空の神道


 神道が上記↑の記事で提案されているような方向に向かうのはどうしようもないと思います。
 宗教リテラシーを身に着けた神道商売の商人たち。
 そうなっていくのだろうと思います。

 それを踏まえたうえで、移民反対・多文化共生を否定する排外主義のネトウヨであるわたしの考えを書きます。
 そんなもん、読みたくないという方は、ここでさようなら。






 そもそも神社という建物を作って、神官なる仕事が生まれた時点で、本来の原始神道(復古神道ではない、原・神道)が、時代ごとの社会体制に利用されるという現象が始まったわけです。
 本来の神道には宗教施設はありません。宗教施設は、それぞれの時代の支配者が必要とするものだからです。

 神社にいくと、なんとか作りなどの家屋があり、神官や巫女さんたちの衣装が決められていますが、あれは、たとえば、観音様が古代インド人の髪形と服装で姿を現わすようなもので、神社という建物や神主のかっこうも、かつて文明の標準だった中華文明からもらってきた建築様式や服装だと思います。
 だから、これからの多様性を重んじる神社は鉄筋のビルでいいし、神官はノーネクタイの背広でいいし、巫女さんはこの機会にいろんなものを取り入れたら「女子高生が憧れる職業の上位五位」に入るようになるでしょう。

 神道というと、経典も戒律も無いということが必ず言われます。
 古事記を経典にしたい人もいるようですが、本居宣長の神道は、シン神道というところだと思います。
 それでも、古事記は中身があまりに文学的過ぎて、キリスト教の聖書みたいに、そこから民衆を思想的に束ねる(束ねる、ファッショ、つまり、全体主義的な)イデオロギーを取り出すのは難しい。

 実際、神道の本質は空だと思います。
 神道とは何かと問い詰めたら、「ようするに精霊信仰」とか「まあ、自然崇拝ですかね」などといったことくらいしか言えなくなる。
 空っぽなのだ。

 祝詞とかも、わたしに言わせると、神道ではなくて、神道を社会運営のために利用しようとした権力者や、神道が利用される社会で神職などで暮らしを立てようとした商売人たちが中国の文献を参考にして考え出したものです。
 このような、社会運営に援用される神道は、時代の要請に従って姿を変えていく思います。

 多文化共生社会の自由民主主義・神道
 これからは、これですね。

 こういう時代時代の擬制としての神道を成立させているのは、空の神道であるとわたしは信じています。
 いったい、その、空の神道とやらは、どこにあるのか?
 
 わたしは、次のように考えています。
 温帯に長く伸びる列島という特殊な風土から生まれた日本語、そして、その日本語に対して違和感を持たない日本人。
 そのような日本人一人一人の心の中に、空の神道は、ある。

 帰国子女の人で、日本に帰って日本語を話していると、主語をつけない日本語に違和感が出て来た。それで、自分は日本語を話しているときも意識して「私は」「あなたは」「彼女は」と主語をつけることにしているという人がいました。

 このような違和感がひろまり、日本語が西洋語に影響されて変化(言語学者は進化と呼ぶでしょうが)するとき、空の神道は日本人の心の中から消えると思います。
 早期英語教育も始まりましたから、そういう日はそんなに遠くないと思います。

 日本語の主語は決して省略されているではありません。
 空の中に主語があって、それが物理的な音声として発音されていないだけです。
 そのことが日本人にわからなくなったとき、つまり、
主語を省略しているとか個人意識が薄いから主語を言わないとか思うようになったとき、空の神道も消えると思います。


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