天皇は神聖にして侵すべからず

 動画です↑クリックしてご覧ください。

 天皇制は、現実的な政治権力を超越した「権威」に対する要求を充たすことになってゐます。
 「民主主義と天皇制は両立できる。なぜなら、民主主義の先進国であるイギリスには王室があるから」
といふ奇妙な文章を見たことがあります。
 それにしても、「君臨すれども統治せず」といふことで、天皇制を正当化しようとする気持ちはわからなくはありません。

 わたしたちは、天皇制に、何を求めてゐるのか?
 おそらく、神道(原始神道)上の祭司長のやうな存在を、この国民国家となった日本にも残して置きたいと願ってゐる。

 かういふ心理は、タワーマンションの最上階の室内にも、神棚があったり仏壇が置かれてゐたりするのと同じだと思ひます。

 それで、質問ですが、「仏壇のある家では、仏壇を物入れや踏み台としても兼用しますか?」。

 ところが、天皇制においては、天皇をセレブ(人間)と兼用してゐる。
 記者会見させたり、何かの行事でスピーチをさせたり。


 そもそも、天皇とは何だったのだらうか?

 最初は大王だから、権力者でした。
 権力者は支配の正当性を求めて宗教の司祭も兼ねることがあります。
 暴力に還元される権力を、もっと精神性のあるものへと、権威づけるためです。
 さうしてできたのが、天皇だらうと思ひます。

 やがて、歴史の展開のうちに、天皇は政治的な権力を失った。
 なんでそこで殺されなかったのか?
 武士のなかでも、自分の権力維持のために役に立たないなら殺そうと本気で思ったのは織田信長と西郷隆盛くらゐしかいない。

 徳川家康は、天下をとったとき、天皇を官女もろとも磔にして御所を焼き払はらってもよかったのに、さうしなかった。家康も戦国大名ですから、サイコパス。
 必要なら女でも子供でも八つ裂きにできる。なんでもやってしまへる人物だったから、天皇家を抹殺しなかったのは、何か、それなりの思惑があったのでせう。
 たぶん、高度情報化されたスマートマンション住まひなのに、部屋の中に神棚や仏壇を置いてゐる人と同じ心境だったのではないでせうか?

 家族が暮らす場は、便利で機能的でありさへすればいいといふわけにはいかない。もし、さうなら、ホテルの一室を住まひとすればいいわけで、独身のセレブなどにはさういふ暮らしの人もゐます。
 けれども、家族として暮らすなら、先ずは夫婦のそれぞれに両親といふ存在との繋がりが生じる。
 それだけですでにヨコとタテの両方向の・家族の拡大が起きている。

 そのやうなヨコやタテの有機的なつながりを象徴するモノやコトが生活の中に入ってくる。
 国家レベルでも同じことが起きたのが日本だと思ひます。

 さて、
家に仏壇を置く家庭では、仏壇を別の何かの道具に兼用することはしない。
 疲れたときでも仏壇を腰掛にしないし、天井の電灯を替へるときの踏み台にもしない。
 それはどうしてかといふと、仏壇を、神聖なものとみなしてゐるからです。

 神聖。
尊くて侵しがたいこと。清浄でけがれないこと。
②(sacre)デュルケムが宗教的現象の本質的な特徴とみなした観念。
 日常的な存在から区別され、
 これと交通するには特殊の手続きを必要とし、
 これを侵せば超自然的制裁を受けると考えられるもの。
 清浄なものと不浄なものがある。       (『広辞苑』より) 


 天皇は、政治的権力を失ってからは、日本の神々に、五穀豊穣を願ふ祭司長に専念することになった。
 祭司長は、神々より選ばれた者でなければならず、そのことは、天孫の末裔であることで保証されます。

 五穀豊穣の祈りは、めちゃくちゃ大事な国事行為だった。今では実感できないが、日本の民全員の生き死にかかはることでした。
 飢饉が続けば、クニが外敵に侵略されるのと優るとも劣らぬくらゐの・日本存亡の危機なのですから。

 天照大神と直結して祈りを捧げる天孫の末裔、それは、そのへんにゐる人間のひとりであるはずもなく、人間をイワクラとして宿った神、ほぼ生きた仏壇に等しい不思議な存在となってゐる。

これと交通するには特殊の手続きを必要、といふわけです。


 不思議な存在であることと、神聖は、繋がってゐる。
 神聖であるが、不思議さのまったくないものごとは存在しない。
 不思議であることは、それが深度をますほどに、神聖へと近づいてゆく。


 かういふ次第ですから、人間天皇は、天皇制の破壊です。
 なぜなら、人間としての天皇には不思議さは無い。
 したがって、神聖も宿らない。

 冒頭の動画の人間天皇は、「いい人」かもしれないが、なんだか愚かしい。神聖の欠片も無い。

 アメリカにおもねって原爆投下を正当化してゐる「人間」です。
 社会的地位が高いのに、おもしろいことを言って人を笑はせてくれる、「さばけた人」です。
 けれども、歴史と文化といふ・ヨコとタテの複雑で精妙なネットワークを象徴して(体現して)ゐる仏壇的な存在ではありません。
 ただの人間です。

 人間になってしまった天皇、記者会見に応じてゐる天皇は、もう天皇ではないと思ひます。
 そして、天皇を相手に記者会見をしてゐて平気な人たちは、仏壇に腰かけたり、仏壇を踏み台にしてもなんとも感じない人たちです。

 (被災地のお見舞ひなども行ふべきではないと思ひますが、天皇からお言葉をいただいて泣いてしまふ人の態度は「正しい」と思ひます。
 日常では絶対に触れることのない・なにか神聖なものが自分の目の前に現れたのを感じた人が、わけもなく泣いてしまったのです。

 なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる
といふやつです)


 わたしの天皇観は、三島由紀夫↓と同じです。


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