどつき従っているのはそれらの「価値」を自身で認めているからであり、加えて自分を取り囲む環境がどうであれ自身がその状況を「よし」としているからそこに身を置いているのであって、それは個人個人が自分自身のことを最優先にしているからであり、それ以外はあり得ません。

 ですから、誤解があるないではなくハッキリとした事実として、自分以外の誰かために何かを行うとしても、そうすることを「価値がある」ことだと自身で認識し、それをすることは「よい」ことだと自身で解釈し決断することが先であるため、まず自分自身のためとなることを飛ばすのはやはり不可能。
 ということは、先の自分自身で自分を見つめることを飛ばし、他の誰かに自分がどう映るかということを優先している人にしても、その大前提は崩れないのではないか。しかしそれでもここで見逃したくないのは、ではなぜ自己顕示欲や承認欲につき従うことを自分にとって最優先としているにもかかわらず、なお空疎である場合があるのかということ。きっとここには、本来見つめるべき存在・対象の順序に履き違いがあることが関係していたり、また内面に明瞭な基準があるというよりは外界の雰囲気によって植え付けられた相対的で流れては消えていくような基準しかない等の背景があるのだと思います(*次回以降整理し直すかもしれません)。

 とにかく、誰もが自分自身のためになることを最優先に行っているという大前提のもとそれでももしそこに余裕が生まれ、傍にいる大切だと想うことのできる存在に気を配るということが可能だとして、誤解を恐れずに言うと、それ以外の人達については、つまり自分の余裕の範疇を超えている存在については、可もなく不可もなく「普通」でいいんじゃないかと思った。
 誰かに対して自分が「よい」と思う何かを行う、何かに対して自分が「価値のある」と考える働きをする、それらすべての営為とはその人自身でそう思っている、考えているという域を出ることはなく、行うそれらがその人自身のためでしかないのだから。

 しかしでは一方的に「よい」と思うのでもなければ、恣意的に「価値のある」と考えるものではない、「普通」の事とは何を指すのか、また何をもって何を「普通」と言い得るのか、そしてそもそも万人に共通の「普通」はあるのか。

 たとえば、何を「普通」と呼べるのかという問い方では、ある誰かの見解と別のある誰かの見解とが一致せず、どちらが正しいのかという二者択一になる。この場合、一人一人の「普通」は異なり、相対的な話にしか収束しない。
 なのでここで考えたいのは、恣意的でもなく相対的でもない、誰にとっても「普通」であると言える共通の事、つまり、何であれば「普通」としか呼べない・言えないのか、それを万人にとって共通している事と定義して大別した場合2つに分けることができ、それぞれ「普遍」と「存在」と呼びます。

 まず「普遍」ですが、字面通り「万遍なく広く行き渡る」つまりここでは、万人に共通して同じことが言えるという事柄を指し、すなわちそれは「普通」と呼べる。
 私達の誰もが人間であり、その一人一人に注目すると個別に突出している能力、個人的な癖、特殊な経験等、相対的な事がたくさんあります。しかし、万人にとって変わらないこと、つまり全員にとって「普通」な事があります。
 私達全員はある瞬間に生まれ、また今この瞬間を生きることを選んでいるので生きており、そしてある時確実に生命は途絶えるわけですが、実は「普遍」と呼べる「普通」、普段は「普通」と呼んでいるところの「普遍」とは、人間である私達にとって人間としての認知と認識がある以上、必ず誰しもに共通して起きる事であると認知・認識され、私達人間が人間の論理で考える以上「事実」として認める他ない事柄を、よって「普通」と呼べます。

 続いて「存在」がなぜ「普通」な事だと言えるのか、その実はとてもシンプルで、この自分が存在する、存在するものが存在する、存在が在る、ということ。
 「存在」とは、私達の誰もが存在しているという意味で万人に共通して「普通」の事であり、またしかし、私達の誰もが存在しているにもかかわらずその存在とは常に「謎」であるのですが。

 「普通」の一側面である「普遍」とは人間の認知・認識によって解釈し理解、また整理できるもの、「普通」のもう一側面である「存在」は人間の認知・認識により気配は感じることはできるが、解釈・理解を超えているため整理はできない、よって「謎」であると言える。
 私達人間が人間である限り人間の論理によって整理することのできる「普通」と、私達人間が人間である限り人間の論理が通用しない「普通」があると。

 「普通、普通」と言っているその瞬間に、自分自身にとってはそうで他人にはそうではない恣意的で相対的な事を「普通」だと言っているのか、万人に共通して必ず「普通」である事についてをあらわしているのか、はたまた万人にとって「普通」であることは間違いなさそうなのだけれど誰にもその実態はわからないということがわかることを指しているのか、と考える隙間を設けてみると、可もなく不可もなく「普通」でいいんじゃないかという呟きが何の提案でもなく、自分と呼んでいる「これ」が「これ」で在るしかないように、「普通」とは、そうする他ないことであるということが見えてくる。