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『22世紀の民主主義』批評

成田悠輔さん著『22世紀の民主主義』批評
『22世紀の民主主義』から考える光と闇
 

人のためになるものは、人によってつくられない方が良いのか。

 “ひと”の性能をアップデートすることはできないのでこれまでのような人力ではなく、インターネットや監視カメラを駆動させて、人々のあらゆる言動から発せられる欲望や願望をデータとして集め・解析するコンピュータのプログラム(アルゴリズム)によって最適解を見つけて意思決定をする『無意識データ民主主義』という提言があります。
 私たちが気付かないうちに意見すべてが掬い上げられ、アルゴリズムが政治家(人間)の役割を代替することで、これまでのような網目状になった稟議などをくぐり抜けるための時間や労力は省け、社会を豊かにすると銘打めいうった政策の改良・改善は高速回転するのだと予測されます。

 『選挙は一つの民意の表し方としたうえで、違う(*多数の)方法によって民意を24時間吸い上げられないものだろうか。』

「22世紀の民主主義」の著者、成田悠輔さんの言葉を引用(*は注釈)

 
 完全ではなくても部分ぶぶんでは、自分の力で自分自身の想いを表現する必要はなくなり、伝えるための努力が空回りすることもなくなる。意識せずとも(意識することさえできないとしても)、どんな人も意見を表出できる社会となるのであれば、「選挙」という旧態依然のルールのもと政治参加などせずとも、自動化され、「無意識」的に、私たちが何を求めているのかをアルゴリズムによって導くことができ、更には注目されずらい特定の社会の課題や問題についての声を拾い上げ、手を差し伸べることができる社会を実現させることが可能かもしれない。

 成田悠輔さんのご著書22世紀の民主主義では、社会をつくる意思決定の方法として『無意識データ民主主義』という案を提言しておられ、現行の仕組みの状況の整理、その案の必要性に加え、それを形作る具体的なパーツについての説明が主な内容となっています。

22世紀の民主主義
選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる

 「政治がなにやら大事だと頭ではわかる。だが、心がどうにも動かされない。政治やそれを縛る選挙や民主主義を、放っておいても考えたり動いたりしたくなるようにできないだろうか?」

22世紀の民主主義』P24より(原文に強調表現はありません)

***

 成田さんは、世の中にある政策・制度には本当に効果があるのかということを過去のデータに基づいて評価し、またどのような新しい政策・制度が導入されるかによって起きる影響を予測して良さそうなものを考えるということに取り組まれています。
 具体的には、ウェブ上で買い物をする際どのような商品の推薦の仕方を選ぶと効果がでるのか、また教育の分野で困難を抱えている子どもたちをどのように見つけ手を差し伸べるための制度設計が考えられるのか、などです。

 過去の記事(下)では、そのお人柄を垣間見るため、さまざまな分野に対しての発言を集めておりました。


「心」と「頭」、双方が揃って人は動く。

 この記事ではご著書「22世紀の民主主義」に留まらず、あらゆる所から成田さんご本人の発言と提言を引き出して、辿っては、追い、この社会を平和に導く(であろう)側面と、他方アルゴリズムに頼り切ってしまうのだとしたら、意思決定を放棄することで人間と社会を壊すかもしれない可能性(危険性)について考察します。
 しかしその内容とは、視点によっては「心ではわかるんだけど、頭で考えるとダメ」な立場となる可能性を存分に秘めているのだと思います。
 それでも「心で善い思えること」と「頭で良いと思うこと」の双方が手を取り合いながら物事を推し進めるために、「ひと」と「ひとの無意識を汲み取るもの」が協働できるための社会に繋がる視座を養いたいと思います。

 この記事では、“ひと”は完璧でないからこそ自分自身と他者のことを考えながら生き続けることができ、社会の何もかも完璧ではないからこそなんとか世界は回っているのではないか、そして“ひと”の存在ともいえる「尊厳」を守るためにできることを重要視する立場を取ります。

 「社会をまともにするには、人をまともにするってことから考える。憲法・法律が変わろうが、ミクロにクズでマクロにまともという社会は歴史的に例にない。問題は規模感。」 

「“劣化社会”日本に処方箋はないのか?」』、宮台真司さんさんの発言を改変し引用
(文藝春秋digitalウェビナー、1:25:48前後)


どのような案にも「光」と「闇」の側面があることを出発点に。

 これまで私たちは自分より優れたものがあれば、それに日々の意思決定や仕事を委譲してきたり、外部に“ひと”の機能を拡張してきた歴史があります。それゆえに、私たちが「無意識」の間にデータを処理してしまうシステムが、新しい文化の醸成や今日こんにちのような社会の発展に寄与したことは確かです。
 ですので、その拡張版として政治の場でも課題の発見と、課題に働きかける手段の生成をしてもらうことをアルゴリズムに託すことができるというのは分かります。

  けれども、その仕組みで恩恵を享受する“ひと”は、アルゴリズムの意思決定のスピード感に付いていくことができず置いてけぼりになることが予想できますし、私たちが「意識」的に表現することを選ばなかった言葉や感情があるからこそ保たれていた他者との関係や社会の秩序があるのだと思います。
 “ひと”に決定権(責任)があった感情までもが吸い取られてしまいデータとして表出されてしまうということは、これまでは願望や欲望といった衝動が胸の内に留めていたから保たれていた均衡が解かれ、人間も社会も壊れるのではないかと思いました。

 「「AIに判断を任せる」のは、これまで繰り返してきた外部化、たとえば走る力の外部化(自転車)や覚えておく力の外部化(メモやストレージ)とは位相が異なる。それは、人間の核心的な能力である思考の外部化だ。」

岡嶋裕史さん著『思考からの逃走』日本経済新聞出版社より引用

 「情報技術が張り巡らされた社会の出現は、むしろ民主主義そのものを変えてしまう」

東浩紀さん著『一般意志2.0、P4』より引用

 人の理性や倫理観に期待することをやめ、“ひと”が“ひと”のために働かず、熟議もなければ選挙もない非人格的な他のもの(アルゴリズム)に意思決定を託すことで永久不眠的に回り続ける民主主義的な社会とは、本当に“ひと”のために最適化された世界なのでしょうか。
 

 「行き過ぎたアウトソーシング(*外部に任せること)によってコアコンピタンス(中核競争力)を失った企業が迷走し、やがて衰えていくように、ある瞬間を切り取っていくら効率的・合理的に見えたとしても、自らの核になるべき力を手放してしまったら(*意思決定を放棄してしまったら)、やはり人の力も衰退し、その存在意義(*人としての尊厳)さえ失ってしまうのでないか。そう憂慮している。」

 先の引用部分の後、岡嶋裕史さんはこのように続けています。
『思考からの逃走』より引用(*は注釈)

***

『22世紀の民主主義』に希望はあるか。

 それでは、成田悠輔さんのご著書「22世紀の民主主義」内で述べられている内容を章ごとに辿っていきます。
 現在の故障した「民主主義」を修理することができそうで、なおかつ「ひと」の尊厳や命を破壊することはならない、「ひとの意識的な社会への働きかけ」と「ひとの無意識を汲み取るもの」が協働ができる可能性について探っていきたいと思います。

 「無意識」のうちに意見や感情が汲み取られる社会にいずれなるということを「頭」で大事だとわかっていたとしても、それは「心」で感じている違和感を無視する必要があるということを意味しているわけではないでしょうし、同時に「心」で大切だと感じるものに対して「頭」で考えることを放棄する必要もないのだと考えています。
 

 「この本に書いた構想は、そこらの人間たちに特に一ミリも期待していないということが前提にある。」

『22世紀の民主主義』に希望はあるか』、成田さんの発言より引用
(掲載の動画で15:20、文藝春秋digitalウェビナーの本編動画では41:20前後)

 これより先の「今、民主主義はどういう風に故障しているのか。」は、「22世紀の民主主義」の第1章の内容を。
 後、「故障中の民主主義と闘争・逃走する考えはどうあるのか。」は第2章と3章について、そして「どんな民主主義の更新・再発明の仕方があるのか。」は第4章についてを整理しています。

 成田さんの言葉をご著書から引用する際には「noteの引用表現」や「(P..」)などを設け、ページを明記します。


今、民主主義はどういう風に「故障」しているのか。

 現状の民主主義のあり方(現実)を認識するための内容が、第1章の『故障』です。
 
 その第1章ではまず、民主主義の役割を「弱者に開かれていく仕組み」として、その民主主義がタッグを組んでいるのは「強者が閉じていく(富める者の支配が強まる)仕組み」である資本主義であるということをご説明されています。

 「資本主義はパイ(*利益)の成長を担当し、民主主義は作られたパイの分配を担当しているとナイーブに整理してもいい。」

『22世紀の民主主義』P44より(*は注釈)

 しかし油と水のような関係であったその2つバランスで、現在も資本主義のスピードはとどまることを知らず加速し続け、一方の民主主義は経済発展の側面では特にお荷物となっており、その二人三脚の関係性がもつれているのが現状のようです。
 それを裏付けるように、民主主義的な国ほど、今世紀に入ってから経済成長が低迷しつづけていることを示すデータ(下掲載)があります。

成田さんとイェール大学の大学生・須藤亜佑美さんが行ったデータ分析
画像は成田さんのTwitterより(『22世紀の民主主義』P46に掲載あり)

 こちらのデータより、民主国家ほど経済の成長が鈍っていることがわかります。(*総GDPを一人当たりGDPに変えても、結果はほとんど変わらないようです。*そしてこちらの負とされる関係はちゃんと因果関係であるということが、(リンク先の)専門的な分析でもわかってきているようです。)

 そして以上のような状況を患う民主主義を追撃したのが、コロナ禍のようなのです。「ウイルスにかかったのは民主主義」(「ニューヨーク・タイムズ」)という言葉もあるほどです。

「民主国家ほどコロナ化初期に苦しんだ」ことを表すデータ分析
画像は成田さんのTwitterより(『22世紀の民主主義』P53に掲載あり)

 民主主義とコロナ死者数の間に強い正の関係があることがわかります。そして上記の2つのデータより、民主主義的な国ほど人の命もお金も失ったということが示されています。
 現実には人命も経済も救えた国と、民主主義が原因で人命も経済も救えなかった国が存在していたという事実が垣間見えました。

 「コロナ禍初期によく議論された「人命か経済か」という二者択一(トレードオフ)の議論がおそらく的外れなことも意味する。」

『22世紀の民主主義』P55より引用

***

 続いて、成田さんはご著書で(21世紀の)歴史となった出来事を追憶し、民主国家の失速の原因となった要因について言及されます。
 そしてその回想から浮かび上がってきたのは、1つ目に「インターネットとSNSの普及・浸透」と、2つ目に「民主国家ほど未来に向けた投資や輸出入が伸び悩んだ」という構造が、民主主義の「劣化」の原因にあったようです。

 まず1つ目の「インターネットとSNSの普及・浸透」ですが、印象論ではテレビやストリーミングサービスでのPV稼ぎ、インフルエンサーとのコラボなどによって、SNSやメディア上での極端な言動で人々を扇動・過激化させていたということがあります。
 加えて「22世紀の民主主義」に掲載されているデータ(引用元:「多種多様な民主主義(V-Dem)」プロジェクト)を参照する限り、民主主義への脅威となる政治家によるポピュリスト的言動やヘイトスピーチ、加えて政治的な思想の分断と貿易の制限のような要素が高まっていることがわかったようです。

 続いて2つ目の民主国家における「事業活動や経済政策の鈍化」に注目しますと、民主主義の劣化に連動していたことは2つあったようです。
 1つに、2000年代に入ってから、民主国家ほど貿易の成長が鈍ったこと。もう1つには、民主国家の企業ほど資本や設備の投資が伸び悩んでいるということがあると述べられています。
 タッグを組んでいた資本主義の加速力により短期の収益が優先されてい、未来を見据えた投資ができなくなっています。

 「情報・コミュニケーション産業の興隆とともに劣化した民主主義が、民主国家に閉鎖的で近視眼的な空気を植え付けた。それに連動して(中略)投資や輸入のような入力が鈍り、.. 生産性も上がっていない。」

「それらの要因が折り重なって、民主国家における経済成長が停滞しているようなのだ。」
と成田さん(『22世紀の民主主義』P70より引用)

***

 「コロナ禍全体における民主主義の役割については、今から数年経って(中略)最終的な影響にデータが出揃ってから結論を出すべきだろう」と成田さんは断りを入れつつも、「平時でも、有事でも、張るべきところにすばやく晴れない民主国家の煮え切らなさが浮かび上がってくる。」と指摘されます。
 
 その背景には、巨大な課題が次々と降ってくる爆速な21世紀の社会の流れと、朗らかに過ごしている感覚(=世論)には大きな乖離があり、その後者である相対的にのんびりした側についている民主主義はただただズッコケるしかなかったのかもしれないということがありました。

『人間も民主主義もやめます』という成田さんのプレゼンテーションのスライドより
(引用元:PLANETS動画『民主主義やめますか?それとも人間やめますか?』

 「いくら理念が普遍的だとはいえ、今日私たちが民主主義と呼ぶものの運用は、数百年前の人々が人々が構想した仕様に基づいている。(中略)みんなで決まった日に決まった場所に集まって意見を提出してもらい、集計して発表するお祭り.. 選挙である。」

『22世紀の民主主義』P80より引用

 手にしているスマートフォンなどの技術の革新や、インターネットを筆頭とした情報通信環境が、何百年前と一変したことは私た地にとって避けることはできない進化で、かつその恩恵を日々受けています。
 
 ここまで成田さんのご著書の第1章に述べられていることを辿ってきました。そしてその内容から、問題なのは「情報通信環境が激変したにもかかわら図、選挙の設計と運用がほとんど変化できていないこと」(P82)という課題が導かれました。

 「メディアやメディアハッカーが存在する今では国や地球の規模の同調が伝播するようになった。さらに、生活や価値が分岐するにつれ政策論点も微細化して多様化しているのに、いまだに投票の対象は政治家・政党でしかない。」

『22世紀の民主主義』P80より引用(強調表現を追加)

 そして、のらりくらりの民主主義制度に拠ってどうにかこうにかしようとしているその間にも、「.. 手綱を失った資本主義は加速している。」(P84)のが社会の現状です。
 民主主義自体が故障・劣化しているということというのはつまり、その主義・制度を設計する“ひと”が社会の変遷や潮流にうまくついていくことができず、すなわち考え方を更新することができなければ仕組みは旧態依然の選挙だけのままになっているのだということを示しています。

 このままで果たして民主主義は今世紀を生き延びることができ、22世紀のその時代で希望を感じさせる存在になることはできるのでしょうか。
 そのために有効となる処方箋として考えられるのが次章より成田さんが挙げられる、「民主主義との闘争」「民主主義からの逃走」そして「新しい民主主義の構想」(P88)です。


故障中の民主主義と「闘争」する考えはどうあるのか。

 第1章を通し、民主主義という制度の故障具合に直面しました。
 続く第2章・第3章では、壊れた制度を採用している社会の現状を認識します。
 重症中の制度の中で抗うためにはどのような策があるのか(闘争)、または対峙することは辞めどこかに逃げ込むための術はあるのか(逃走)を、成田さんの挙げる例を追って確認していきます。

 それでは第2章「闘争」の「民主主義の現状と愚直に向き合い、その問題と闘って呪いを解こうとする営み」(P88)という内容について辿っていきます。

 「闘争は、民主主義と愚直に向き合い調整や改善により呪いを解こうとする営みだ。政治家の目を世論よりも成果に向けさせるため、国内総生産(GDP)などの成果指標にひもづけた政治家への再選保証や成果報酬を導入するのはどうか。」

成田さん、日本経済新聞への寄稿『民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に』より引用

 「 現状の選挙に基づく民主主義の仕組みや考え方をそこそこ前提としながら、調整や改善を施していく方向と言ってもいい。」

『22世紀の民主主義』P88より引用(強調表現を追加)

 第1章で確認することができました「ソーシャルメディア・選挙・政策の悪循環」、その前提条件(現状)に改善のメスを入れていくことを考えるのが本章「闘争」の内容だということになります。
 そして成田さんのお考えになられる執刀の方法(を簡略化したもの)が以下になります。

(1) 有権者を操作する(ソーシャル)メディアに介入して除染する
(2) 選挙のルールを、未来への投資となるような政治家を選べるようにする
(3) 選ばれた政治家が未来を創るための活動を行えるようにする

『22世紀の民主主義』P89の内容を改変

*** 

 私たちが代表を選ぼうとする際には、それぞれの印象を180度変えてしまうような報道や言論が飛び交っており、なお選ばれた方々にしてもすぐに結果を報告できてしまうような、すなわち近未来にしか開かれていない活動ばかりが成果とみなされています。

 「 コミュニケーションというのは言論・表現・発言であって、結社である。民主主義的な国々というのは、この手の表現全般に対する自由をアイデンティティとしてきた。人類がつくり出してきたコミュニケーション技術(インターネット・SNS)の影響を受けたのが民主主義諸国だったのだろう。」

『『22世紀の民主主義』に希望はあるか』、成田さんの発言を改変し引用
(文藝春秋digitalウェビナー本編動画、19:10前後)

 加えて今日の日本では、「シルバー民主主義」という言葉に象徴されるように、社会全体が高齢化し、人口が減っているということにより状況がより深刻になっている傾向にあります。(そのような憶測ができます。)

 ではそのような現状にある日本の社会を改善する対策として、どういったことが考えられるのでしょうか?
 成田さんが述べられている「いじる」対象(調整の対象)には、「政治家」「メディア」「選挙」「UI/UX」とあります。それぞれ順に掘り下げてみます。

 「特定の政治家の信念や良心に頼るだけではダメだ。たとえ信念や良心の欠けた政治家でも問題を解消できるような仕組みや制度を考えたい。」

『22世紀の民主主義』P95より引用

・対策その1「政治家をいじる」
 使命感を削ぐことなく、未来で(中長期的に、ひいてはその政治家の引退後に)どれだけ成果が出たかによって報酬を導入することで、人の流動性を高めることができたり、政治家の興味を今日の世論より未来の成果へと振り向けることができるかもしれないということ、を述べられています。(P96-99)

・対策その2「メディアをいじる」
 しかし「対策1」では“すで”に選ばれた政治家に働きかけるということだけなので、“これから”の政治家を選ぶ有権者側の意識改革も必要になります。
 その先に重要となるのが、使い方によっては問題視することになるインターネットとSNSによる情報コミュニケーションだということは第1章で確認した通りでした。
 ですので、情報コミュニケーションの「量」と「質」の規制、すなわち「健全なコミュニケーションとなるように速度・規模」と「コミュニケーションの内容に応じた課税すること」を定めることが有効かもしれないというのが、ここでの提言です。

・対策その3「選挙をいじる」
 選挙に参加するにあたって年齢制限(定年や上限の設定)が年齢差別となることから、「「老人から選挙権を取り上げよう」は無理でも「現役世代の投票に有形無形の報酬を加えよう」なら実現可能かもしれない。」と成田さん。(P108-109)

 その他ドラスティックな変化としては、若者の、未来の声を聴くための選挙の仕組みを考えるということを挙げられています。具体的な考え方といいますと、「ある世代・マイノリティグループだけが投票できる選挙区を作り出す」こと、「余命で票の重みが変わる」「子どもたちの代わりに大人が代理投票をする」などや、また下の画像にある具体例として「表を他の人に託せる」液体民主主義や、政治家や政党にすべての問題を一括して預けるのはやめて「それぞれの個別の政策論点や問題に投票できるようにする」二次投票があります。

成田悠輔×西田亮介 ニッポンの民主主義は限界?改良の余地は
(テレビ朝日、ABEMAニュース)より

 
 しかし次世代の意見ばかりを汲み取ればそれで良いのかというと、おそらくそうではないのです。なぜなら日本で、「文化が」「国家が」といった事柄を考えることができる余裕があるのは、可処分時間を考えても、経済的な側面をみても、相対的に高齢者であるという側面があります。(P113-114)
 ですが、絶えず複雑化し続ける今とこれからの社会では、まったく異なる専門性と利害の調整を求められることは事実で、それらすべてを特定の政治家・政党が担い切れるかというと甚だはなはだ疑問ではあります。

 「ある政治家・政党に、すべてを任せる」という昭和的な固定観念を考え直す必要がある。(中略)個別の論点ごとに投票する .. 解像度や柔軟性を高めようという試みだ。」

『22世紀の民主主義』P117-119より引用(構成に改変あり)

・対策その4「UI/UXをいじる」
 UIとはユーザーインターフェイス(何かに関わるための手順や手段)、UXとはユーザーの体験(何かを体験した時どのような印象を抱くのか)ですので、それらを改良しようということです。
 その例として、読み書きに不安を抱えていることで投票するまでに至らなかったり、また名前が似通っていることで本心とは異なった候補者や政党に誤って投票してしまうなどとなる原因である、これまでの紙とペンを使った方法を新しい技術によって刷新してすることができるということがあります。
 

 ここまで「闘争」の章を通して、既存の「選挙で何かを決めなければならない」という固定観念に則って、現在のやり方よりは「相対的にまだマシな選挙はこれ」という改善(=闘う)するための対策を、成田さんの言葉とともに追ってきました。(P129)
 そして先述の数々の策では、根本的に「選挙」から脱するような方向転換はすることはできず、その絶望的な理由として最後に成田さんは下記のように付け加え、次章「逃走」に向かいます。

 「有権者は高学歴になる程 .. 独善的になり、議論と反省によって意見を修正していく能力を失っていく傾向があるという。(=教育の「過剰」)。加速する世界と技術の現状についていけていない教育の「不足」。(中略)ダブルパンチが民主主義を蝕んでいる。」

『22世紀の民主主義』P128より引用(構成に改変あり)


故障中の民主主義から「逃走」する考えはどうあるのか。

 ここまでは現行の民主主義を成立させている(ようにみせている)仕組みの中で、時代の潮流と社会の変遷と照らし合わせると、明らかに乖離している現在の決まりごとを変更するための「闘争」案を辿ってきました。
 ですが、「選挙や政治や民主主義を内側から変えようと闘争したところで、変えるためには選挙に勝ち、政治を動かす必要がある。」(P133)と成田さんがご著書で述べている通り、変えたい仕組みを変えるためにはまず変えたい対象が変わっていない状態で成果を出す必要があります。
 そのような道筋では膨大な時間を要してしまい、その行いに欺瞞さえも抱いてしまうのではないでしょうか。ですので、現在の仕組みの内側に入り込んだとしても徐々に少しずつ働きかけることしかできないのだとしたら、「民主主義を内側から変えようとするのではなく、民主主義を見捨てて外部へと逃げ出してしまうのだ。」(P133)という考えに移ろってしまうのも当然かもしれません。

 「既存の選挙制度で勝つことで今の地位を築いた現職政治家が、.. 改革を進めたい気分になれるのか。おそらく無理なのは明らかだからだ。.. 民主主義との闘争は初めから詰んでいるのかもしれない。ならば、いっそのこと闘争は諦め、民主主義から逃走してしまうのはどうだろうか。」

成田さん、日本経済新聞への寄稿『民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に』より引用
(一部中略)

 では、第3章「逃走」で述べられる案とはどのようなものがあるのでしょうか。その具体的な例を順に追っていきます。

・案その1「国家からの逃走」

 「非効率や不合理を押しつけてくる既存の民主国家は諦める世界。(中略)政治制度を一からデザインし直す独立国家が .. 政治制度を資本主義化した世界である。」

『22世紀の民主主義』P135より引用(一部中略)

 お金を持つ人が自身の資産に対してかかる税率条件の良い場所(タックス・ヘイブン)を探して移住するように、政治的にもある人にとっては今いる場所よりも自由で、望ましいルールや規制を実現できる「フロンティア(未開拓地)」をつくり出す動きが、実はすでに各地で進行中のようなのです。

「海上自治体都市協会」と呼ばれる国家設立の企てについての成田さんのツイート

 新たなる国家、独立国家の設立の企て・試みはこの一例に留まらず、似た着想が大小さまざまなあらゆる場所・空間で進められているようです。

 現政府に不満不平を駆動する力に変えて、独立国家をつくる。日本国内の事例では、熊本に新政府を設立し、初代内閣総理大臣に就任した坂口恭平さんの取り組みが頭に浮かびます。

坂口恭平さん著「独立国家のつくりかた」(講談社現代新書)

 その他の国・地域でもいくつもの動きが確認できるようで、その「つくりかた(レシピ)」になるような例を2つ、成田さんは挙げられています。

・「独立国家のつくりかた」その1:ゼロから作る
 似通った価値観の人々が同じ種族(仲間)となって、その人たちが出入りできる場所は「ゲイテッド・コミュニティ」と呼び、そのコミュニティ内では税制度から教育のあり方までを、その内側のみで構築しているようです。

・「独立国家のつくりかた」その2:すでにあるものを乗っ取る
 仲間を集って、ある程度の人数で大挙し、特定の自治体に押しかけるというふうに、何もない所からつくるのではなく、すでにあるものを再利用する手も考えられるようです。

その1の一例である海上微小国家、シーランド公園(出典:BBC

 そして、つくり出したり、大挙して押しかけたりする場所というのは将来的に地球上の土地に限らないということもあり(海底、宇宙など)、技術の進展と私たちの思想の変化が相まって、ますます広がりをみせそうなのです。

 「お気に入りの政治制度を実験する海上国家やデジタル国家に資産家たちが逃げ出す未来も遠くないかもしれない。その視線の先には公海が、地底が、宇宙が、そしてメタバースが見えている。」

『22世紀の民主主義』P146より引用(強調表現を追加)

***

 ですが、新しいどこかに行くこともできなければ、今いる場所から離脱することもできないという場合であるとしても実際に独立運動をすることは、今のところ日本では刑法78条の「内乱予備軍」にあたる可能性があるようです。
 
 ここまで、どこかに「逃走」できるかもしれない事例について辿ってはきたのですが、それが可能だったとしても社会の問題と課題から、ただ逃げているだけということには変わらないという、その点をふまえて成田さんは、「民主主義からの逃走と闘争をし、民主主義の再生」をはかるための「構想」を考えることが、未来の社会への課題と述べられています。

 「制度そのものを変えない限り民主主義の問題が根治することはない。(中略)来るべき独立国家という箱の中身を詰める構想だ。」

『22世紀の民主主義』P155より引用

 

どんな民主主義の「更新・再発明」の仕方があるのか。

 現在の民主主義がズッコケ具合(第1章)、その現状に向き合って働きかける場合に有効だとされる策(第2章)、はたまた現状から目を逸らして生きるためとした場合の案(第3章)、そのそれぞれについての成田さんの見解・言及を辿ってきました。
 そして、最終章である第4章「構想」の内容は、「22世紀の民主主義」で語られる『無意識データ民主主義』について大きく踏み込む部分となります。
 岸田政権に提唱している「新しい資本主義」ならぬ、成田さんが予測している「新しい民主主義」のかたちを、「無意識」をキーワードに、その有効性と危険性(光と闇)を探りたいと思います。
 そしてそれはこの記事を書いている動機でもありまして、新しい仕組みやまたその思想を導入したとしても、「“ひと”の尊厳」を無視することのない社会のあり方に必要なことに思いを馳せたいという。個人的な目的に向けての取り組みでもあります。

***

 まず成田さんは「民主主義」という理念に姿形を与える存在、政治家を決めるための「選挙」の現在地についてデータをもとに整理されます。「選挙」の人気の低下について指摘されていると言っても良いかもしれません。
 
 この先の(いずれ訪れるかもしれない)「選挙」のない政治のあり方という提案を深ぼるにあたって前提としたいデータに、総務省「国政選挙における投票率の推移」があります。その内容には「2017年の衆院選の投票率は54%、2019年の参院選の投票率は48%」と、近年の投票率は半数前後また半数を下回る結果ということが示されています。

 「選挙なしの民主主義は可能だし、実は望ましい。そう言いたい。選挙なしの民主主義の形として提案したいのは「無意識民主主義」だ。」

『22世紀の民主主義、P160』より引用

 「無意識」を政治の場での意思決定に取り入れる、と聞いたとき関連させなければならないと思うのは、東浩紀さんが2011に上梓されたご著書にある『一般意志2.0』という構想です。

一般意志2.0
ルソー、フロイト、グーグル

 「無意識民主主義」という案について成田さんご自身も「東さんの構想と通じる部分が多い」(P246)と仰っているため、東さんの見解についても適宜触れさせていただきます。

*** 

 成田さんと東さんがそれぞれの著書で語っている内容には似通っている部分があるというのは先の言葉にある通りなのですが、確かに異なった部分もあるのです。

 「これまで民意データを汲み取るための唯一無二のチャンネルだった選挙は、数あるチャンネルの一つに格下げされ、一つのデータ源として相対化される。」

『22世紀の民主主義』P161より引用(強調表現を追加)

 「来るべき政府は、(中略)一方で市民の無意識を積極的に吸い上げながら、他方で市民のあいだの意識的コミュニケーションをも活性化させる、そのような二面性を備えるものだと考えるべきではないか。」

『一般意志2.0』P134より引用(強調表現を追加)

 成田さんの『無意識データ民主主義』構想とは、「選挙」も「政治家」もない世界で、インターネットなどを駆使し無意識のうちに“ひと”の意見を吸い上げ、国の政策(統治)を進めることができる可能性を示しています

 他方で東さんの『一般意志2.0』構想が導入された世界では、制度をルールをつくることを、“ひと”の議論(コミュニケーション)とインターネットなどで意見を汲み取る技術の組み合わせを実現させる可能性をより示唆しています

 
 この記事では成田さんのご著書「22世紀の民主主義」にスポットライトを当て続けることを第一としたいため、どちらがより現実的か、優れているかなどということを言及することはありません。
 ですが、記事の冒頭で「“ひと”の存在ともいえる「尊厳」を守るためにできることを重要視する立場を取ります。」と述べました通り、個人的には、“ひと”の存在をより尊重することの重要さを説くことのできる、東さんの『一般意志2.0』構想を構想を良く思っています。

 ということで、「両者の案の根底を成す共通点」と「少し異なった世界を導くであろう違い」にも注目しながら、成田さんの案について学びを深めたいと思います。
 その際には、「“ひと”の心が希望を抱くことができること」を「光」の部分として、「“ひと”の尊厳を脅かす可能性のあること」を「闇」の部分としたいと思います。それは「無意識民主主義」を、これまでのやり方を代替した世界に生まれるかもしれない「光」と「闇」です。

***

 お二人が考える世界で共通する「無意識」というキーワード。私たちが「無意識」下に発している欲望・願望を情報・データ化して、民意とすることで社会の制度やルールを決めるような、自動化・機械化された意思決定アルゴリズム(コンピュータのプログラム)が考えられます。
 考えられる、というよりはすでに私たちの日常にはその技術が徐々に浸透しています。
 たとえば、日常の中で監視カメラが捉えたり、インターネットを介して私たちの言葉や表情や体反応を集め参考にしている企業があったり、平常時や緊張時の心拍数やどれだけ汗をかいているか体内でのホルモンの分泌量など自分自身が参照しているように、私たちの感情や体調を今以上にデータとして集めようということなのです。

 「そこに刻まれているのは「あの制度はいい」「うわぁ嫌いだ…」といった民意データだ。世論調査や ..  価値観調査が、年中無休で大量に、無数の角度からあらゆる問い・文脈について行われつづけているようなものだ。」

『22世紀の民主主義、P161』より引用(一部中略)

 それでは、いくつかのデータ収集の流れはどういったものになり得そうなのか、そのイメージを抱きやすい成田さんの図と説明に則って確認したいと思います。

(左上から下へ)こちらの図では、既存の「意識的な投票」の代わりに優先されるのは、
生活の中で使っている機械で「無意識的な身体や感情の反応」を感知し、
学校や職場をはじめとした公共の場でみられる「無意識的な言動」を、
私たちの声(民意データ)としてかき集めるということが可能ということをお示しされています。

 日々の生活の中でスマートフォンが手のひらにあるように、さまざまな装置によって私たちが抱く願いや感情を「無意識」のうちにデータに変換してしまいます。
 そのデータをもとに社会全体として求めていることと、個別のイシューを解析して、すべてに対して最適解を導き出す。そのような流れは、私たちがただ生活している間に途絶えることなく進むという意味で、それも「無意識」のうちに民主主義という理念を達成することができているかもしれませんし、少なくともアルゴリズムが不眠不休でその理念を達成することを目指す社会が訪れるかもしれません。

家の中や職場で、人の声と動きを無数のマイクとカメラから観測して、データとして蓄積する。
『22世紀の民主主義』P172-174参照
国中、街中のあらゆる場所で、監視カメラ・マイクが私たちの賛美や罵詈雑言を捉える。
『22世紀の民主主義』P175-176参照

 「世の中に存在している、そしてこれからの社会に存在するであろう、私たちが一体どんな政府や政策を望んでいるのかということを語ってくれる情報すべてを汲み取ってしまおう。」

『22世紀の民主主義』P176より引用

 以上のように、「無意識」的に私たちの声をデータとしてかき集めて、それらのデータが示す、私たちの欲望や願望を叶えたり、不平不満を解消するための仕組みづくりのための意思決定を行い続けることが可能なシステムを導入した社会が、『無意識データ民主主義』を採用した社会なのだと理解しています。
 
 そして『無意識データ民主主義』による社会の構築では、選挙で使う紙とペンを超えた、「民意の解像度の高さ」と「豊富なデータの種類」が扱われ、決まりきった視点のみから見ただけではわからない私たちの気持ち(民意)が反映することが可能になります。

***

 現在の意識的な「選挙」のみで実行(処理)できる情報量とその正確性には限界があるため、「無意識」的な情報収集によって、「民主主義的意思決定の「入力側」と「出力側」を質量ともにドカッと押し拡げる」(P167)ことができることを、この後の図お示しです。
 「みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する装置」であるアルゴリズムによる民主主義的な循環は休むことを知りません。
 
 これまでのたった一つのチャンネルであった「意識的な選挙」での民意の表明と比較して、私たちの気持ち(民意)をさまざまな角度から収集・抽出するチャンネルやセンサーがあればあるほど、「無意識的な投票」による意見の表明が可能となり、無数の情報を融合して平均することで、特定の方向に偏りすぎるのを避けることができるとのことです。

成田さんのツイートに掲載された画像

 「無数のチャンネル・センサーから抽出された民意データのアンサンブル(*アルゴリズムたちの集合)の上に芽吹くのが、無意識民主主義である。常時接続の選挙なき社会的選択と言ってもいい。」

『22世紀の民主主義』P184より引用(*は注釈)

 『無意識データ民主主義』についての概要を辿ってきましたが、それが私たちの日常に浸透したイメージは徐々に浮かび上がってきたかもしれません。
 そのイメージをより明瞭にしたいのですが、『無意識データ民主主義』の核である「アルゴリズム」の具体的なデザインについて、すなわち「どのようにつくられ、どのように動くのか」は、次の2段階のステップで行われるようです。(主にP185-186を参照します。)

こちらが無意識民主主義の全体像を表す図です。
私たちからの訴えかけを「無意識」に発見・目的化する(図内、赤文字の矢印)
その意見をもとにアルゴリズムが、私たちが「無意識」のうちに最適な手段を見つけて実行する(図内、青文字の矢印)

 (1)つ目のステップとして、個々の課題ごとに「どれぐらいの結果・成果を目指すのか」といった価値判断(価値観)の設定を、集められた私たちのデータから読み取ります。
 (2)つ目のステップは、設定したその価値判断(価値観)にしたがって、最適(とされる)政策・ルールを選びます。

 (1)でデータ・エビデンス(データに基づく証拠)を使って目的を発見し、(2)で同じくデータ・エビデンスを使ってよい手段を選び、改善していくという、先の図にあった無意識民主主義の全体像が見えてきます。
 
 以上のようなアルゴリズムの活用の部分ぶぶんは、ウェブ上で買い物をしている際など、私たちの好みのタイプや過去の閲覧履歴といったデータをもとにその人にとってよいとされるものを推薦するのに使われています。
 そのような機能を持ったアルゴリズムの拡張版を政治に実装し、民主主義を目指す社会というのが、『無意識データ民主主義』を導入した社会といえます。


無意識データ民主主義を導入した社会の「シルエット」を見る。

 次々に解決したい課題がとめどなく現れて、解消したと思えば問題が増幅しているなんて状況は、私たちいち個人の生活にもあるのだと思います。
 ですから、社会に存在する溢れんばりの課題・問題そのすべてを引っくるめて対応してくれる(できる)スーパーヒーローを数年に一度の「選挙」で見つけようという、社会を誰かの一手に託そうというのは方法としてとても粗いということがわかります。

 そこで、『無意識データ民主主義』の核となるアルゴリズムによって、無数の課題・問題に対応する不眠不休のチャンネルを作り出して、すぐさま対応・改善していこうということのようなのです。
 そして、そのようになった社会では、課題と問題の発見・課題と問題の働きかけ、どちらの側からも人間の姿が消えていきます

 「今の選挙民主主義の欠点は、「あらゆる論点にみんなが意見を持つ」という無理ゲーな建前が適応されていることだった。(中略)そもそもみんなが参加してみんなが全ての論点に同時に声を発する選挙というお祭りをしていること自体が問題を生んでいるのに、選挙そのものを諦めないのはなぜなのだろう?」

『22世紀の民主主義、P191-192』より引用

 人間がお祭りのように騒ぎ立てる「意識的な選挙」は常に多数決が勝ち続けるので、大々的な課題・問題として取り上げられることに対しての政策の恩恵を受けることができる人は救われる可能性があるものの、他方スポットライトの当たらない少数で特定の苦しみや困りごとを抱える人には、人間の手が届かないことが大いにあります。
 だから、すべての課題と問題に光を当てることのできる「選挙を意図的に軽視する無意識民主主義なら、当事者たる少数の|《か》れ欠けた声、悲愴な表情を吸い上げることができるかもしれない。 」(P193)のです。

 「無意識データ民主主義は、投票(だけ)に依存せず、自動化・無意識化されている。その結果、多数のイシュー・論点に同時並行対処できる。意識的な投票・選挙が作り出す同調やハック、分断も緩和することができる。」

『22世紀の民主主義』P204より引用

 『無意識データ民主主義』を導入しそれで終わりということはなく、アルゴリズムは人間にまつわる課題・問題を予測・発見する正確性と、それらの解消度を第一にする(してしまう)ので、どのような人にも公平で平等な、偏見や差別を学んでしまわないようにアルゴリズム自体をいじってしまうことが有望だと成田さんは考えておられるようです。



 
 『無意識データ民主主義』のアルゴリズムが、既存の“ひと”の役割を代替することで、これまで気を配ることができていなかった問題やその問題に絡みとられている人々を救うことが可能になり、社会を「平和」に導くかもしれない。そんな成田さんのご著書の内容を軸に、22世紀に現れるかもしれない社会のシルエットを垣間見ました。そしてここまでの辿ってきたその内容とは、『22世紀の民主主義』から考える「光」の側面だったといえます。

 「どんなセンサーでどうデータを収集し、どう集計するのか」「データや計算の権限は誰が握るのか」など、『無意識データ民主主義』のアルゴリズムの背後に佇むのは何(誰)になるのか、といったことが未解決問題だと成田さんもご自身で指摘されています。

 ここから先は、それらの未解決の問題によって生まれ得る更なる問題ではなく、『無意識データ民主主義』によって実現するかもしれない『22世紀の民主主義』社会で「闇」となり得る側面、つまり“ひと”の存在の核といえる「尊厳」を脅かす危険性について考えを敷衍ふえん したいと思います。

 「民主主義による政策決定のほとんどは無意識に自動実行されるようになり、はじめはApple WatchのCM(*人が怠惰な行動をとりそうになるとその人を引っ張って行動に移させる)のように違和感を催すが、やがて慣れ、気づいたときにはそれが当たり前でもはや認識できなくなる。政治の無意識が開拓され、国家の骨格調整と人格改造が完了する。」

『22世紀の民主主義、P216』より引用(強調表現を追加)

 

心が「バラバラ」になる社会は、民主主義的と呼べますか。

 「意識」的であっても「無意識」的であれど、人の心の動き、機微というのは十人十色という意味でバラバラなのだと思います。だからこそ既存の「意識」的な民主主義で、全員に対応・対処していくことができるという幻想を盲信するのではなくて、「無意識」的な意見の汲み取り方を導入した民主主義のあり方を想像したのでした。

 「私たちの意識や判断を頼っている限り、民度(つまり意識や情報や思考や判断の質)という概念からは逃れられない。そこから逃れるために、(中略)人間が見下している動物の世界に(*人類の魂を)いったん還元してしまう。」

『22世紀の民主主義、P228』より引用(*は注釈)

 ですが、願望や欲望などを「意識」的に意見しない(したくない)人のそれらまでを半ば強制的に「無意識」的に吸い集めてしまうことが、“ひと”という存在を織りなす、その人の心そのものがバラバラにしてしまうかもしれない未来の社会についても考えたいのです。
 言い方を変えますと、『無意識データ民主主義』で構想できてしまう社会が「人の尊厳」を守れなくなってしまう状況を導いてしまうのだとしたら、その「○□主義」がどれだけ画期的であって人間よりも優れていようとも「民主主義」的でななくなるのではないか、と考えています。

 「システムがちゃんとすると、人はシステムに依存する。そうすると例えば、弱い人を助けようという意欲がなくなる。あるいは弱い人が助けてもらおうという意欲も失われて、そうしてバラバラになっていき、基本的に人倫の世界は終わる。」

宮台真司さんの言葉を引用
(出典元:NewPicks動画、5:40-)

 たとえば、『無意識データ民主主義』を、唯一無二である誰かの人生に導入してみたことを想像してみたい。
 自分自身より自分自身が見たもの、出会った人など、そのすべての原体験や思い出を鮮明に書き換えることなく記録しているアルゴリズムを搭載しているような人生です。
 常に傍にいるそのアルゴリズムは、どんな判断・決定をするときも、自分自身の原体験情報・思い出データをもとに、最もよいとされる答えを導いて私たちに伝えてきます。
 そして伝えられることについて「頭」では「きっと良いのだろう..」とわかる状況が続きながらも、「すごく善い!」ともし「心」には響いてこないとすれば、「他者(アルゴリズム)」に、自分の人生を託して本当によいのか。
 自分のことを完璧に記録するアルゴリズムに与えられた答えに沿って何かをやり遂げたとしてもその「実感」が伴わないかもしれませんし、また伝えられたことに背を向け続けるのだとしたらどこかで「自己欺瞞」が付きまとうかもしれません。

 「人の主体性とか、あるいは社会的なアイデンティティみたいなものに依存しないばかりか、むしろそれを一切無視しても成立するような構想はあり得るかに興味がある。」

『22世紀の民主主義』に希望はあるか』、成田さんの発言より引用
(文藝春秋digitalウェビナー、41:20前後)

  社会を民主主義的な方向に押し進めるためのシステムをどうつくるかが『22世紀の民主主義』の内容でした。
 『無意識民主主義』の核となるセンサーが張り巡らされた環境で「無意識」的に私たちの部分ぶぶんが情報として集めれるということで、ここからの内容では、万人に共通する答えがない概念ではあるものの「幸福」や「自由」といった人倫に関係することが、『無意識データ(センサー)民主主義』社会ではどのように脅かされるのか、また守ることができるのかについて考えます。成田さんのご著書の内容の中心は政治でしたので、論点のズレを感じられるかもしれません。
 しかし、自分自身の生をはじめ、仮に人が生きることを望むのであれば、一人でも多くの私たちが生き延びることができるように、社会をよりよい環境へ整備するのが、政治の役目であり、社会の目指す姿です。
 どのようなことを、どのようにしようとも、社会を構成する人の人生が豊かな方向に寄与することを果たそうとすることが、すべての動機であるはずと信じています。

 私たちが表に発しない願望や、内に秘める欲望のすべてが「無意識」のうちに吸い取られ、それらが半ば強制的に咀嚼され生み出された、どのような人の声も取りこぼさない社会か。
 人が人を救うということを建前に、私たち自身が「意識」的に何を伝え伝えないかを一応自分で決めることができるという権利を守ることで滞ってしまうコミュニケーションや、社会のあり方を更新しようとする人力のスピード感には、ややモヤモヤを抱きつつもそれでも進もうとする世界か。


人は社会課題に関心を持たなくなるかもしれない。

 『無意識データ民主主義』の核となるアルゴリズムについて知る際に、参考とするべき事例があります。過去に、Microsoftが開発した人工知能(AI)「Tay」がTwitterで人間の学習をしたところ差別主義者と化したという事例がありました。
 ですので、人のあり方について学習を続ける『無意識データ民主主義』の核となるアルゴリズムも、人間から発せられるデータを集めるという点で類似しています。
 ということは、人の人間的な差別や偏見を包み隠さず集めて示してしまうことがあり得るという点で、「私たちの無意識」の集積をもとに意思決定をするアルゴリズムが人間的な差別意識、偏見志向になり得るという懸念があります。

 「人類は、弱者や少数派を差別・無視し、権力や多数派の価値観におもねって好「成績」を残したいだけの差別的同調主義者だからだ。人類を真似れば差別的同調主義者になるしかない。」

『未来の超克』第七回「定めない理念」P267より引用
(雑誌『文學界』での成田さんの月刊連載)

 しかし、人が「無意識」のうちに集めたデータを開示し、「意識」的に認知できるようにすることが、意識的にも無意識的にも私たちの内に存在するその偏った人間的な事実に直面する「きっかけ」となり、社会に根を張る差別意識の解消を促すことが可能になるのかもしれません。
 
 またしかし、無意識データの開示によってでしか、人は結局そのような社会の実情に本腰を入れることができないのだとすると、私たちが主体的に動くことは更になくなり、受け身的にアルゴリズムの報告をただ待つだけのような社会になり、自分自身の力で社会課題に向き合うことを怠らせる可能性にもなるのかもしれません。


人は自分から考える必要がなくなるかもしれない。

 現在の社会は複雑に物事が絡み合いすぎていて、すべてのことに精通している人も存在しなければ、逐一すべての問題に手を打てる方法や対策を見つけることは限られた時間の中ではできないので、日常生活でも私たちは、個人の投資や健康・買い物の管理もどんどんアプリに委ねられるようになっています。
 だから、私たちの「意識の部分」は思いのままに個人こじんが興味のあることに注意を向け、現在の投票率をからもわかるように“民主主義政治”のような半数の人は興味を示さないことについては、私たちの社会への願望を「無意識」的(私たちが気づかない間)に、アルゴリズムに吸い取ってもらって、「無意識」的(勝手に)政治に参加している状態にしてもらおうというのが、『無意識データ民主主義』の構想だったと思います。

 「たしかに政治において明確な発言をするひと、できるひとの方が例外的でしょう。それに対し、多くのひとの、言葉にならない思いにこそ、大切なメッセージがあるのかもしれない。(中略)民主主義の発展とは、それまで声をあげられなかった人々の、さまざまな思いを取り込むことで実現してきた。そうだとすれば、現代的なテクノロジーを背景に、さらに民主政治のポテンシャルを拡大することは重要

東浩紀さん著『一般意志2.0』P313
文庫本特別掲載の対談、宇野重規さんの発言を引用
(原文にはない強調を追加しています。)


 しかし同時に思いを馳せているのが、「意識的」であろうと「無意識」であろうと、社会をよい方向へ促したとしても、一人ひとりが「社会に参加している感覚」と「自分の声(力)で何かが変わる(変わっている)」という“実感”が伴わなければ、またアルゴリズムの訴えかけによって心が動かないのだとしたら、私たち自身には社会で起こっていることについて訳もわからずなんとなく時代が進行しているという感覚を抱いてしまいます。
 そうなったとき私たちは社会を織りなす存在としての立場を守れるのでしょうか。


暇が生まれて退屈になり、不安に陥るかもしれない。 

 普段からアルゴリズムに答えを与えられることが常習となった場合、物事を深く考えたり出来事を観察したりすることがなくなって、自分自身は与えられた答えをただ実行していくだけとなると、主体性を失うことになります。
 社会に関するすべてのことに対して答えを持っている政治家がいないように、私たちもすべての物事について知る必要はないかもしれませんが、世の中の出来事はあちらこちらで大体つながっているということは間違いのない事実でしょう。目の前のことが、今の自分にとっては興味のないことだったとしても、いずれそれらを考えることもできる可能性に開かれていることは重要だと思うのです。
 アルゴリズムによって、人は考えなければならない物事が激減し、考えなければならないということについても深く考える手間が省けるので、暇な時間が増えます。その生まれた時間を梃子てこに、更なる飛躍につなげることのできる人もいるとは思いますが、下記のデータを見ても一部だということがわかっています。

「日本って、大学入るまであんなにガリ勉大国なのに、企業は人材教育投資をほとんどせず、46%の社会人は社外学習や自己投資をしてないらしい。」(成田修造さんのツイートより)

 暇な時間を自身の成長に投資できるかに限らず、急に何もしなくていい(何をしてもいい)時間を与えられても、上手な時間の使い方がわからないということは多々あるのではないでしょうか。
 さらに、今までは時間を取られるような嫌々考えさせられていたことでさえその人が存在してもいいという大義名分になっていたとしたら、アルゴリズムにその手間を省かれることは、誰かのアイデンティティを揺るがし、また不安な気持ちに苛まれる可能性があります。

 「可処分時間が可能にするのは、自己精神であり、自己反省であり、自己嫌悪である。人は暇だと鬱になる。」

『未来の超克』第一回「測らない経済(序)」P145より引用
(雑誌『文學界』での成田さんの月刊連載)

 
 暇があっても退屈することなくアイデンティティを保持できる人がいる一方、暇な時間で退屈してしまい存在する理由を奪われてしまうような人がいるということですが、普段からさまざまなことに気を配る練習をしていなかったり、日々の雑事や忙殺されていればされているほど、暇を器用に楽しい時間に変換することは難しいのだということが想像できます。

 「人間は、どんなに悲しみにみちているときでも、だれかがうまいぐあいに、気ばらしに引き入れてくれたら、ほら、もうその間はこんなに幸福なのだ。また、人間はどんなに幸福であっても、退屈が広がるのをおさえてくれる何かの熱情とか楽しみによって、気をまぎらせ、心を奪われていないならば、ほどなく不きげんになり、不幸になるであろう。」

パスカル著『パンセ』より引用

 過去に「人間の問題はすべて、部屋の中に1人で静かに座っていられないことに由来する。」と考察したのは、「人間は考える葦である。」という言葉を残した哲学者のパスカルですが、現代でもその人間的な病理を主な内容とした書籍『暇と退屈の倫理学』を上梓されている、國分功一郎さんがいます。

 「ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。(中略)なのに、.. 人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。」

國分功一郎さん『暇と退屈の倫理学』より引用
哲学者のバートランド・ラッセルが著書『幸福論』で述べているのは、
打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸である」と解釈できると國分さん

 ご著書のその名の通り、人が暇を付与されてどのような行動を取れるのか取れないのか、時間を与えられて幸せになる人もいれば、情緒が不安定になる人もいるということを考察されています。

 自分が生活を営む国の取り組みについて考える(考えなければならない)機会を持ったり、社会のあり方に関心を抱く必要がなくなった場合というのは、もしアルゴリズムが政策や社会の豊かさに寄与する案を採用するかどうかの最終的に判断するのは人間だとしても、判断を下すことについて普段から深く考えていない立場にいる人が決断することなどできません。
 一切思いを巡らせていないようなことに関して、もし決断しているように見えている場合というのは、裏にいる何か(誰か)にうまく使われているだけであってその状態とは純粋に「生きている」と言えないと思います。

 自分自身で自分が一体何をしたいのか、好きなのか、興味関心を抱いているのかが不明のままでは、いくら時間があったとしても、そこら中にあるびっしりと鬱蒼としている広告の言葉やウェブの推薦機能からエサのように与えられる「自分がきっと好むもの」に幸せを求めてしまいます。
 それと同じようにアルゴリズムに推薦された答えにある背景を考えたりすることができず、ただ与するだけの存在になってしまうとすると、いくら社会がよりよい方向に進んでいたとしても、その社会で生きる私たちには「幸せになっていっているという実感」が伴いません。

 幸せに生きていることでその裏側にある不幸の存在を勘付くことができ、不幸に過ごしているその傍でも常に幸せを感じることのできる機会が溢れている。味わった辛酸を省みて初めて物事がわかったような気がするのは、自分がどのような順序で、そこにたどり着いたかわかっている実感が伴っているからです。


新しいことへのきっかけの消失、興味を持つ可能性が閉じるかもしれない。

 仮に、自分自身にとって「幸せ」という概念はどんなものかを整理し、その定義をアルゴリズムに学ばせ、かつ自分の意識的・無意識的な言動をすべて記録してもらうことで、常に傍にいるアルゴリズムにそのときどきで「幸せ」の設定した定義に照らし合わせた場合に最適となる選択を教えてもらう。そうなった場合、人は自分にとって大事だと思うさまざまな概念の整理、つまり目標の設定のみに明け暮れるのでしょうか。
 
 自分が設定したどんな目標であっても、自分の気質や得手不得手を知っているアルゴリズムの力によって、達成することが可能になるのかもしれません。
 しかし翻ってひるがえってアルゴリズムによる自己解析で、自分自身ができると信じていることを不可能だと申し伝えられる可能性さえあります。そしてそのように答えがわかってしまった場合であっても人というのは、自分の人生に意味や意義を見出すことができるのでしょうか。
 

「何が計画通りだ。計画通りいかないから人生なんだ! よく覚えておきやがれ!」

「クレヨンしんちゃん」野原ひろしの言葉


社会との繋がりや連帯を感じなくなるかもしれない。

 人は、社会のあるべき姿を共に考えるから連帯が生まれ、アルゴリズムのような存在がすべてを解消するのではなく、わからないけれどわからないなりに共に社会課題に向き合うからこそ社会的な繋がりが生まれるのではないか。
 人力ではグダグダであったとしてもそのような過程をすっ飛ばして手に入れた平和な社会や、豊かな社会では、何がどうなってそうなったのかわからないという点で、そのような社会で私たちが「幸せ」だと実感することはできないのではないか、というのは繰り返し述べた通りです。

 人が社会で共に生きる人のことを慮る必要がなくなり、アルゴリズムから与えられる答えに従順であることが「幸せ」を感じることのできる社会なのでしょうか。
 人が他の人に対して何ができるだろうと考える(考えたい)その倫理観が崩れる事態になるのだとしたら、人と人を繋ぐコミュニティ、コミュニティの集合体である社会はどこへ向かうのでしょうか。

 「(ルソーにとっては)民主制はある条件がないと回らない。それは、自分はある決定を支持するけど他の人たちはどうなるんだろうかが想像できて、気にかからなければならない。」

宮台真司さんの発言を引用(一部改変)
(出典元:NewPicks動画、0:45-)


やがて自己を喪失し、死に至らせてしまうかもしれない。

 旧態依然のやり方を採用し続ける社会では生産性も効率にも確かに難ありです。
 進んでいるのか進んでいないのかわからないような会議や業務が続くように、社会の変化に対して人のスピードはアルゴリズムのそれと比べてると後手後手なのでしょう。しかしそこに生まれるのは生産性と効率だけではなく、「やりがい」(「仕事をやっている感」)、ひいては「生きがい」(一応やることがあって手持ち無沙汰ではない)みたいなものもあります。
 意思決定までのプロセス全てをアルゴリズムに丸投げし、そこで生まれた新たな箇所分時間を趣味に使い別のやり方で「生きがい」を見つけることは一部の人には可能だということは先で触れた通りですが、その余分に生まれた暇な時間で誰もが「やりがい」「生きがい」を感じることのできる活動に謳歌できるわけはないのだと思います。

 古典的な人が非効率に動き回るやり方と、無意識に答えを弾き出すやり方。一方を生かして他方を滅ぼすのではなくて、アルゴリズムによる明瞭な導きに人が関心を寄せながらも、最終的にその導きを採用するのかどうかという部分で人の関与が許されるような、意思決定をするにはどちらも重要だという二段階戦略が重要だと思います。

 「大衆の無意識を徹底的に可視化し、制約条件として受け入れながらも、意識の光を失わない国家。熟議とデータベースが補いあい、ときに衝突する子によって、(欲望と戦う思春期の少年のように)よろよろと運営される国家。」

東浩紀さん著『一般意志2.0』P191より引用


 先の東さんの言葉にあるように、(思春期の頃に限らず)何をやってもほとんどうまくはいか図、そのよろよろな動きがいつまでも続くとしたとしても、それがその人の経験と歴史に味わいを付け足すのではないでしょうか。
 
 哲学を例にとっても、これまで人は完璧な答え(解)を求めて考えることを続けて、結局見つけることができるのはいつも暫定的なそれでしかなくて、でも振り返れば、あっちへ向かったりこっちへよろけたりというその過程を知っていることによって、その人の考え方の変遷と何がその変遷に寄与したかを学ぶことが、ただ答えに(解)に飛びつくより重要です。「なぜそうなったのか」という過程にしっくりくることなく、最終到達地点を知ってもなんの実感が湧きません。
 それは登山をしようとしているのにもかかわらず自力で登らず、ヘリコプターで山頂まで行って、どちらも同じようにその場の景色を目の当たりにすることはできますが、後者はどのようにここまで辿り着いたのかを知らないということから、自分が目の当たりにしている景色、すなわち自分が持ちえた答え(解)についてなんら「実感」や「記憶」は伴わないことと同じです。

 人生で起こるすべての出来事が最適な結果にならなかったとしても、答えが分からないからこそ様々なことを試みて、人生を最高に彩るのは自分自身ではないのでしょうか。


無意識データ民主主義で、「自由」になれるのでしょうか。

 言葉や表情の端々はしばしから私たちが無意識に発している願望と欲望を掬い上げる(救いあげる)ことのできる『無意識データ主義』または『無意識センサー主義』というアイディアの実現可能性自体は、技術の進歩がこれからも進み、AIとインターネットが組み込まれるものの数が増えれば増えるほど高まることは確かなのだと、成田さんのご著書の内容やメディアでの説明から理解できました。
 しかし、奇しくも『無意識データ民主主義』の最大の相手は、「ひと」の生きる原動力となる感情や行動を駆り立てる心の機微を、自力で表現することや言語化することの最適化をなんとしてでも望まない人間なのかもしれません。
 私たちの意識もしていない(できない)意見の表れが「無意識」のうちに外部のセンサーに吸い上げられて、そのセンサーがかたちづくった集まりがどのような情報を示していたとしても、それを「自分自身」をデータとして表したものだと私たち自身が認めることができるかどうかが、『無意識データ民主主義』を社会に実装しようとする場合に、価値観や同意の形成に向かう一つの大きなステップとなるのではないかと思いました。
 私たち自身が「私たちの無意識の表れ」を集めたデータに対して、「意識的(理性的)」にその(無意識の)存在を認めることができないとした場合、その無意識データどのように優れたものであっても、役には立たないのではないかということです。

 連帯や感動が起こる際、人と人のあいだ、私が誰かと意識的につくりあげた(つくりあげることができた)という実感が伴います。
 「無意識」の表れを吸い上げる技術の革新がこのまま急進的に進むとしても、社会の変遷に人の普遍的な倫理・道徳観の変容がそのスピードについていけように、人が社会的な関係を「意識的」につくろうとする考え方に基づいて動く際や、人にとって「自由」や「正義」とは何かと考える際に本当に大事にしたいのは、アルゴリズムの指示ではなく、「自分で考えて、決める」という「自己決定権」だという前提だと思うのです。
 
 成田さんによる見解に、「政策的な指針を決定し行政機構を使って実行する「調整者・実行者」としての役割は、人に残り続ける」(P219)とありますように、人の存在を認めたり救ったりすることが民主主義的な社会のかたちであるとするのならば、アルゴリズムの合いの手は、私たちに向けたヒント程度に受け止めながら、最終的な判断それ自体は人に委ねられているという社会は近い未来に実現するかもしれません。

 「(私たちの)欲望が自動的に整理されるだけでもなければ、(私たちの)熟議のみよって決まるのでもない。むしろ、ひとりひとりになかの動物的(無意識的)な部分がネットワーク(センサーやアルゴリズム)を介して集積され、あちこちでぶつかり合うようなダイナミックな社会になる」

東浩紀さん著『一般意志2.0』P221より(構成を改変しています。)

 「我々が意識的にも考えているような側面も、無意識的に発してしまっているような声も、同時に使うような複数の民意データを多チャンネルに使っていくということが行えれば、意識的な抑制は果たせられるのではないか。」

『『22世紀の民主主義』に希望はあるか』、成田さんの発言より引用
(文藝春秋digitalウェビナー、1:23:20前後)


「人が選択するスピード感」と「幸福を決定するスピード感」のはざまで

 「生じるものはすべて、滅びるに値しますからね」

ゲーテ『ファウスト』の悪魔のメフィストフィレス
(『22世紀の民主主義』P3に記載があります。)

 「アルゴリズムが導く最適解」よって、「ひとの不甲斐なさによる紆余曲折」が滅ぼされるのだとしたら、本当に必要なのはどちらでしょうか。
 しかし『無意識データ民主主義』が社会に実装されて、生じた『無意識民主主義社会』を滅ぼす次なる何かに興味があります。果たしてその何かは、“ひと”でしょうか。それとも寄り添いあって仲睦まじくお互いが互いの思惑やスピード感を譲歩しあえるのでしょうか。

 ウェブで通知される「おすすめ商品」は勝手に送られてくることはなく、その提案に乗るのかどうかは私たち次第であるように、効率的ではなかったとしても「人々が自由に決定を下せること」は、社会において非常に重要な価値であり、守られるべきものです。
 他方、街中に搭載された増え続ける監視カメラには私たちの安全を守るために記憶を記録し、何かを企む人を牽制をする役割があるように、どのような人にとっても「幸福で安全な社会にすること」、こちらもまた同じく重要であることは確かであると思います。

 人間主導で民主主義を掲げる国々が「人命を守る」と「経済を回す」の両方を達成することができなかったことは成田さんのご著書にあるデータにも明らかでした。
 ですが、どのようなことを、どのようにしようとも、社会を構成する人の人生が豊かな方向に寄与することが、すべての動機であるはずと信じている気持ちがあります。

 あらゆることを学んで最適解を導く『無意識データ民主主義』のアルゴリズムに政治・経済を託したとして、どのような綻びもあらわにならい「自由」も「幸福」も望むことができることに配慮してくれる次なる社会のあり方を提示してくれるのでしょうか。

 「どんなに精巧を極めた装置であっても、他の人間が心の中で何を考えているかということを見抜く秘訣まではまだ身につけていないのだ。」

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』より引用

***

 現代社会の変化のスピードに旧態依然の「選挙」がついていけず、未だに「政治」の中心は意識を向けることができる範囲には限界のある私たちです。すべてに対応できるはずもない人間を選ぶ選挙を取っ払い、複雑な社会に蔓延るさまざまな課題を拾い上げることのできる無意識のアルゴリズムを導入するのはどうか、というのが『無意識データ(センサー)民主主義』という案でした。

 その実現するであろう未来について「頭」だけではなく「心」でもワクワクできるように学び直したいというのが、この記事の個人的な裏テーマでもありました。

 近年の政治をかたちづくっていたのは、成田さんのデータが表していたように「民主主義的な国ほど人の命もお金も失った」仕組みであったのですが、政治は経済的に人命を救うことだけに繋がっているのではありません。
 多くの人の尊厳を守るため、人との関係性を慈しむための道徳観や倫理を重く捉えている側面があったからこそ、人命と経済のトレードオフのような状況であれだけ揺れたのだと思います。
 

 禍福かふく糾えるあざなえる縄の如しごとしという言葉の通り、人間の意識と無意識のように、どのようなことにも「光」と「闇」な部分・側面が糾えるあざなえるように(縄を編むように)存在することから、「未来の無意識民主主義」の闇に対して「過去の意識民主主義」の光が、過去の闇には未来の光が、互いに役割を分担し合うことでバランスを取ることが当面の構想になるのかもしれません




 この記事は、成田悠輔さんのご著書『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SBクリエイティブ)を拝読し、書きました。
 そしてこのように「民主主義」ということについて学ぶことのできる機会を与えていただきました。「機運が高まる」という言葉がありますが、現在は社会課題・問題とされていることについて自分という人間には何ができるのだろうと考えており、このような巡り合わせに恵まれたことを大変嬉しく思います。

 引用させていただいた言葉、お借りした画像等は記事内でご紹介している通りです。
 また主に参考にさせていただいた書籍、動画、インタビュー記事などは以下にお名前とともに掲載させていただきます。

 ・インタビュー記事
 『選挙も政治家も、本当に必要ですか』(朝日新聞 Globe+)
 『民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に』(日本経済新聞)

 ・ラジオ出演
 『【田村淳のNewsCLUB】ゲスト:成田悠輔「22世紀の民主主義」』(文化放送)

 ・テレビ、YouTube出演
 『『22世紀の民主主義』に希望はあるか』(文藝春秋digital)
 『民主主義やめますか?それとも人間やめますか?』(PLANETS動画)
 『若者100人と衆院選挙の夜に考える「若者の投票率上げる方法」』(テレビ朝日「選挙ステーション」)
 『成田悠輔×西田亮介 ニッポンの民主主義は限界?改良の余地は』(テレビ朝日「ABEMAニュース」)
 『変容するメディア環境と民主主義の未来
 『The Change of Media and Democracy in the Digital Society』(KGRI2040/CCRC/JST シンポジウム)