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ピタゴラスイッチな社会

筆者はピタゴラスイッチが好きである。ピタゴラスイッチ、初めて耳にした方も居ると思うので説明しよう。ピタゴラスイッチとはNHKの教育番組で「何気ない日常に隠れている不思議な構造や面白い考え方を紹介する番組」とはWikiからの引用であるが、簡単に言うとからくり人形やドミノ倒しのような無意味に動く仕掛けの動きを観察する番組である。筆者が子供の頃にはテレビのスペシャル番組で巨大ドミノ倒し企画などがたまにあったが、それも筆者は好きだった。ただ大小様々な大きさの板を何時間も掛けて並べて、倒すだけのとてつもなく無意味な行為にテレビの前で熱狂した。それを小規模ながらより複雑な機構にして制作し続けているのがピタゴラスイッチという番組である。

番組の中に現れる圧倒的に無意味で、にもかかわらず緻密で複雑な機構にどうしてこれほどまでに惹かれるのか考えてみたい。筆者は建築の設計に関わる仕事をしているため、なにかの形を考えたり、構造等の物の成り立ちを考える機会が多い。建築の設計において設計図やCGをつくるのも、ドミノ倒しやレゴをつくることと基本的には同じようなものだ。ただ、創作から完成=ゴールまでの道程の自由度はかなり違う。建築の設計はクリエイティブな仕事の中で条件が多く自由度が低いとされているからだ。ドミノも建築も良い物は作る過程にひらめきのアイデアがあふれているが、ドミノは倒れさえすれば極論は何でも良い。当然だがそれとは違って建築は使い方を想定してその機能を満たす必要がある。さらに、建築の場合はなにかアイデアを見つけた時に、うまく形にするまでの検証が長く、ハードルが多い。例えば家を設計している時に「階段下のスペースにトイレを納めることでリビングが広くなる!」と思いつき、図面を書いて検証する。すると思ったより階段が急になり建築基準法上でNGになるとか、そうではなくとも構造計算をすると柱の位置が悪くなるのでNG、というようなことがしばしば起こる。ひらめいたアイデアを時間をかけて検証した結果、何重にも網を張られた複雑な条件をクリアできずに諦めることが建築の場合は特に多い。

そんな日常からピタゴラスイッチで活躍する仕掛け達を眺める。すると、ただボールが転がるだけ、板が倒れるだけというあまりにも無意味なことを、複雑な構造や仕組みの中に多くの無骨なままのアイデアを組み込んで実現しているように見える。その姿があまりに軽やかで爽快で眩しくて悔しくすらあるのだ。勝手に想像するに、ピタゴラスイッチでは作る過程で生まれるひらめきやアイデアを思い切りドライブさせて実現されているように感じる。機能的な条件や制約の少なさゆえに生まれる創作である。わかりにくいので例えると、ボールが転がってドミノ板に当たるシーンがあったとしよう。そこでボールじゃ普通なのでボールを卵にしてみよう(アイデア1)、卵なら割れた方が面白い(アイデア2)ので、落として割れた卵の白身によって濡れた紐が切れて弾けた板がドミノ板を押す(アイデア3)ことにしてみよう、というように複数のアイデアが連鎖的に起きてそれをそのまま形にして映像にしてしまう。なんと軽やかな創作でしょう。建築に関わっている側からそんな事を考えながら番組を見ていると、無骨な思いつきをあそこまで一貫して形にできたらどれほど気持ちが良いだろう、と羨望の眼差しを向けてしまうのである。

ピタゴラスイッチの無意味で壮大な機構を見ていると、それが人間社会の縮図のような気さえもしてくる。人間社会では経済成長や文明発展という大義はあるにはあるが、結局の所は多くの個人はその大義を目指しているわけでもない。適材適所で個人が各々の楽しみ方で幸せな時間を過ごすことが結果的に社会全体の発展や成長に繋がっている。個々の歯車(アイデア)に目的や意義はなくても良くて、動きが早くても遅くても良く、重要なのは周りの動きに連動すること、連動したエネルギーを他に伝えることさえすればよく、あとは面白ければなお良い。エネルギーが面白く伝わることに意味があって、そのエネルギーが何かにならなければならないわけではない。人や環境から面白い影響を受け続けることと、人や環境になにかを面白く伝え続けること、その2つさえ続ければそれでいい。ということがピタゴラスイッチ的哲学の教えの一つなのかもしれない。

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