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子も親も快適環境を拡張するのをやめてみる

子を自然に連れ出したら、あまり、関わらない。声をかけられるまでは、存在を目の端に入れながら、自分は自分で楽しむ。

子はそんな親を見て自然を楽しむことを知るのだろうし、同じことがやりたければ模倣し、自分なりの遊びを見つければそれに夢中になる。

0の頃から、遊びに出るときにオモチャを持たずに出かけるようにしていた。家の中のお気に入りを外に持ち出したら、そりゃいつも通り楽しめるのだけれど、それは快適環境を拡張しているだけで、新しい経験としての価値を損なうのではないかと考えている。

快適環境を提供することは、単純に親のメリットに繋がっている。いつも通り大人しくしていてくれる、とか、予想外の対応に追われなくていい、とか。でもそれが外に連れ出す目的ではないよね、と思う。

家の中は季節に左右されない快適さを求めるものだから、それを拡張したら季節も何もない。新しい発見もない。条件の揺さぶりもないし、結果、応用も対応もない。

楽だけどね。
親の楽、は、刺激の少なさに直結してるのを忘れてはいけないと思う。

子どもを自然に連れ出して、親は近くで静かに季節を楽しむ。放っておけば子どもは自分で何かを見つけるし、走り回り、登り、飛び降り、時々泣いたりする。何かあれば親を呼ぶ。目の端に捉えていれば十分なのだ。

大切なのは親がひとりでも外を楽しめるかどうか、なのかなと思う。というわけで今日、わたしは子が飽きるまで八重桜を摘んでいた。塩漬けにして蒸しパンに混ぜ込んで、子どもと食べたい。