死についてのひとつの考察としての魚の最期


 いま、この、『分解の哲学』という本を読んでいる。食べることについての本を何冊か選んで読んでいた過程で、amazonのオススメリストに出てきた本だ。食を扱う分野では発酵が注目を浴びて久しいので、表題の通り分解の話もその流れの下流(あるいは上流)にあるのではないかと思ったのだが、ところがどっこいこの本は食べ物の本でもなんでもなくやっぱり哲学書なのであった。

 この本を読み始めたとき、ちょうど自宅の熱帯淡水魚の水槽の中で3年ほど暮らしていた大きなコリドラス(アルビノ)が死んでしまい、それを息子と共に観察し始めたところだった。
 息子は、夏に死んでしまったザリガニを土に還した経験をよくおぼえていて、『このお魚も土に埋めよう』と進言してくれたのだけれど、ふと、そのままにしていたら同じ水槽の中のヤマトヌマエビたちが餌とするのではないかと思い、『エビさんたちが食べるかもしれないから放っておいてみよう』と提案してみた。

 ザリガニを埋葬したとき、こういうときは祈るのだとか、もっと深く埋めろだとか、さまざま彼に宗教的な死の側面を伝えようと躍起になったものだけれども、透明なガラスの向こうで少し骨が見えてきていた(おそらく死んでから少しずつエビが食べ始めていた)金色の魚への好奇心が、埋葬儀式との矛盾をすっかり吹き飛ばしていた。

 子が毎日餌をあげている水槽の中の仲間が死んで、それがまたその仲間に喰われ朽ちていく様子を観察しようというのはなかなか残酷な行為なのかもしれないが、なぜかこれまたちょうど春に向けて始めたばかりのコンポストに毎日食物の残骸を放り込んでいたわたしの中では、「死んだ魚をどうするか」→「コンポストに入れるよりはいい」くらいの認識なのであった。(それに、わたしと息子がこの夏に飼っていた蟻地獄に喰わせたダンゴムシの数を考えれば、たいしたことでもない。)

 さてこのアルビノの分解は、あっという間にエビがやってのけてしまった。ここでいう分解は生化学的な分解とは程遠い、大雑把な解剖に近い分解であったけれども、死骸を見つけて三日と経たないうちに、食べ尽くされてしまった。途中、生き返ったのかと思うほどの移動も見せた(エビが運んだのだろう)アルビノの最期の姿は、清々しいほど生き物だった。

 件の本の中で、九相図についての話が出てきた今日、この魚の朽ちていく様子を思い出さずにはいられなかった。生きていたものが命を失ったとき、その魂と身体を埋葬によって祀ろうというのは高度霊長類としての特徴のひとつかもしれないが(「花と共に埋葬された最初の人類」はネアンデルタール人だった)、目の前の身体という物体が命を失ったあとどのように変化するかにも興味を持つのもまた、人間なのだと思った。

 コンポストの中で土に還る食物のように、樹木葬で地球の一部となりたいと願う人間の、根本的な身体への理解は「自然とともにありたい」ということに集約されるのかもしれない。

 6センチを超える大きなアルビノの魚が水槽で動かなくなったことに、気づいていたのかいないのかもよくわからない夫(我が家の無機物担当者)は、死骸をエビの餌としたことに一瞬言葉を失っていたが、その横で子は「エビさんが食べたんだよネ」と無邪気に説明していた。わたしはわたしが死んだあと、子が「お母さんは死んで微生物に食べられたんだよネ」と話してくれることを望んでいる。

 魚の死骸の観察も、死についてのひとつの教育、なのだろうか。