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絶望が最後の希望ということ。



人って実は、自分のためには生きていけないようになっているのだと思う。

「私」の為には生きていけない。


かといって、

私ではなく「誰か」の為に生きるという意味でもない。

それも結局は、

「私の」

大切な人、大切なもの、
大切なコミュニティ、大切な社会、大切な国、大切な自然。

つまりは 私の世界。の為だから。





私が、私に、私は、私を、私の、

望みを叶えるために。

そんなふうに生きても、
、、例えそれが全て叶ったとしても、

完全に満足する日は死ぬまで来ないし、
死んでも来ないし、
完全に安心することも無い


望みがどんなに叶っても、
「でも」と思う。「まだ、」と思う。

もっと、もっと、と彷徨うことになる。
もっともっと。もっともっと。


この世界は

希望と絶望が ワンセットだから



というか
絶望は常にそこに在るのだけど



私たちは そこを直視しないように育てられる。成人して歳をとっても未だ、社会に育てられている、躾られているので


絶望するのは悪いこと、
何かしら良くないこと、
避けねばならないこと、
負けたこと、
そこに触れずに、
出来れば絶望の匂いすら嗅ぐことなく生きていけたら大成功。

そんなふうに。



・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・



アイスクリームのカップを
スプーンで上の方だけすくって舐めて

「なるほどね」と頷いて

次のカップ、次のアイスへ。

カップの底に何があるか、
決して見ることは無い。


そうすれば、

絶望も本当の絶望では無く、
歓びも本当の歓びでは無く

本当に何かを感じることは無い。

そのおかげで

「次こそは最高のアイスクリーム」って、
「私のアイスクリーム」のために
生きていける。


別にそれは悪い事じゃない。
良くも悪くもない。


それに 道はそれぞれだから、

走り続けて1億のカップアイスを
1口ずつ食べた結果、なんかおかしい。と気づくこともあるかもしれないし

気づかなくても、全然いい



でも 例えば
わたしというこのキャラクターは

本当の歓びじゃなきゃ嫌だ!
永遠じゃないモノなんて嘘だ!
本当のことが知りたい!
そう感じてしまうので


人生で一度くらいは
なんの為にアイスを探して彷徨うのか、
よく考えてみるのもいいよねと思う。
もしもその流れが来たなら。


普通は それだけは考えないように
現在進行形で 厳しく
世界に「私」に、躾られているし



その世界を作った理が、

それを考えること自体に
微かな罪悪感を抱かせるかもしれない



でもよく考えたら、シンプルに
誰でもわかることでもあるから。


「それは、なんのため?」


真剣に考えて

そのあとで、


このまま また「次のアイスクリーム」を探しに行くか、それともカップの底を見てみるか、決めるのも良いよねと思う。


もちろんそれさえも、
「私」にはどうにもならなくて


「次のアイスクリーム、、」と思っているのに、何もかも取り上げられる事だって
起きてくるけれど。




絶望であるなら、希望でもある。









・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・



本当の歓びが知りたければ、

スプーンは垂直に入れなくてはいけない。

浅い角度では何一つ知ることは無い。


もし、本当の歓びを知ったなら、

本当の絶望も知らなくてはいけない。



もし、本当の絶望が訪れたなら、

いつか本当の歓びを知ることになる。

そのときは、真の歓喜から逃げないこと。




真の歓喜の香りがした時、絶望から断末魔をあげて「私」が戻ってくる。

「これでは無い別のアイスクリームを!!」

そんな、引き返す力が働く。
それはとても強いエネルギーを持っていて

気絶しないように抗うのは
もう聖戦といえる。

きっと何度でも引き戻される。




でも、、

何度 引き返しても、さまよっても、

結局のところは、大丈夫。

大丈夫なのだ。


大丈夫って何が!!って
めちゃくちゃキレても、暴れても、

それでも大丈夫なほど、
さっぱり意味がわからないほどに、


大丈夫なのである。

やんなっちゃう。








天国でないなら、
そこは地獄だということ。
そしてそれは恐れる事ではないから、
誤魔化す必要がない。

絶望のカタチをとっていても、
終わりの始まりに違いないこと。

世界をひっくり返そう。



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