民主主義はどこにある?

 昭和二十年(1945)八月に戦争に負けると、日本は、それまでの天皇にかわって民主といふイデオロギーが国を覆った。それまで国家のため天皇のために死ねと言ってゐた教師たちが、「民主的に生きませう」と言ひ出した。

 民主。
人民が主体。王様や、少数の貴族や軍人が頭ごなしに人民たちに指図するのではなく、人民が「みんな」で自主的に決める。
 民主。
いっぱいゐる「みんな」の一人一人が主権者だといふ考へだ。
 
 現実の社会で、「みんな」の一人一人が主権者といふ状態にはどんなものがあるのだらうか?
 わたしは、イデオロギーといふ観念の中にしか、それを見たことがない。
 頭の外の、現実の社会で、民主を見たことがない。
 
 「みんな」が祭りの縁日に集ふ。
 一人一人が自由意志でやってきた。そして、自由に歩いてゐる。
 とても民主的な光景だ。
 ところが、その「みんな」が、いざ盆踊りでも踊ろうかといふことになると、櫓の周りに規則正しく円を作る。
 そこで、「みんな」一人一人が主権者として「自分らしく」「自分の意志で」「自分の思ふとほりに」踊るのかと思ったら、さうでもない。

 櫓の上の太鼓に合わせる。
 決められた手順で「みんな」が一斉に手足を動かす。「みんな」同じになると、それによって「私たちは踊ってゐる」といふ満足感が身体に湧いてくる。

 「みんな」は太鼓に従って同じ動きをする。さうしないで、一人一人が自由に―つまりは民主的に動くと、踊りではなく、集団発作としか見えないからだ。
 みんなが好き勝手に自由に、つまりは民主的に踊るなら、それなら、1人で踊ってゐるはうがいい。せっかく「みんな」で集った意味が無い。

 次の曲が始まると、それに従ふ。
 「俺の好きな曲はそれぢゃない」と主張する者がゐない。

 まったく民主的でない。

 わたしは今日も職場に行くが、民主的な職場であるから、わたしたち「みんな」は一人一人主権者だ。
 それなのに、今日の作業の内容は、一人の「チーフ」と称する人がすでに決めてゐて、わたしたちは彼女に命じられるまま動く。
 確かに、その日の朝に「みんな」で話し合ってゐると開店に間に合はない。それにしても、作業の内容や手順について、これまでに「みんな」で話し合った覚えが無い。
 店長や本部が勝手に決めてゐるやうだ。
 わたしの職場では独裁がまかりとほってゐる。

 かうして考へていくと、日々の暮らしの中で、民主主義はどこで機能してゐるのだらうか?

 職場などの公的な場でなくても、人が集まって「みんな」になると、必ず、その中にリーダーがゐる。
 指導者、指示者、支配者がゐる。
 ママ友達がお話をするために集まっても、その集団が「みんな」であるなら、指導者、指示者、支配者がゐる。
 さもなければ、「みんな」がバラバラに好きなやうにして好きなやうに喋り出して収拾がつかない。息抜きのための、情報交換も兼ねた、楽しい時間にならない。
 指導者、指示者、支配者といふ言ひ方がいやなら、ファシリテーターとしてもいい。

 流行のオープンダイアローグでも、全体を仕切ってゐる個人はゐる。
 さうでなければ、集まった「みんな」はバラバラなまま、口を開ひたとしてもそれぞれの独り言であり、有機的な対話とならない。
 なんだか自由な集まりで、いかにも民主の好きな精神科医がとびつきそそうなオープンダイアローグだが、それによって何らかの治癒を生みだすためには、暗黙ではあっても、指導者、指示者、支配者は存在してゐる。

 「一人一人が主人公。誰も『かうしなさい』と誰かに言はれることもなく自分の意志で動いてゐる」といふやうな集団はあるのだらうか?
 あったら、教へてください。

 渡り鳥の群れや、イワシの群れには、リーダーらしき存在がゐないらしい。
 蟻も、現場監督らしい存在が見当たらないのに、それぞれが自分の作業に勤しんでゐる。

 毎日の暮らしでも民主的に生きたいのなら、鳥やイワシの群れのシステム、なかでも蟻の労働の研究が必須だと思ふ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?