福沢諭吉が好きな人は読まないでください

 三島由紀夫は、自決一週間前の最後の対談で、聞き手が「海軍には精神主義がなくて、なににつけても合理的だった。分業化した技術主義だった」といふ意味のことを述べたのに対して、次のやうに応えてゐる。

 海軍は昔から文明開化ですからね。

 戦後、山本五十六が英雄になったのは、技術的英雄だったからですよ。戦後は全体として福沢諭吉体系だから、(技術主義)の海軍はそこにスルッと入り込める。ただ陸軍がどうしても入れない。それでぼくはやっきになってゐる。
 
 
この言葉に対して聞き手は、
盾の会は陸軍ですか?
と驚いてゐる。三島由紀夫はそれに対して、相手を煽るやうに次のやうに続けてゐる。

 ぼくは、陸軍の泥臭い、暗い精神主義が好きでしようがない。ファナティックな、蒙昧主義の、さういふものが好きでたまらない。
 ぼくの中のディオニソスなんです。

 これに対してなんとか三島由紀夫を貶めたい聞き手は、精神分析を持ち出て、三島由紀夫の肉体的コンプレックスが、軍国主義やマチズモへの傾倒をもたらしたのだと示唆するのだが、この辺りは、ただの揚げ足取りにすぎず、もう引用するには価しないので、ここで切る。

 わたしが取り上げたいのは、戦後民主主義体制と、福沢諭吉体系とのつながりだ。

 「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と福沢諭吉は嘆いてゐる。こんなありさまでは、封建国家から少しも進歩してゐない。
 国民一人一人が政治に参加して、文明国である西洋諸国のやうな国民国家にしなければならない。そのためには学問だ、自分で考へられるやうに学ぶのだと叱咤してゐる。
 福沢諭吉は日本を野蛮で未開な、精神的には、まだ文明を持たない国とみなした。その理由は、少数の世襲の支配者たちが人民を牛耳ってゐるからだ。

 これをどう変へたら文明国になれるかといふと、自由と民主主義を掲げて王制を倒したフランス革命後のフランスが見本となる。フランスは王制国家から、革命により、晴れて国民国家となった。福沢諭吉の目指す、国民(ネーション)が政府を樹立した、ネーション・ステートである。

 戦後民主主義の伝道者の丸山真男といふ人がゐる。教へ子である全共闘の学生たちに罵られようと殴られようと、戦後民主主義に対する信仰を放棄しなかった殉教の聖人でもある。丸山真男にとって福沢諭吉は、心の師のやうな存在だったらしい。

 榎本武揚が函館戦争で新政府軍に敗れて投獄された折り、福沢諭吉は、榎本の母から依頼されて榎本武揚が死罪を免れるやうに動いたり、獄中の榎本武揚に親切にも差し入れをしたりしてゐる。
 ところが、榎本武揚は、福沢諭吉から差し入れられた化学や物理の洋書を見て、こんな初歩的なものはなんの役にも立たない、福沢といふ人間はこんな程度なのかと呆れてゐる。

 それが耳に届いたのかどうかはわからないが、後年、福沢諭吉は『痩せ我慢の説』を書いて榎本武揚を批判してゐる。
 福沢諭吉は年を取ると、封建制度が生んだ武士の忠義などを称揚しだして、文明開化派から保守派といふ顔になってゐる感じがする。慶応義塾大学の経営などからやっと、自他ともに、現実の人間が見えてきたのかもしれない。

 これは、今の日本で保守派と呼ばれる人たちが揃って
「若い頃はサヨクだった」
と言ってゐるのと符合して面白い。
 保守的な言論をすると小金が入ると知って、保守派に転じた人たちだ。

 福沢諭吉の底の浅さは、ルソー的な自由とか民主主義を疑ふ感性が無かったことだ。この場合、知性ではない。福沢諭吉はずいぶんと頭のいい人だったのだと思ふ。
 言葉に長けてゐて、オランダ語が役に立たないと思ふと英語の勉強を始め、おそらく英訳を通して、ルソーなどのヨーロッパの啓蒙家の思想を吸収したのだと思ふ。
 けれども、人間とは何かについて現実生活の中で、言葉にならないものごとを通して、感じ取ることができなかった。

 福沢諭吉の『瘦せ我慢の説』で、榎本武揚は、幕臣でありながら、敗北するとたちまち変節して明治新政府の大臣を歴任して体制に尻尾を振ってゐる、それでも武士かと罵られたが、「昨今多忙に付き」いずれご返答致しますと手紙を送った切り、何も言はなかった。事実上の無視だった。

 福沢諭吉に説明しても無駄だと思ったのか。むしろ、福沢諭吉にわかる言葉では説明できないと思ったやうにわたしは思ふ。
 榎本武揚は行動によって生きようする武士だったから、自分の行動を言葉で説明する気もないし、そもそも言葉で説明できることなら、行動は必要が無くなる。

 福沢諭吉は、一生、言葉だけで生きた。言葉に閉じ籠った。理屈をこねまはして、これが正しいあれはオカシイと、合理に努めた。
 これがつまり啓蒙家になるといふことだ。

 福沢諭吉は言葉の外には一歩も出なかったのだから、現実の中で悪戦苦闘する榎本武揚とは、同じ時間で生きてゐても、存在してゐる世界線が違ってゐたのだ。

 言葉の中で生きてゐる福沢諭吉に、ルソーの言葉がすんなりと入ったのは当然のことだ。
 自由とか平等とか民主主義といったものは、抽象概念で、具体性がまったく無い。言葉だけだ。
 それは、
数の1と、現実の中で、
「ひとつ」「一個」「一羽」などと数えられるものとの関係に似てゐる。

 自由、平等、民主主義といふ言葉はあるが、具体的にそれがなんなのかといふと、無限に具体例が挙げられるか、さもなければ一つもそれらしいと納得できるものが出て来なかったりする。

 国民一人一人が政治に参加するといふのは、数の1に相当する抽象概念だ。
 実際には、選ばれた人(選ばれるために名乗り出た人)の少数が政治を行ふ以外の現実は無い。
 数の1自体を探してもどこにも無いし、或る思想や制度が1だと盲信した人々が権力を握って国民たちに、その「理想」を無理強いすると、共産主義者たちが行ったやうなものになる。

 

 さういふ抽象概念を振りがさして現実をコントロールしようとするのは、西洋の一神教の伝統だった。
 そのやり方は今も続いてゐる。
 そのやり方しか、西洋は、知らないのだ。

 福沢諭吉は、そのやり方を明治の日本人に紹介し、このやり方は自由民権運動などの現実化を模索しながら敗戦を迎へた。
 
 そして、自由と民主主義の総本山であるアメリカから、占領軍といふ伝道団体が来て、自由と民主主義の宗教教育が始まった。
 
 教育を通してアメリカ民主主義に一人残らず洗脳された日本では、わたしたち日本人はみんな宗教四世とか五世とかである。
 この自由教民主教の宗教国家では、福沢諭吉は野蛮な日本で伝道に励んだ、自由と民主主義の先駆者の一人である。

 だから、日本国家の発行する紙幣の肖像画にも使はれてゐる。

 

 


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