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「天才」は「教育」できるのか?【映画評】『セッション』(原題: Whiplash) デミアン・チャゼル

ジャズドラマーに憧れ、名門音楽学校に入ったニーマン。そんな彼に、鬼教師だが、実績あるバンドの指揮をとってるフレッチャーに目をかけられる。意気揚々とレッスンに向かうニーマンだったが、そこで待っていたのはひたすら完璧な演奏を引き出すためには暴言も暴力も辞さない指導だった。その中でも必死に食らいついていくニーマンはあるきっかけからメインドラマーに据えられる。だが、フレッチャーのレッスンは日に日に厳しさを増していき、文字通り血ににじむ努力でメインドラマーの座を射止める。

「天才」は「教育」できるのだろうか?大学でイノベーションやアントレプレナー育成に携わる筆者にとってはそのような「教育論」としてこの映画を観た。暴力・暴言を肯定するわけではない。しかし、どんな業界でもあるレベルから上に行くには大きな壁があり、そこを超えられる人と超えられない人がいる。この違いはどこにあるのか?ニーマンは恋人もすてて、ひたすらフレッチャーに対峙した。怒り、憎悪、プライド、妬みなどいろんな感情が渦巻く中で、ニーマンは最後にフレッチャーの想像を超えていった。

「天才」は「教育」できるのか。それはわからない。ただ、ついていける師がいることは重要でないかと私は思う。フレッチャーが良い師かどうかというのはニーマンにしかわからない。しかしフレッチャーがいなければ、彼は最後の壮絶な戦いに勝つことはできなかったであろう。

ところで、クライマックスの音楽のやり取りのところ、「セッション」なんて生半可なものじゃなくて原題の『Whiplash』のほうが正しく言い当ててると思うのだが、『ゼロ・グラビティ』しかり『セッション』しかり、原題の方がよいのに邦題をなぜかえてしまうのか?

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